観念は、どうやって創られるのか。

 

  私たちは、輪廻転生を繰り返してきました。

それぞれの人生の中で、生まれて生きて、色んな体験をして、色んな感情を持つという体験をしながら学び、そして肉体の死を迎える。

それは、まるでゲームそのものです。

 

 「今回の人生は、どんな人生にする?」

 「そうねぇ、こういう事を学べるように、大金持ちになって、こんな人生を送って、こういう体験をして、その中でこういう事で苦しんだり、泣いたり

  して、でも、結果的にこういうことが学べる。みたいなのどお?」

 「それいいね。前の人生では、とても貧困にあえいで、こういう学びがあったから、調和を取るためにそういうシナリオいいかもね。」

 「でも、ここだけは気づけるように、ヒントをセットしておこうよ。」

 「そこで、気づきがなければ、次のヒントをセット。」

 「そうね。じゃ、それでいこうか!」

  なんて、本当はこんなレベルの話しじゃないけれど、もっともっと高次で、もっともっとすごいレベルなんだろうけど、

 でも、肉体を持っていなかった私たちには、こういう創造は、何でもなかったんだろうと、そう思います。

 

  でも、こうやって輪廻転生を繰り返し、その都度色々な学びをしてきて、でも、もうそろそろ

「何のために生まれてきたのか」を、肉体を持ったままで思い出し、肉体を持ったままで、『本質の自分』と出会うタイミングがやってきたんだと思ってるんです。

 

 この『本質の自分』とは、あなたを創ったあなたが、この肉体を使って今世で、こういう役割をするために生まれようと決めた、あなたです。

そして、その役割が何かわかったら、それからの人生は、好きに生きていいよ。っていう具合に。

 

 この『本質の自分』に出会うためには、この『観念』が壁となってしまうのです。

では、観念はどうやって創られるのか。

 

 私たちは、生まれると必ず誰かに育てられます。

その誰かも、誰かに育てられました。※誰かにを繰り返すとわかりにくくなるので、親と子と言うことで書きます。

 

 親も、その親に育てられた。

 先日書いたように、父親がいつも母親のことを「女のくせに!!」という、そういう家族の中で育ったとします。

こういう場合、父親の父親も同じような人だったか、母親の父親がそういう人だったかのパターンがあります。

色んな設定パターンがありますが、

今回は、父親は頑固もので、人の話しは聞かず、自分の言い分を通すような人だとします。

母親は、いつもおどおどしていて、たまに自分の意見を言うくらいで、周りのご機嫌をいつも伺っていて、でも勇気を出して

何かをした時、夫である父親が「女のくせに!!」と言ってくる。そんな両親だとしましょう。

 

 あなたが、息子だった場合、おどおどする母親が大嫌いで、父親と同じように、女性をさげすむのが当たり前と思うか、自分が結婚したら絶対に妻になった女性には、そんな態度を取らないと思うか。

 あなたが、娘だった場合、そんな父親が大嫌いで、絶対に男より上になってやる!と思うか、怒られないように自分の感情を押し殺すようになるか。

青い文字のところが、あなたの観念になっていくのです。

 

 人は、必ず、〇〇は嫌だから、△△になろう。 ●●が当たり前だから、××は間違っている。と、この体の五感を使って体験したことを知らずしらず比べ、良い悪い。好き嫌いと判断をしてしまいます。

この判断基準は、自分の生きてきた人生が尺度になっています。

「どちらでもいい」と言う状態なら問題ないのですが、「こうでなくてはならない」が強く出ると、これが人間関係や仕事と人生にトラブルが生じます。

 

 例えば、上記の娘さんの「絶対に男より上になってやる!!」を言う観念を強く持ってしまうと、何かと男性のことをさげすむような態度を示し、結果的に必要なところで協力を得られず、「だから、男はダメなのよ!!」と、どんどん関係が悪くなり、「こんな会社、辞めてやるわよ!!」なんてことになり、次の会社でも同じことが起こり、でも自分が会社を辞める原因は「男のせいだ!」となるわけです。

 

 でも、本当は、このトラブルがチャンスなんです。

自分の無意識の中にある『観念』を溶かして捨てることができるチャンスなんです。

これは、『本質のあなた』が、

 「その観念があると、あなたは心が重いでしょ?体が重いでしょ? 

  あなたはただ、両親を見て、そう信じただけ。

 その観念を捨てると、どんなに押しても開かなかった扉が開いて、別の世界へ行けるよ。」

そう、教えてくれてるんです。

 なんせ、人は、嫌なことが起こらないと、立ち止まって考えようとしないからね。

 

 そうなんです。嫌なことが起こったら、ストップの愛図