石井克人監督の『山のあなた』公開に合わせて深夜にやってたの、録画していたのを約四年ぶりに観てみた。

四年前は、?、という感じが残っただけで、個々のキャラクターやそれぞれのシーンがただただ面白いだけだと感じていたのだが、今回はちゃんと楽しめた。

閉塞的とも思える山間の町で、春野家の人びとはそれぞれに悩みを抱えている。
で、結局なんだかんだあって上手く行ったり妥協したりで丸く収まる、そんな家族の様がのんびりとした風景の中、不思議な人びとの可笑しなやりとりの連続として描かれている。

四年前の、?、ていう感覚は、おそらくただ彼らを、変わった人びとだと捉え、それらがユーモラスに動いている映画だとのみ考えてしまったためで、実はそうではないのだった。

ゆったりとしたペースで、緩やかな起承転結があり、最後には小さな温もりが残るのだ。

彼らは彼ららしくそれぞれの人生を、それぞれに出会った人びとと転がしていく。
毎日顔をあわせて毎日会話をする、最も気心の知れた存在であるはずの家族は、必ずしもそれぞれの人生において最重要事項とはなりえない。
そういった、少し寂しいようだけど、家族の流動性だとか、脆弱性と表裏一体であることだとかが描かれているように感じた。


我修院さんのお歌が素敵ね。
三角定規の歌、お湯の歌、山よ、どれも上手すぎなのがいい。




四年前のわたしのように、退屈、と感じてしまう人もいるかもしれない、なんせすごく緩やかだから。
でも今回わたしは、このテンポが心地よくさえ感じたので、観るときのテンションとか精神状態にもよるのかなぁ、と。
というか、それほどドラマティックな展開は、普通の家族には望めないはずだからこれが自然な流れだった。




ふと、田舎のことを考えた。
わたしのかつて住んでいた田舎は、エンターテインメントへのアクセス可能性に関して圧倒的に優位性を持たない。
映画ひとつ取っても、観るなら凡そワーナー・マイカル・シネマズちゃんだし、ミニシアターで話題になる映画は劇場公開されず、わたしの好きなドキュメンタリーも大衆映画に隠れてあまり観られない。

たいして東京で楽しめてる感覚もないんだけど、ひとり遊びの好きな(つまりコミュ障ってことですが)わたしは、たぶん田舎には居場所がないんだと思う。
知ってる顔ばかりの田舎で、ひとりの好きなわたしは繋がりを築く力に乏しくてやってけない。
繋がりがないわたしの欠乏感を埋める愉しみも少ない。


日本一貯蓄額が高い県として君臨しているのも、娯楽が少ないからかもな、と。
あとみんな高校まではだいたい公立に行くし。


とにかくわたしは、人と会って繋がっていられないことに壮絶な不安を抱き、友達が多くて満たされている人びとが嫌でも目についてしまうあの場所から逃れようとして、ひとり遊びの手段がいくらでもある東京に留まっているのだろう。

田舎が悪いわけじゃない、わたしがどうかしている。ちょっとした人格障害の範疇かも、とさえ思う程に。



病んでしまって収集がつかない。
おそらく今回の映画に出ている人びとが、それぞれのコミュニティで少なからずやりづらさを感じつつ、それでも彼ららしく動いていたのに非現実感を覚えたからだ。
わたしもたいがい空気読めない人だが。
誰しもがああまでも我が道をゆく姿勢で生きたいという欲求を持っているはずで、しかし空気読んで本来との呵責にストレスを抱いているのだ、これが現実。



それでもわたしもやりづらさを感じながら、そうじゃない風に生きなければならない。
今日は昨日よりちゃんとしようと、わたしらしからぬことを思った。


Android携帯からの投稿



タイ映画で初めてカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞したとかなんとかで、
ちょうど吉祥寺にいたし、観てみようと。

感想はこれにつきる。
意味ワカンネ/(^o^)\

農園を経営するブンミおじさんは、
透析するほどに体を患ってて、もう自分は長くないと感じている。
で、死んだ妻の妹に農園や財産を託すため、彼女を街から北部の農村まで呼出す。ここから話が始まる。

