人のために自分のどこまで犠牲にできるのか。
それが問われた、というより、直面した。
どっちのためになるよう頑張ってきた。
もちろん自分自身もやりたいことだった。
僕たちは現実を生きている。
常に消費を続ける僕たちにはそのために必要なものがある。
大人の行動には責任が伴っている。
責任の所在はどこにあるのか。
言ったことを守る。
約束を守る。
家族を守る。
自分を守る。
これまでどこを最低限にしてきたか。
破綻している今、どこまで守られているのか。
これからどこを守り、どこに向かうのか。
その答えが出れば、行動も変わるのだ。
覚悟が行動を変える。
みんなの笑顔が見たいのか、誰かの笑顔を見たいのか。
子どもというのは健気。
守らなければならない。
子供を守るために親がすべきことは環境づくりだ。
素敵な環境さえあれば、子供はそれにそって素敵に育つ。
間接的に関わるのが一番いいと思ってる。
環境づくり。
家族を守る。
僕の居場所を守ることとなるのだ。
いつの間にか破綻していた。
破綻に気づかずに、まだやれると、無謀で根拠のない自己啓発ほど、自己崩壊を招く。
自己崩壊は関わる人達をも巻き込むのだ。
後悔すべきは、もっと早くに気づき覚悟を持って対処すべきだった。
英断だと思うのは、今ソレが出来たということ。
昨日と同じ明日を過ごすというのは、この先ずっと同じってこと。
昨日を反省し、今日修正し、明日をより良い方向へ。
長い昨日が終わった。
今日を修正している。
少し長い今日があければ、、、明日は変わっているのだ。
土曜日の感覚は土曜日にしかわからない。
本来の土曜日がなんだったのか。
3時間の午前授業のあと、家に帰って、「女の60分」を見ながら昼食。「あなたの知らない世界」だったかな(笑
4時間の午前授業のあと、2時まで学校で青春を謳歌し、それから友だちの家で麻雀っていう青春を謳歌する。
平日できなかった朝から公園でデート。ランチを食べて、映画を観て、夜は夜的に遊ぶ。
平日の昨日と同じで、昨日からの仕事を引き続きだらだらをする。
人生の中でいろんな種類の土曜日があった。
1 2年ぶりの仕事とは切り離された土曜日。
素敵な土曜日。
間延びした土曜日。
何でもないようなことが、幸せだと、、、思うよ^^
察するという能力は自己欺瞞に満ちあふれている。
けど、相手の察する能力の色を知っていれば多くを語らずとも伝わるもの。
これが信頼だ。
相手の身勝手な行動。
行動には理由がある。
それが自身を落とし込めるとしてもだ。
相手は知ってる。知った上での行動で、そうせざるえない状況である。
子供の嘘に似ている。
親の威圧をさけるため嘘をついて凌ぐ。
誰が悪い?
