「普通」であるということ その1 | 鈴木 彰の ミドル・シニアランナーのためのランニングブログ

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@runnerのCEO、e-Athletesヘッドコーチの鈴木彰が、なるべくプライベートな部分は避けつつ、主に概ね40歳以上のミドル・シニア(中高年!)ランナー向けにランニング関係のあれこれを綴ってみようかなってとこです。

 私は以前、大学生の就職指導を仕事にしていた時期がありました。


 で、3年生になると、自己PRだの、自己分析だのと、いろいろ本格的な指導が始まるわけで、真面目な子たちは、あれやこれやとむりやり自分の長所や短所を並べて、話したり、書いたり~という作業を重ねていくわけです。


 でで、たいてい1学年に1人か2人は、「自分には長所も短所も、特性も何もない。趣味もない。普通です。」といってくるやつがいやがります。


 普通― 本当に普通の学生なら、「ああ、就活が始まったな。自己分析とか、面倒っちぃけど、やんないといけないな。なんかテキトウなこと書いて、これ明日までに提出しないといけないな…」とか考えるものです。それが普通です。そして、個々に、やっぱりなんらかの特性があるわけで、性格も含めての個人差があります。それが普通の子です。


 件の学生は、あまのじゃくだかひねくれ者だか面倒くさがりやだか大人を舐めてやがるだとかいう特性があるわけで、本人がそれに気付いていない(=自己分析がまだ足りない!)か、気付いているからこそ、そういう言動に出るということがあるかと思います。

 どこが普通じゃ、コラ!という感じです。



 ランナー的に「普通」というのは、特別な素質や高い走力があるわけではない…という意味になるのかも知れません。「凡庸」と同義かな?

 しかし、個々の特性・個人差はやっぱりあるわけで、普通ではあっても、多様です。


 多様であるからこそ、画一的にあれこれ出来るわけではない…というところがあるわけで、それがランニングという単純で簡素なスポーツを、良い意味で難しくしてくれます。


 


 「同じ人間だから」~と良く言いますが、人間としての基本・共通性と、人間としての多様性・個人差は分けて考えないといけません。


 普通だから、何もない。なんでも同じ~ではなく、普通だからこそ、多様で、あれこれいろいろ違うということに気が付くと、トレーニングもいろいろ違ってきます。



 つづく~