彼女と甥?と夜に会食していると、
19年前に死んだ妻の幽霊と、
数年前に山で行方不明になったブンミおじさんの息子が現れる。
ただ、息子が猿の精霊と化している!
(毛むくじゃらで目が赤く光る…)
猿の精霊を追ってカメラを持って森に入った息子は、そのままあっちの世界のモノになったのだった。
(あっちの世界で嫁までめとって)

で、生きた普通の人間たち3人はこれらの出現を普通に受け入れておる…。
『ずいぶん毛が伸びたわね』
とは息子が現れてのおじさん義妹のことばである。

で、息子はこのあと一切出てきまてん/(^o^)\


続いて農園のシーン、
おじさんの信頼を置く出稼ぎ労働者が母国に帰るという。
義妹に農園を見せて周り、
労働者たちに彼女を紹介する。

そして何故か王女(顔が醜い)のシーンに。
醜い顔を憂いて泉を眺める彼女は美しい女性の幻を水面に見る。
その後、密かに恋した(と思われる)従者にキスされるも、それが水面に写った美しい女性の幻へのものと思い、嘆く王女。
すると泉から声が聞こえる。
『あなた以上に美しい人がいましょうか』
誰だと聞くと、ナマズだ、と。
そして王女は水の神に、全てを投げうつので私を美しくして、と言い、
服や装飾品をはずしながら泉に足を進める。
で、何故かナマズが彼女の股をまさぐる…。

/(^o^)\え?

これ全くおじさんと関係なくね?



何事もなかったみたいにおじさんのシーンに。
いよいよ死期の迫ったおじさんは妻の幽霊に不安を打ち明ける。
で、その日のうちに通帳?やらカギやらを義妹に託し、おじさん、妻の幽霊、義妹、甥と森に入ってゆく。

森林を洞窟を、進む進む。
このシーンがまた長い…。

洞窟の奥で座り込んだおじさん。
前世や未来に思いを馳せ、
未来の世界は独裁者が人間を治めていると言う。
森の精霊たちは人間に狩られる、と。

おじさんのお腹の管(透析の)を抜く妻の幽霊。
腹から流れ出る体液…。
おそらく幽霊があの世におじさんを連れてくってことだったんだろう、周りの人らは止めずに眺めてる。最期を見届けるみたいに。

翌朝、死んでるおじさん。

葬式のシーン。
ホテルで事務作業をこなす義妹ととそ娘。←new!
お金の話などする。
そこに何故か出家して坊主になった甥登場。シャワーをあびる。

腹減ったんでホテルを出ようとする義妹と甥。
何故か幽体離脱みたいになって本体だか魂だかどっちだかわかんない2人は街へ出る。

レストランで音楽が流れる。座ってる2人。


エンドロール。



/(^o^)\/(^o^)\/(^o^)\



これは…すっきりしない/(^o^)\


おそらく、前世や未来が見えるおじさんを通して、自然と人間のせめぎ合いというか攻防というか、そういうのを伝えたかったのだと思うが…、なんとてわかりにくいし間延びも間延びよ、何かにつけてわかりにくいシーンが長々と続くから…眠くなる人もいるはず。
あと、タイ人の自然観、死生観、宗教観、生活様式など分かり兼ねるので、
現地の人なら分かるかもしれぬニュアンスなどは、当然受け取れないし。

同じ人間対自然ていう観点でのジブリ、ナウシカやもののけ姫、トトロなどは駿さんが日本人だから分かり安かったのかなんなのか…。

●おじさん(北部の農村の人)は、
透析で死に抗いつつも、精霊や人の霊のまかり通る地域ではそれに従順なまでの最期を迎える(森に還る)
(現におじさんは死ぬ前に森で、『ここは母の胎内のようだ、前世の人か動物かわからない、そんなときもここで生まれたのを覚えている』と言っていた)、と。
●おじさんの息子は、精霊たちをカメラ(人の創った文明の利器)で捉えようとして、逆に引き込まれてしまう=自然は今もそれだけの威力を持つ。
→自然は偉大!