嘘をついた子供か。
嘘をつかせた親か。
もちろん、大人同士の付き合いは親子関係とは違う。
ただ、信頼度が高け れば、親子以上にだってなる。
人生を賭けているのだ。
子供に嘘をつかせないためにはそういう環境が必要なのだ。
相手の水面下の犠牲を知るには、水面下に目を凝らすべきだったのだ。
サインはいつだって示されている。
。
人生の分岐点があった。
うまく分岐したかまだわからないけど、その時々で取れる最良の方法を選択したと思う。
勢いもあるけど、思慮深く、ひとりだけの決断じゃない。
すべての人にいい顔なんて出来ない。
人からどう思われるかじゃなくて、自分がどうあるか、、、この大切さ。
少々強引ではあったけど、体感しました。
人のことなんてわかるわけがない。
どう見られるかなんて、何をしたってわからない。
そんな事ばかり考えて生き るのは間違ってる。
自分がどうあるべきか。
この思考で進めば、いつの頃か、魅力は溢れてくるだろう。
よくも悪くもね。
日頃の行いです。
身の丈です。
自分は自分以上でも自分以下でも無いのです。
ごく当たり前なことをしなければ、当たり前なことをされなかった人は最終的にこういう行動を取る。
っていう行動をとった。
自分がすることは、相手もする。
相手にそうされないようにするには、当たり前なことをちゃんとすればいいだけ。
そういうことなのだ。
目の前のことに努力する。
だから、目の前にこないよう、画策するんだ。
努力してしまうんだもん。
目の前に来る前に、なんとか対処する。
それが、環境を整えるってこと。
「ドンドンしない」
って、怒りたくないから、1階に住む。
「なんとかするよ」
って、言いたくないから、距離を置く。
でも、嫌いになりたくないからって、好きにならないってことじゃない。
環境を整えるって、そういうこと。
長年連れ添った自分なんだ。
自分のことくらい知ってるだろう。
自分の変えられない性質だって判明してるでしょう。
自分を変えられないのなら、環境を整えるしかない。
ルールは自分を縛るものじゃない。
整った環境の中での自由こそが自由で、楽で、安心できる。
人によっちゃ、大変だねっていう環境でも自分の資質的には楽だったりする。
だから、洗濯するし、食器洗いだってする。
僕はいつだって自由なんだ。
だいぶ、落ち着いてきたみたいだよ。
気持ちが安定してきた。
怒涛の波が落ち着いたんだろうね。
ここからが大事。
冷静さが大事。
ここからが本当にやりたいこと、やらなければならないことが見える。
瞬発的情熱ではなくて、湧き上がる情熱。
これが大事なのだ。
憤りだけで動いても、気が晴れるだけ。
そういうことじゃない。
いや、そういうことか???笑
まぁいい
もっと現実的に、もっと未来的に、行動すべきなのだ。
時間が解決してくることは時間に任せればいい。
その解決がより良い方向へ流れるための努力をすればいい。
どんなに努力したって解決まではできない。
時間が必要だったのだ。
そして、その時間も経過した。
ある程度だけどね。
次の一手。
さぁどうする。
現状維持だって大変なんだ。
いつまでも幸せじゃないように、いつまでも不幸じゃない。
いつまでも現状を維持するには、いつまでも変化し続けなくてならないっていう矛盾。
人は歳を常にとってるし、常に経験と反省を繰り返している。
変化したくなくても、変化し続けてる。
変化をどうするか、どういう質にするか、どこに向かわせるか、、、そういう努力が大切なのだ。
整理整頓された部屋に憧れるのなら、片付ければいい。
別次元の話じゃない。
人は見た目。
これは深い意味で正しい。
デブッチョはデブッチョであることを選択している。
不細工はブサイクを選択していて、貧乏は貧乏を選択している。
日々勉強が必要なのだ。
わからないことが多すぎる。
どうすれば貧乏を脱却するのか、、、勉強と行動と経験と反省と行動。
やり方はそこらの本に出てるし、格言だって溢れてる。
何十年もかけて今の自分がある。
自分を変えるには同じだけの時間が必要。
しかし、人には想像力がある。
一瞬で何十年分の経験を擬似的に体験出来る。
そこから学べることもある。
人には、思い込みがある。
思い込めば、擬似的にだが、根付く。
自分なんて、変えられる。
おもらしなんかしない人だって、便所がそこらになければ、するだろう。
