退院してからのフォーローは、私が働いていた病院でしてもらうことになったが、幸太郎は、普通の方が受診されるように外来で座って長時間待てるような状態ではなかった。
熱も毎晩38℃以上の高熱が出て、解熱剤で熱を下げ、食べれるものは、お粥や豆腐が中心で、水分もほとんど取らず、排尿も1日2回程度。顔はむくみ、痩せていた体はもっと痩せてしまっていた。
退院してから、軽い抗ガン治療をする予定だった。
これは、1クールに1週間かかるようなものではなく、外来で数時間の点滴での治療。
でも、この抗ガン治療ができるかどうかは、採血の結果次第。もし、免疫機能や他の臓器のデーターが悪くなっていたら、見送られることになる。だから、そのためにも採血をどうしてもしなければならなかった。
ここで役立ったのは、私の看護師免許。
働いていた病院の看護部長は、私がその病院で働き出した時に勤務していた病棟の部長。
その部長の出勤経路は、私の家を通過していく経路。
事前に採血するための道具をもらっておいて、当日の朝、私が幸太郎の採血をし、そのスピッツを朝部長が出勤する時に寄ってもらって提出する。
この方法で、幸太郎の血液データーを把握することになった。
私が病院を辞める時、看護部長にはとてもお世話になった。
幸太郎の病気は、10万人に1人。そんな病気で息子が入院することになり、私が退職したいと申し出た時、部長は相談できる医師、手術室の部長、退職金やその他の手続方法を教えてもらうための事務長に全員声をかけ部長室に徴集してくださった。
そして、退院後の採血の受け渡しも、病状の相談も、車椅子の手配も全部して頂いた。
そのお世話になった方達が、このブログを読んでくださることはないと思いますが、ここで感謝を述べさせてください。本当にありがとうございました。
その部長に採血したスピッツを手渡し、採血結果のファックスと主治医からの指示を待った。
結果は、「抗ガン治療ができる。」だった。
でも、私は決めていたことがある。
それは、抗ガン治療をするかしないかは、「幸太郎の意思に任せる。」ということ。
原爆なみの抗ガン治療をしても、幸太郎の腫瘍は小さくならなかった。
でも、全く抗ガン治療をしなければ、腫瘍は成長する。
でも、抗ガン治療をするためには、病院へどうしても行かなければならない。
でも、抗ガン治療をせず、このままなのは『死』を意味する。
散々、抗ガン治療の副作用で苦しんできた幸太郎に、顔がむくんで体が痩せて、動くのも大変な幸太郎に、私が判断する権利などなかった。
「幸太郎、抗ガン治療できるって。どうする?」
「・・・延長して・・・」
「わかった。」 今回は見送ることを、看護部長に連絡した。
ところが夕方になって幸太郎が
「やっぱりするわ。」 そう言った。
私は、直ぐに部長に電話をし、入院の手配をしてもらった。本来なら外来でできるが、体調が悪すぎるため入院して行うことになった。
幸太郎に、何故気が変わったのか聞くと
「できると聞いた時は、動きたくなかったけど・・・今週中にしないと、やばいと思ったから。」
そう答えた。
幸太郎は、『生きること』 を選択した。