流れる(1956) | 日本映画ブログー日本映画と時代の大切な記憶のために

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日本映画をひとりの男が見続けます。映画はタイムマシンです。そういう観点も含め多様な映画を解説していきます。範疇は作られた日本映画全てです。

流れる

1956年 東宝

監督:成瀬巳喜男 主演:田中絹代、山田五十鈴、杉村春子、高峰秀子


私が最も好きな成瀬作品である。日本を代表する女優たちが対峙して、すごい緊張感が最後まで続く。以前、テレビで岡田茉莉子が「今、女優さんなんて呼べる人いないでしょう」といっていたのを思い出す。こんな大御所の中で芝居をした岡田だからいえるセリフなのである。そして、この癖のある女たちをしきって、これだけまとまった映画に仕上げる成瀬の力量に驚かされる。戦後、これからどうなるかわからないという危うい花街の空気感が見事にわかる。「浮雲」とともに未来に残したい成瀬映画である。


隅田川をのぞむ場所にある置き屋にひとりの女(田中)が女中としてやってくる。置き屋は借金で困っていた。主人の山田をはじめ娘の高峰、そして妹の中北は芸者を継いでいなかった。杉村や岡田茉莉子などの芸者はいたが、商売自体は苦しい。田中が酒屋にお使いに行くと支払がすんでいないといわれる。山田の姉(賀原夏子)も借金はどうすると訪ねてくる。そして、逃げた芸子の叔父(宮口精二)がゆすりにくる。最初は田中が追い返す。山田は別れた夫に詫びをいれ助けてもらおうとするが、結果的には昔の同僚(栗島すみこ)に店を買ってもらい置き屋を続けようとする。宮口が再度訪ねてきて、警察ざたになる。杉村は男に逃げられ騒ぐ。すべてはやり直しと新しい若い芸子を入れ心機一転する山田だった。しかし、栗島は山田をここから追い出そうと策略、田中に料亭をやらないかと誘う。田中は田舎に帰って行った。


原作は幸田文である。そういう意味では林芙美子のものよりは陰気臭い話ではない。だが、おちぶれていく弱い者を見つめるという点では「稲妻」や「浮雲」と同じテーストといっていいだろう。 ただし、この映画が違うのは出ている女優陣の凄さである。栗島、田中、山田、杉村、中北、高峰、岡田と、戦前からの大女優をこれだけ並べた映画は他にないであろう。そして、それをさばききる成瀬巳喜男の力をまざまざと見せつける作品である。


そして、この女優たちのキャラがすべて違くしてあるのはもとより、着物の着方やしぐさで見事なキャラクターづけがしてある。いうなれば「女優合戦」になっているのだ。全編で誰かが誰かと対峙する芝居を要求され緊迫感が続くのは凄い。


そんな中で、田中絹代が全員と置き屋の生活を傍観する形をとっているのがこの作品の妙味だろう。田中はそれぞれの女の個性を理解しながら温かく接するが、最後まで過去に何があった人なのかがよくわからない。役名が「梨花」といい、当時としては珍しく、話かたも品があることから華族の出かなにかというところなのだろうが、彼女の神秘性がこの映画をうまくまとめている。そういう意味では女優合戦は存在感からして田中絹代の勝ちといったところであろう。


そして、杉村の品のなさも好きである。普段の着物の着崩し方から何かいいかげんさがにじみでて、コロッケをかじる姿はなんともいえずカワイくもある。中北も着物が崩れているが、こちらは疲れた感じをだすためであり、少し意味が違う。そんな、微妙な感覚を説明なしに観客にわからせるのが成瀬演出なのだろう。


しかし、そんな年のいった芸姑(映画に中でこの商売30過ぎればババアだというセリフがある)を見つめながら心配をかかえる高峰や、さっさと出ていく岡田の心象風景もわかりやすい。


隅田川が何回か映るが、ここでも女たちが「流れる」という感じの表現としてうまく使われている。「稲妻」と同じように猫がでてくるが、ここでは自由奔放で栄養はよいみたいだ。 ドラマは何も解決しないまま、山田と杉村が三味線を向かいあって弾くところで終わる。未来はそこにはないが、現実は続くといったところか・・・。人間が寄りあい、さまざまな空気をつくる。そのちょっとした空間を封じ込めるように完成させる成瀬演出は決して優しくはない。


でも、人間をまっすぐ見ているという感じがたまらなくせつない。 高峰秀子がでている成瀬作品を5本みてきた。まだまだ、若手の彼女だが、成瀬巳喜男という人に女優として違う面を出してもらったのはよくわかる。木下惠介の映画とは違う彼女がそこにはいるのだ。このコンビのその後はまたの機会にゆずる。


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