前からほしいほしいと思ってた自転車買ったった。

HUMMERの折りたたみマウンテン27インチ。

まさかのアマゾンである。わんぽち(ワンクリックをこう呼んでいるのだが)で自転車買ったった。
留美子の箱庭@ameba

でも、泥除けも一緒に買って、3万しないのよ。


まず最初に行くところはもう決めてある。

それは自転車屋。防犯登録しないと。


そのあと、とりあえず井の頭公園に行ってみる。

自転車に乗るのが久しぶりすぎるからまず近場から。

まだ漕げそうだったら、高円寺くらいまでがんばってみる。

それで、すごく晴れた日に山手線を1日かけて一周する。

前にママチャリで一周を遂行した人が言うには、

達成感をより大きくするためには大きな駅にゴールを定めるといいとのこと。

というわけで、新宿出発で、新宿着として、

達成のあかつきに、アカシアでウマーな洋食をたらふく頂くこととする。

本当はビールも一緒に飲みたいけど、飲酒運転になるので止す。


そのうち慣れてゆき、あわよくば、横浜くらいまで漕げるようにする。

そうして箱根の峠を越えられるまでの健脚をも手に入れる。

(それはさすがにこの装備では無茶なことかもしれぬ。)


そんなふうに思って買ったったのだ。



ひとつ心配なのが、前髪。

今ぱっつんなので、風をきりながらがむしゃらに漕いでしまうと、


留美子の箱庭@ameba

一堂零くんみたいに真ん中分けになりかねない。




それはそうと、本当に一堂零くんはすごい人である。

中学で落第しまくって高校を卒業するのが21歳とか

そういうレベルの将来に生活力がまるで望めない人だけど、

人から嘲笑を浴びても、罵られても、それをもろともせず(気づいていないのだろうが)

むしろ笑いでもって黙らせてしまうような人なのだ。


3歳くらいのときに夕方、再放送していて、

「やだ・・・この人かっこいい・・・」ってなった、

言わばわたしの初恋の人なのかもしれない、零さんは。

その時分には、タキシード仮面こと地場守などよりも惹かれたものだ。


数年前、大人になってアニメ全話見返したのだけど、

(骨折していて暇すぎたので

負傷の床で「ハイスクール!奇面組」、「北斗の拳」、「シティーハンター」を全話観たあの夏・・・。)

そうして分かったことは、唯ちゃんより千絵ちゃんのほうが格段にエロいということだ。

美しすぎる女優より、ちょいブスなグラビアアイドルのほうがそそられる、そういう心理で。


留美子の箱庭@ameba

ずいぶん前だけど、12月に吉祥寺バウスシアターで

砂田麻美監督『エンディングノート』を観た。

さぼりすぎていた卒論の〆切に追われてヒーヒー言っている時分だったので

日記を書くまでの体力がなかったのだけど、

せっかくいい映画だったし、今更ながら書いてみようかと。




留美子の箱庭@ameba


“ザ・団塊世代”として日本高度成長期を支えてきたサラリーマン・砂田知昭。定年を迎えて第二の人生をスタートさせたばかりの彼は、突然のガン宣告を受けてしまう。「段取り」が大好きというサラリーマン時代の性癖は抜けることなく、彼は闘病生活のかたわら「エンディングノート」と呼ばれる自分が逝く際の「段取り」をまとめはじめる――― その一部始終と彼を支える家族の姿を実の娘が撮影し続けた感動のドキュメンタリー作品。


(エンディングノート公式ウェブサイトより。)



