日本映画ブログー日本映画と時代の大切な記憶のために -36ページ目

日本映画ブログー日本映画と時代の大切な記憶のために

日本映画をひとりの男が見続けます。映画はタイムマシンです。そういう観点も含め多様な映画を解説していきます。範疇は作られた日本映画全てです。

座頭市物語
1962年 大映
監督:三隅研次 主演:勝新太郎、天知茂、万里昌代、柳永二郎、島田竜三

先月、ブログ再開とか言ってしきれなかった私です。今度は、本当に再開?しかし、映画とは見なくなるとどうにかなるもので、まあ、私もそれほどの中毒ではないのでしょうな。で、今回は本気で再開なのでまずは勝新の代表作。とはいえ、彼のシリーズものとしては「悪名」につぐものである。悪名が娯楽アクション映画としてしっかり成立しているのにたいし、座頭市の居合抜きというのは静かなもので、アクションというよりは少し哲学的なものを狙ったきらいはある。つまり、主人公が目を見えないことで、世の中の本質的なものを見る的な部分である。とはいえ、会社もそれほど最初から力を入れているとは思えない。ライバルが天知茂で、市を恋するのが万里昌代という新東宝流れの役者であるからだ。それが、他のシリーズと別の色合いを作っているのも確かなのだが・・・。

勝は昔しっていた親分(柳)を訪ねてわらじを脱ぐ。柳は市の居合を知っていて、彼を上手く使おうと思っていたのだ。だが、勝は居合の実演を断ったり柳の思うようには動かなかった。勝は釣り場で浪人の天知と知り合う。天知は柳と敵対する島田の組に厄介になっていた。柳と島田は一触即発という中、柳はなにかあったら勝に手伝えと手付を渡すのだった。勝は意味のない殺生は乗り気ではなくかわそうとする。そして、相手の天知の家に行き一緒に飲んでいたりした。そんな勝を居酒屋の女(万里)は愛するようになる。出入りがあるというとき、天知が病に倒れているという報が入り、柳は勝は必要ないといって追い出す。勝は天知の見舞いに行くが天知は島田が鉄砲で勝を倒そうとするのを聞き、それはいかんと自分が戦うとでていったあとだった。天知は血を吐きながら戦う。そこに勝があらわれ、天知は一対一で戦うことを望む。結果は勝の勝ち。柳の組が結果的には勝ち、いい気になる柳がいたが、勝は盃も受けずにさるのだった。そこには一緒に旅立とうとする万里がいたが、勝はそれをさけて旅にでるのだった。

盲と病気の侍の話である。そういう意味では実に不健康だ。そして、喧嘩をしているやくざたちは、自分のことしか考えないチンピラ風情。あくまでも、そこには世情への風刺があるわけだ。それを「ばかばかしい」と思いながらもかかわらざるおえない盲目の座頭市はそんなに格好いいものではない。

勝新太郎はだからこそ、そこに魂を入れることに永年こだわったといってもいいのだろう。どこか、そこには自分に近いものが有り、どんどん同化していったという部分もあるような気がする。

とはいえ、この一作目、目の覚めるような傑作ではない。あくまでも座頭市の生き方のお披露目といったところ。だが、三隅監督はテーマ性をかなり考えて撮っている感じがする。ラストの出入りのシーンの中で、庶民が法華の太鼓をたたき祈るシーンがカットバックされているようなところは、意味深く感じるし、ラスト、柳の子分が勝を斬ろうとしドブ川に落とされ朽ちるシーンは、世情の汚れの中に醜いものが同化していくような感じもした。

そんな作品で朽ちてくライバルが天知茂なのは、ある意味、新東宝から流れてきて漂流中という感じの彼とも同化するのは偶然なのだろうか。同じく、新東宝出身の万里昌代は、ここでは美しい村娘としてお色気シーンは皆無で良い役をもらっている。彼女を語るときに「座頭市」はかかせないものであり、そういう意味では、彼女にとって最も美しい時節に勝に巡りあったのかもしれない。ここにも、私は数奇な運命を感じたりもする。

そして、バックに流れる音楽は伊福部昭である。その重厚感ある劇伴は黒澤明映画的でもある。そう考えると思い出されるのは勝がおろされた「影武者」であったりもする。そして、黒澤が座頭市を撮っていたらどんなエンターテインメントとして仕上げたのだろうかかどという妄想も広がるのだ。

そういう意味で、この一作目はすごい映画ではないが、当たり前だが、勝新太郎を語る上では絶対に必要な映画であり、座頭市=勝新太郎というありかたをここを起点にじっくり考えなければいけないのだろうなと思うわけである。

もはや、若い人は座頭市も勝新太郎も過去のものであり、触れる機会も少ないというのが本当のところだろう。まずは大映で作られた初期作品をみながら、勝新太郎を振り返ることにしよう。

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南から帰った人
1942年 映画配給社(製作:東宝)
監督:斎藤寅次郎 主演:古川緑波、高峰秀子、入江たか子、三谷幸子

1942年の5月封切り。ミッドウェー海戦が6月だから、まだまだ追い風だった時の国策映画。マレーで事業をしていて戦乱で日本に帰り、さえない男が志願で軍に向かうまでの話。最後の方に海戦シーンが意味なく入り、いかにも国策映画です的なフィルムである。見所は、高峰秀子のセーラー服か?この年18歳である。

