この日は萩原駅前からの再スタート、梅雨の晴れ間のいい天気です。
駅前に美濃路歩きの案内図がありました、これはうれしいね、散策マップまで置いてあるじゃんか~。
あ、品切れ中でした。
というわけで、この踏切から街道復帰。
アパート前のフェンスになんか解説らしきものが。
ここに舟木一夫さんの生家があったということです。
アパートの横にはまだ当時の面影が残ってそう。
これは渋い半鐘。
宿場内に入りました。
この交差点が巡見街道と交差地点。
巡見街道を歩いたときにはここを右から左に通過しました。
江戸の街道と昭和の商店街のミックスな雰囲気。
お地蔵さまのお顔が幕で見られないお堂、なんでなのか?
ちょっと下調べで見つけた萩原城跡というのに寄り道、この迷い込むような裏道もまた雰囲気が好き。
塀の上のお地蔵様。
ん、ここかー。
まあ、〇〇跡ってのは大体こんなもんか笑。
読めん・・・。
・・・お城から尾張義直公の休憩所になったとか。
だから「御茶屋」という地名が小字で残ってるんか~。
街道に戻ります。
なんだかいつの時代かわからないようなエリアが続いて、正瑞寺の前で美濃路は右に直角に折れます。
馬頭さまとお地蔵さま、二階には屋根神様、いや、ベランダ神様か。
問屋場跡と本陣跡は石碑が建ってます。
そろそろ町はずれ。
街道は今度は左に直角に折れますが、また寄り道を。
曲がらず真っすぐに歩きます、今度の目的地は天神社。
すぐに表れるお寺には三十三観音のお姿が。
道標かと思ったら土地改良碑。
ホントあちこちでよく見かける土地改良碑ですが、この形は初めて。
途中、灯篭が道の両側にあり。
ここかー、会社の壁沿いのなんともあっけらかんな場所に鎮座。
天神の渡し跡、戦国期江戸初期の日光川の渡し場跡。
今日このあと渡る日光川は、戦国江戸初期のころは木曽川の大きな流れが入り込んでてかなりの大河でした。
その流れは江戸中期の流路変わりと廃川で今ではすっかり用水路のようなのしか残ってません。
そして日光川の水量も減り、渡し舟はなくなり橋がかけられたそうです。
織田信長、斎藤道三の会見後、道三がここまで見送ったとの言い伝えがある、へー。
さ、二度目の寄り道終了。
先ほどの街道が直角に左に折れる地点まで戻ります。
折れたらすぐ神社、お稲荷さん。
境内に「天神社遙拝所」がありますが、天神社って先ほどの天神社かな~。
600メートルくらいしか離れてないけど・・・笑。
日光川にかかる萩原橋。
渡し舟がなくなってからの橋がこれで、なかなか立派な橋だったので江戸時代は名所だったそうです。
現役の橋はまあ普通の橋で、もうちょっと何とかならんかな。
ちょい欄干低くない?
旧街道らしい緩やかに曲がる交差点にポケットパークがありました。
市川房枝生家跡、ベンチとトイレがあって大変ありがたいのです。
この、灯篭がとっ散らかってるのはもしかして生家跡の庭だったんかな。
やっぱり主要街道はローカル街道と違っていろいろ出てくるな。
お次は・・・孝子佐吾平の祠。
そして調べるとなぜか変な言い伝えばかりある明石藩主松平斉宣さんの謎。
パッと見では一里塚かと思える街道わきの立派な木、最近どこも切り倒されがちですが残ってほしいなぁ。
中華そば屋さんの前を通り過ぎる、写真の赤線が街道ルートですが、
ここで右に目をやると少し奥に神社があります。
そう、先ほどの天神社と対になる「向こう岸」の天神の渡しの渡し場跡の天神神社です、ややこしいな。
天気も良く気分よく進みます。
・・・・・・。
八幡神社の石柱・・・でもかなり遠い・・・ここは申し訳ないのですがスルーで・・・。
ここまで、秋葉さんもなかなか多い印象です。
あとは、お地蔵さまが多い、観音さまは見かけないな~。
二つの並行する道が現れますが美濃路は左。
そして今度こそのホンモノの一里塚、富田一里塚が見えてきました。
キリ良く一里塚が現れたので続きます。