●王女は見た目ばかり気にする人間に辟易し、水の神に頼ろうとして、結果ナマズ(自然のもの)に犯されてしまう。
→俗っぽいものへの非難。

●最後の幽体離脱みたいなシーンは、
自然の威力の大きい農村でしばらく過ごした2人(もともと都会の人)だけに見られた現象で、
おじさんの死を通して客観的に自分の立ち位置を眺めるようになった、そういう表現なのかもしれない。
→自然への回帰
→または、近年工業化、近代化してきたタイの人びとの価値観への危惧
→未来の独裁者=文明

という解釈も出来るが、
それを観客に分からせるために
あれだけの間延びしたシーンの連続が必要なのだろうか。
むしろそれすら、言葉を使い効率至上主義な思考しかしない現代の人間へのアンチテーゼ的な手法なのか…。


なんにせよ、現代日本に生きるわたしは1300円、他のことに使えばよかったなーって感じてしまった。
わたしが無知だから何も感じられなかったのか?
国際的に高評価を受けてるだけにモヤモヤしてる。




たまにこういう、は?、ていう映画があるから素敵!と思える映画が映えるのかも。笑
高木正勝の映画もたいがい、ドキュメンタリーというよりむしろ映像作品、て感じで前評判とのギャップにモヤモヤしたものだ。



1300円ぶん節約して取り返さなきゃ、なんて思ってるくらいだ。
これを評価した人には説明を請いたい。




ロヂャーズでたくさん安く買い物できたことだけが唯一の救いだ。





Android携帯からの投稿



スタジオコーストにて。
ぼっちで行ってきた。
ワンマンとかじゃないので連れ立った人が多くてぼっち感が一際詫びしく…
とは言え、いったん始まってしまえば楽しいもんで。

ずっとおっきいステージのほうでいたので、
キリンジ→星野源→細野晴臣→The high llamas、と。

初のキリンジ生音(´;ω;`)ブワッ
生きててよかったうぅぅ。
やっぱり、いい声やなぁ…
伸びやかだわ疾走感だだ漏れだわ、
ほんともう、またライブ行かなきゃ…!と。
ずっと聴いていられる。
メンバー紹介のとき、兄弟同士で名前呼び合うの、微笑まし。

星野源は、絵本みたいな言葉遣いの歌詞とか、淡いほっこりした感じとか、あんまり得意じゃなったんだけど、生で聴いてみると思いの他、素敵やん、て。

細野さん、高校の時から焦がれ続けて、やっと観られた。
カバーが主でした。
ゆるーい冗談交えつつ。
サポートの高田漣が素敵だったなぁ。

そしてトリのThe high llamas!
好きな曲、たくさんやってくれたうぅぅ。
始まる前、腹が減りだした頃に入れちゃったハイネケン。
ザルのわたしだが、ほろほろいい気分で聴けた。心地いー。



好きな人たちの音楽にまみれて幸せでした。

ただ、器用にハシゴできなかったので、ワールドスタンダードとジム・オルークも聞きたいなぁーと思ってたんだけど無理でした残念。


あんまりこういうところでお酒飲むの、肯定的に考えてなかったんだけど(感覚が鈍っちゃうのが嫌で)、
なんだか今回とってもいい気分だったので、積極的に飲酒しよう、と思えた。笑




アマゾンヌさんからナガオカケンメイのご本が届いたので読むのが楽しみだ。温めた牛乳をお供に。


Android携帯からの投稿


平野勝之監督、『監督失格』、
ずーっと観たいと思ってたけど、この前ようやく観てきたの、下高井戸シネマで。

現実は小説より奇なり、とはよく言ったもので。

彼らなりに続けていた関係の中に、変わらずにあった思いやり、と言えばいいのか、互いを心配し合うと言うか、そういう繋がりがあったんだろう。
でも由美香さんの突然の死によって、平野監督や由美香さんの周辺の人々にいろいろな疑問が残されたのだった。これまでの彼女との日々や自分の行い、これからの彼女の思い出との付き合い方、自分がどう考えて生きていくか、そういった葛藤は、最小限のテロップや映像で語られてはいたものの、おそらく当事者たちにはスクリーンで伝えきれる重さじゃなかったのでは?と推測するのだが。と言うか、本編よりも予告編のほうがいろいろな言葉によって思いが乗せられていたなぁ、と。