古川はマレーから帰ってきた男。戦火で追われて帰ってきたのだが、皆には古いアパートに住んでいることを陰で悪く言われたりしている。姪の高峰は高校生で古川からマレー語を教えてもらったりする。その習った言葉で同級生の三谷をからかったりしている。古川の昔の恋人は三谷の姉(入江)だった。ある日、古川は思い切って会いにいく。その姿をみて、「帰れ」という三谷だった。古川が高峰の叔父だからである。そんな三谷は熱を出して寝込んでしまう。悪口を言ったことを悔い、入江に古川と高峰をよんでもらう。高峰と三谷は仲直りをする中、古川は志願でマレーに兵役に出発するのだった。

斎藤寅次郎作品だが、喜劇色はまったくない。原作菊田一夫のシリアスな国策劇というところだろう。だが、いまひとつ古川の身の上が明確に描かれておらずよくわからない。金持ちだったのが、マレーから追われて金をなくした的な話がでてくるが、ただの噂にも感じるからだ。どんなにおちぶれても、国のために戦へという感じのテーマなのだろうが、そこに変な高校生の痴話喧嘩がはさまるのがなにかバランスが悪い。

古川と入江も昔、許されぬ恋人的な仲だったらしいが、こちらも明確に説明されておらず、その話も中途半端の感じである。その内容よりは、入江が綺麗なのが見所だろう。彼女はこの当時がもっとも美しいころである。

高峰のセーラー服姿はなかなか華麗だ。戦地に彼女のプロマイドを持っていった青年が多かったことはよくわかる。戦時中の華である。

斉藤監督の演出は今一さえないのは、あまりドタバタができない状況にあったのだろう。この映画も監督らしくみるからに早撮り監督が撮った感じの映画だが、特に面白みがない低予算映画という感じだ。


大洋の寵児
1936年 東宝(製作:P.C.L)
監督:矢倉茂雄 主演:藤山一郎、宇留木浩、梅園龍子、椿静江、牧マリ

ブログ再開します。このブログをはじめてから一ヶ月以上の休筆をしたのははじめてで、まあ書かないとなると時が過ぎるのは早いものと思った次第ではあります。特に意味があったわけではなく、ただ筆がすすまぬ中、テレビドラマばかりみていたという結果になり、まあ、自堕落な性格がでたというところだろうか・・・。

そして、また映画を見ようとやっとおもったわけで、まずは何をみようかとは考えずにHDDに入っていた映画を観だした。こういうスタンスがもっともワクワクもするものである。ということで、昭和11年の藤山一郎主演映画。以前書いた「東京ラプソディ」よりも前に作られた作品だ。そのせいかはしらないが、藤山の演技もしぐさも子供っぽい。この年彼は20歳ではあるが、まあ当時の歌謡映画であり、アイドル映画といったところか?舞台は海をめざす商船学校の話だが、中身は、女に振り回される女々しい藤山が男になる?話である。

藤山は来年卒業という、船乗りを目指す学生。先輩で5年落第した男(宇留木)がいる。歌ばかり歌っている藤山を注意する宇留木もやっと就職が決まり上海に行くことになる。そんな中、藤山は歩いていたところに走ってきた車のせいでレコードを割ってしまう。車のナンバーから運転していた女(梅園)をみつけだし電話で抗議する。梅園は藤山に興味を持ち学校の寄宿舎に訪ねてくる。結果、藤山は彼女を好きになり、結婚しようと思い田舎の母に会いにいく。許可をもらい東京に帰るが、梅園は「結婚など考えていない」と藤山は振られる。傷心の藤山は宇留木のいる上海に向かう。そこでは船に乗れずに酔っ払っている宇留木とその愛人(牧)がいた。藤山は皿洗いなどをしていたが、歌が上手いことがしれそれで生計をたてる。そして牧との自堕落な生活におちていく。そんな中、宇留木が船に乗れることになるが、藤山が喧嘩にまき込みおじゃんに。そこに藤山の母危篤の電報が届く。宇留木は金は作るから一緒に日本に戻ってやりなおそうという。帰ると母は亡くなっていたが、藤山は改心し宇留木とともに捕鯨船に乗ることになるのだった。

原作は古川緑波となっている。彼はストーリーテラーでもあったということなのだろう。藤山のような歌手と緑波がこういうところでシンクロしているというのも不思議な気がするが、当時の芸能界など今以上に狭い世界だっただろうからわかる気もする。

まあ、藤山一郎が女に振り回され続ける話である。梅園と牧という当時としてはモダンガールという感じの二人にたぶらかされる話である。もうひとり、船で物売りをしている椿がでてくるが、これは庶民的なのに藤山自身はあまり気がないようだ。椿は「東京ラプソディ」でも藤山の恋人役をやっているが、映画を見ている方もこのふたりをくっつけろいうふうに観るだろうから、そういう恋心があまり表現されないままこの映画が終わるのはものたりない。あくまでも、藤山が海の男として一本立ちするという映画らしい。

昭和11年という年はまだまだこういう映画が作られていたというのは興味深い。船乗りといっても軍は一切絡んでいないものが撮れたんだということである。あくまでも海の男=くじらとりや商船乗りみたいな感じなのだろう。

途中、上海に舞台が移るが、当時の現地のフィルムがインサートされる。まさに「上海バンスキング」の時代である。こういうふうに自堕落な生活があったのも事実なのだろう。そこにいる牧マリという女優はバタ臭いからハーフではないか?異質の土地の異質な女という雰囲気はよく出ている。

藤山の稚拙な演技は、先輩宇留木の演技に助けられなんとか映画の中でバランスをたもっているが、最後まで格好悪い役である。まあ、藤山は中で主題歌も含め数曲を歌っているのでそちらがメインなのだろう「丘を越えて」や「影を慕いて」などが当時のライブ風景で見られるのは貴重である。

ラストは捕鯨船のなかなかダイナミックなシーンで終わる。鯨は日本人のタンパク源として貴重だったころの話である。

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