花の仕事をしながら、
植物や生き物のことを考える時間が、私にはたくさんあります。
花も植物も動物も、
それぞれに違う命があり、
それぞれに生きるための営みがあります。
だからこそ、動物のことを考えてきた中で、
最近どうしても気になることがあります。
犬や猫を大切にすること。
目の前の命を助けようとすること。
それは、とても大切なことだと思います。
でも、
「外猫を認めてほしい」
「餌やりを認めてほしい」
「愛護動物なのだから、処分するのは悪い」
そうした声が大きくなる一方で、
その猫が野外で捕食する、
もっと小さな生き物たちのことは、
どこまで考えられているのだろう。
私は、そこに疑問を感じています。
猫は優れたハンターです。
小鳥や小型哺乳類、爬虫類、両生類、昆虫など、
さまざまな生き物を捕食します。
環境省も、野外の猫による希少種への捕食被害や、
生態系への影響を問題として挙げています。
地域によっては、
そこにしか生息していない希少な生き物が、
野外の猫によって命を奪われています。
もちろん、
猫が悪いのではありません。
猫は猫として生きているだけ。
問題は、
人間が猫を野外で増やしたり、
餌を与え続けたりすることで、
自然の中とは違う数の猫が生きる環境を
つくってしまうことではないでしょうか。
その結果、
猫に食べられる側の命まで含めて、
私たちは考えているのだろうか。
そんなことを考えます。
以前、ダライ・ラマの教えを読んで、
心に残ったことがあります。
ダライ・ラマは、
私たちが身近な人に向ける愛情には、
「執着」が混ざることがあると説いています。
そして、本当の慈悲とは、
自分の好きな人や身近な存在だけに偏るものではなく、
苦しみを感じるすべての存在へ向けられるものだ、と。
「私の大切な存在」だけではなく、
その存在の向こう側にいる、
別の命にも目を向ける。
その考え方です。
そして今回、調べていて、
チベット仏教の僧侶である
ラマ・ゾパ・リンポチェの教えにも出会いました。
リンポチェは、
ペットを愛することそのものを否定しているわけではありません。
けれど、
自分が愛する一種類の動物だけに強い愛着を持ち、
その動物のために、ほかの動物や虫の命について
考えなくなってしまうなら、
それは「慈悲」ではなく、
「執着」なのではないか。
そのような趣旨のことを説いています。
すべての生き物が、
苦しみたくない、
幸せでありたいと思っている。
そのことを忘れてはいけない。
この言葉が、
今の私にはとても心に残りました。
私は、
「犬や猫を愛しすぎること」が
問題だと言いたいのではありません。
むしろ、
愛する気持ちが、
もっと広い慈悲へと広がっていくのではなく、
「私はこの子を愛している」
「だから私は正しい」
というところに閉じてしまったとき、
人は我を見失ってしまうことが
あるのではないか。
そんなことを考えています。
私は時々、立ち止まって考えます。
【後編へ続きます】