人の死は誰もが通る道だけど、
誰でもすぐに、目の前の悲しい事実から逃れようとしがちだから、ちゃんとお別れを自分の頭の中で完結できる人は案外少ないのかもしれない。
しなくても、いいのかもしれないけれど。そのへんは故人との繋がりの深さや個々の人格によりけりだけど、今回の場合、映像できるまで、ついに5年の歳月がかかった。
封印されていた映像の映画化に踏み切るまでにどんな問答が監督自身や周辺の人々と交わされたのだろう。


幸せだよ、と口にするのは幸せであっても、自覚があってもなかなかに難しい。
わたしはこの映画を見終わって、すぐに母に電話して、とても素直になれた。
ひねくれた性分のわたしがたちまち素直な気持ちになった。
悲劇とも幸せな話とも取れる映画だったけれど(ところどころで笑えたりもする)、観た人にそれぞれ大切なものについて考えさせる力がある。

エンドロールとともに、主題歌の矢野顕子「しあわせなバカタレ」が流れる。
終演後、劇場が明るくなる瞬間、誰もが日常に戻ってゆくけれど、今回は皆、何も喋らず思い込んでいる様子だった。


観て、とってもよかったな、と思える映画だった。
自分が幸せかどうかは、半分くらい自分の行いにかかっている(半分はどうしようもない外的要因による)。
わたしはわたしやわたしの周辺の人々のことを思いあぐねたりした。


Android携帯からの投稿
1月の半ば、かとみうが東京にやってきた。
1月末にもわたしが神戸へ行くことになるのだが、つまり会いすぎだということだ。

初日は新大久保にて合流、韓国人のにーちゃんたちの店で参鶏湯などを頂き、日本語あんまりわかってないにーちゃんたちのカフェーでお台場行きを決める。
新橋で乗り換え、モノレールでTT(東京タワー)、RB(レインボーブリッジ)、フジテレビジョン本社などなどを高ーいところから眺められて、しかも夜景も綺麗で、すごく観光した気分!
ヴィーナスフォートで買い物、といっても彼女がセーターを買ったのを除いてLEGOショップとおもちゃ屋で、LEGOやらシルバニアファミリーやらで遊んでたわけだが。

西荻帰ってきて、トゥクトゥクが開いてたのでようやく行けた。
わたしはグリーンカレーが辛すぎて少しだけ泣いた。

2日目は新宿。
まずアカシアで腹ごしらえして、買い物。わたしが夕方からバイトに行ってた間、引き続きショッピングしてんのかと思いきや、疲れて早々に西荻に引き返したそうだ。23時すぎのマックで矢吹丈の如く燃え尽きてた彼女には少しだけ笑えた。

最終日は上野!
動物園でパンダちゃん見るねん!て。
まずタイ料理屋で腹ごしらえ。ここでもガパオご飯の辛さに少しだけ泣いた。
入園前にがっつりクレープ食っていざ!
平日だったし、パンダちゃん2回も見られたねん。


シャッター押してくれたにいちゃんに、「パンダー!!」て言わされた。

面白かったのはトラ(脱糞してた!)、ゴリラ(終始横たわってた)、ヒグマ(右往左往してた)、そしてバイソンさん!
寒さからか習性からか、微動だにしないバイソンさんの周りをちょこまかと走り回る子ブタたち。この言葉、あんまり好きじゃなかったけど、今回ばっかりはうってつけなので使う、シュール…!

