原爆のような抗ガン治療をして、幸太郎の体は大きなダメージを受けた。
それでも耐えたのに、腫瘍は小さくならなかった。
入院している胸部外科でも手術は無理だと言われた。
国立がんセンターに主治医が問い合わせてくれたけど、そこでも手術は無理だと言われた。
主治医が、「東京の順天堂大学病院に胸部外科のゴットハンドを持つと言われる医師がいるから紹介状を書きます。」と言ってくださった。
私には、わかっていた。
「私が私自身を納得させるため」にセカンドオピニオンを勧めていることを。
そして、私は、私自身を納得させ、後悔しないために東京へ行くことにした。
12月6日から幸太郎も一緒に外泊し家に帰った。
そして、12月10日東京に向かった。
東京には、親友の博子さんが一緒に付き添ってくれた。
名古屋は大雪で新幹線のダイヤが乱れていた。
それでも何とか乗り込み、東京駅で待つ医師である甥と合流し、順天堂大学に向かった。
甥は、とても思いやりのある子で、幸太郎の見舞いにも東京から何度か来てくれた。
甥も、幸太郎の病状の説明を受けたいと同席してくれた。
ゴットハンドを持つその医師は、とても穏やかでハンサムだった。と日記には書いてあります。
レントゲンやCT、MRI、血液検査等を診て、
「こういう腫瘍は、メスを入れた瞬間に大量の出血で止血できない。輸血をしながら手術を行っても結局DICを起こして亡くなる。それに心臓を圧迫しているため、心停止を起こすと血管が破れてしまう。ただ、腫瘍が小さくなって心臓が元の位置に戻ったら手術は可能だが、すでに血管内にもがん細胞がはびこっているため、腫瘍を取り除いても3ヶ月もしないうちに再発する。」と。
もうすでに、奈落の底に落ちている私の心は、落ちるところを失っていた。
家で待っている幸太郎や主人にはなんて言えばいいんだろう・・・
メールを送った。
「腫瘍マーカーがもう少し下がって、腫瘍が小さくなったら手術してくれるって。」
これが、私の精一杯だった。