必要に迫られれば、なんだってできる。
必要性の質を変えればいい。
人は大概の事には対処できるもの。
大人は失敗しない方法を知ってるんじゃなくて、失敗しても取り戻せる方法を知っているのだ。
人ってのはだいたい2秒で見分けられる。大分類的に。
どんな分類になるのかはそれぞれ。
それを踏まえると、自分もまた2秒で分類されている。
自分のすることなど、誰でもするもの。
されて嫌なことはしない。
分類っていう機械的作業に見えるが、すべての人に愛をっていう偽善よりはよっぽどいい。
大人は分類したところで表面には出さない。
大人には建前があるのだ。
まぁそんな思考の僕は友達が少ない。
少ない方がいいって20年前くらいに思った。
僕の性質上、その方がいいし、楽で楽しい。
僕は僕なのだ。
つまるところ、結婚している僕は、二人の子供の父親は、居場所がある。
無理して外に出ることもない。
外に出るなら、 伴侶と出ればいいし、量産型僕とともに出ればいい。
まぁ究極的な話だけどね。
楽しい人生なのか。
楽しい。
そして、さらなる楽しい人生に向けての途中。
いつだって、途中。
旅の途中なのだ。
このままでいいのか。
変化のまっただ中にいる。
進むべき道を自分できめる。
不安や怖れ、、、それより大事な何かがある。
いくしかない。
自問自答を繰り返し、繰り返ししてきた。
眠れない夜に悩み、眠れる夜に罪悪を覚え、、、
夢は既に切り離され、飛行機に乗ったところで辿りつけない。
夢を見てたってたどり着けるわけがない。
叶えようとする行動がすべてで、それができない。
それよりも、しなくてはならないことだらけ。
大きなドアを開けた。
そしたら、たくさんのドアが現れた。
どれを選べばいいのかわからない。
けど、立ち止まってなんていられない。
手っ取り早くドアを開けた。
そのドアが正しかったかどうかなんてわからないけど、間違ってはいなかったと思う。
まだまだ、ドアはある。
ドアがあるうちは、幸せだ。
幸せとは、選択肢の多さに比例する。って誰かが言ってた。
その通りだ。
自問自答で選択するのにも限界がある。
ひとりで生きているわけじゃない。
家族と、友と、仲間と、昔の自分と、この先の子供と、、、楽しく夢を語り、叶えるための道を探し、丁寧にドアを選択するのだ。
自分の責任で、ドアを開ける。
自分の覚悟で、ドアを閉める。
自分の目線で、友の、家族の、仲間の目線で、新しい世界を歩く。歩き続ける。
なんにせよ、ココロは動く。
知らないところには怖くていきたくないけど、知ってる人といく分にはちっとも怖くない。
いわゆる、これが、信頼です。
あなたがおもしろいと言った映画を観ました。
これは単なる、好意です。
信頼とは、裏切りくらいで壊れたりしません。
裏切りで失う信頼なんてのは、ただの、思いこみでわがまま。
相手を見下してただけです。
まぁ、裏切りなんてのは、ただの通過行事で、信頼の許容範囲なはずですよ。
そう想いませんか???
一方通行的好意は、自己満足ってことを忘れてはいけません。
そして、自己満足は、悪ではないので勘違いしないでください。
ただ、相手に同意を求めるときは、気をつけてください。
相手が表現する同意は、必ずしも本意じゃありません。
その解釈は、自己満足が混ざっているのです。
相手の言葉に「嘘」を感じたとき、自分がどう想うか。
嫌悪感を抱いた時、少し考えてください。
その「嘘」を言わせてしまったのは自分なのかどうか。
その「嘘」を言わせてる環境を作ったのは自分も含まれているのかどうか。
「嘘」に、嫌悪感を覚えるのは、何かの「サイン」かもしれません。
まぁ、だいたいの「嘘」は、、、、もういいね。
好意があるからといって、信じてはいけません。
いや、信じるのは自分勝手でやってください。
そして、自分勝手の信頼感で、裏切りなんて感じないでくださいね。
好意はあくまで好意です。
「信じてる」なんて、好意的に想う人に伝えない方がいいです。
信じられる根拠なんて何もないのに、信じられても、相手は困ります。
好意は、、、、これももういい。
距離感を大事にしすぎると、誰もいなくなっちゃう。
それは、大事さを勘違いしているから起こる現象。
大事さの主語をもう一度考えてください。
っていうようなことを考えてしまう、映画を観ました。
じゃね。