そして、ふれあいコーナーでは、山羊どもと戯れた。ゆうくん、という素晴らしく従順な山羊とも出会った。

東京駅まで行って、oazoでフォー食べてバイバイ。
なんかかとみうのおかげでたくさん観光できたので◎でした。

しっかしエスニックなもんばっか食ったぞこのやろう、ちう感じであった。


Android携帯からの投稿
1月の末に、神戸に遊びに行ってきた。

1日目、新幹線で神戸へ。
朝の地震で新幹線遅れてるかと思いきや、寧ろ雪での遅延とのことで、地震大国日本の技術力に関心したのだった。

昼に着き、かとみうの案内で中華を頂く。
シェフの灼熱地獄の拡大写真がある、サービス精神満載のマダムの仕切る店だ。

その後、三宮で古着屋などを巡り、
タイトなブラックジーンズに両足をねじ込んでる素敵なオーナーさんのギャラリーにも連れて行ってもらった。アートって難解ね。
そして、カーフェーでうまうまなチーケー(チーズケーキ)を。あれはわたしが生きてきて食べたチーケーの中で最も美味だった。まったりと下世話な話をする。
夜になり、海鮮食堂でサーモン丼を。
食べてばかりな1日であった。

地下鉄の駅でちょけて写真ばしばし撮りまくったけどかとみうが目瞑ってない写真は2枚しか撮れなかった。

2日目はまず宝塚へ。
15時からの花組公演の当日券を朝から買いに。

そして大阪。
草間彌生展を観に行ったのだ。
日曜ということもあり、割りと混んでいて、あんまりゆっくり出来なかったな。みんな草間彌生のこと大好きじゃん、って思った。みんな、草間彌生のこと大好きな自分のことが素敵、と思ってるのかもなー、とも。

かぼちゃ。
あんなにバキバキした刺激的な作品を81歳のばあちゃんが描いてんだー超エモい!
あの人のすごいところはなにより、自分の作品を自分で大絶賛しちゃうところだ。常人には難しいことだ。だからアーティストなのかもしれない。

そして、阪急電車に揺られて宝塚!
花組公演『復活/カノン』を。
二階席の3列目、下手側の席での観劇。
お芝居の部分は、蘭寿とむさん演じる公爵の青年、ネフリュードフがひたすら自責の思いに苛まれ続けるが、カチューシャ(蘭乃はな)とはすれ違いまくるという、なんか救いようのないといえばない、そんな話だった。で、ネフリュードフは自分に正直にあり続けて、最終的にみんなの幸せを願う人となりました、と。
なぜ今回わざわざ観劇したかってわたしが蘭寿とむさんのことがすごく好きだからなのだ。お披露目の『ファントム』は観られなかったのだけど…。
で、頭上からですけど終始、とむさんの赤面芝居が観られて感無量でした。
レビューのカノンの感想は、とむさん、体力勝負!でした。出てない場面も当然あるけれど、もうずーっと踊ってはった。しなやかすぎたー。ため息もれたドキドキ


プログラムも買いましたよっと。
とむ様ードキドキドキドキ

2月10日から東京の劇場でも公演あるので、お金きついけどもう一回観る!と観劇中に決めた。

そして、かとみうと合流する前にちょっとイライラしちゃって、かとみうに迷惑かけちゃった。
それでも辛抱強くわたしをアボカドのお店に連れて行ってくれたのだ。彼女はよくできた人だ。
わたしはアボカドが得意じゃないが、あの店のアボカドのピザは美味だった。リア充だらけの店だったけど負けずに下ネタ言いまくった。
そしてウンマー!なケーキ屋にも連れてってもらった。10時半にケーキ食った。この店も客がみんなリア充だった。

3日目はは女子日だったんで、気乗りせず観光なしでそそくさと帰京した。



神戸行ったの2回目だったけど、すっごく素敵な街で大好きになった。
人が優しいし、食べ物も美味しい。
旧居留地のあたりは街並みも可愛い。
またゆっくり行きたいなー。
そして宝塚を観てチーケーを食べるのだ。


Android携帯からの投稿