死を宣告された人が、限られた月日の中で家族と過ごす日々が映像におさめられています。

ドキュメンタリーとはいえ、「段取り」好きの主人公が自分の死の準備をしていく段階が

10つのチャプターに分けられており、間延びすることなくサクサクと観られる。

”死”という重く、人が極力目を背けたいテーマのもとで作られている映画ですが、

死を目前にしているにもかかわらず、ユーモアあふれる砂田知昭氏のキャラクター、

カメラを向けていた監督がまぎれもない氏の娘であることから、

間もなく臨終という瞬間に至るまで、終始、愛にあふれた雰囲気が感じられる。


淡々と死の準備を進めていく父の姿を見守る家族。

最期の瞬間、病室で長年連れ添った妻に言葉を送り、

家族みんなに囲まれて、逝く父。




観終えて、わたしの心に残ったのは、

「”絵に描いたような”幸せな、本当に幸せな死の迎え方だったなぁ。”羨ましいくらいに”。」

という、捻くれたものだった。

我武者羅に働いて、家族を養い、会社から、社会から認められた主人公が、

退職後、よし、これから第二の人生だ!と意気込んだ矢先の癌の宣告。

これは、すごくアンラッキーで、悲しい出来事だ。

しかし、こういった不運は、日本のそこかしこで起こっている。

日本人の死亡原因に占める癌の割合は約3割。およそ3人に1人が癌が原因で死亡している。

こんな誰にでも起こりうるシチュエーションが、

今回の場合、とてもドラマティックに、感動的に、”綺麗に”映像としておさめられている。

こんなことって、もしかするとすごく稀なケースなのでは?と感じたのだ。



この家族には、幸せな死を迎えられる条件が、揃っている。


まず父のスペック

・愛知にある開業医の家庭に生まれる。

・慶応大学経済学部卒→丸の内に本社のある大手化学メーカーで営業一直線→最終的に専務に。

・代々木に一軒家をかまえる。内装も奥様の趣味だろうか、とてもスタイリッシュ。

・歳を取っても都会的で美しい妻。

 (この世代の男性にとって、懸命に働き美しい妻を養い、囲っているというのはステータスだったのだろう。)

・立派に育った3人の子供

 長女は幸せな結婚をし、長男は結婚して3人の娘を持ち、海外に長期出張するエリート。映画監督を目指す次女。

 という誰も社会的に失敗を経験していないか、していてもそれを補うほど成功しているように見える。



金銭的にも、社会的にも成功を手にしている主人公。

これは彼の生い立ちはもとより、その後の努力にもよるものだと思うので、どうこう言うのはおかしい話だが、

客観的に見て幸せな、綺麗な死を迎えられるために、おおいに影響しているようにも思える。

葬儀を取り仕切ってもらう教会に赴き、洗礼を受けるなど、いろいろと準備することができたのも幸せ、

ただ何よりも幸せだったのは、実家の母以外の全ての家族が看取ってくれたということ。

(その母とは、まだ動ける時期に伊勢旅行をできた。)

海外出張中で、帰ることはできないと言われていた息子も、

氏がいつも気にかけていた3人の孫と一緒に帰国し、葬儀まで参列することができていた。

「母さんは誰かに支えられないと生きていけないから」というのは故人の遺言の中のひとつだが、

「段取り」よく進めていた死の準備を形にしてくれるとても心強い存在として、

この長男がいてくれたことはラッキーなことだったはずだ。(実際に最後、いろいろと託していた。)



こんなこと、故人の望む条件、タイミングが揃うことは奇跡に近いのではないだろうか。

言いたいことも言い切れず、会いたい人にも会えずに亡くなるケースのほうが多いに違いない。



頑張っただけ報われるなんていう根性論めいたことは信奉していない、

むしろ疑問を持っているくらい捻くれたわたしだが、

故人の生き方、考え方、「段取り」好きが高じて迎えられた最期の形であったのかもなぁ、とも思う。

だってこの人は、本当に最期まで、すごく立派だった。

映像に意図的に入れられていないのかもしれないが、弱音を吐く、激高するなどの感情的な場面はなく

少しの悲哀を含んだ発言はあったものの、

本当に淡々と、自分の死について目を背けることなく準備を進めていたのだ。

葬儀に呼ぶ人の名簿を作り、宗教を選び、家族ひとりひとりに言葉を残す。

おそらく、寝る前には「もしかするとこのまま目覚めないかもしれない」と、

朝目覚めたら「この目覚めがいつまで続くのだろうか」と、

言い知れない死への不安と恐怖に苛まれていただろうに、

日中は体が動く限り精力的に時間を無駄にすることなく活動していた。

社会的地位、幸せな家族像、恵まれた条件を成立させうる人格だったのだろう。

その大らかさは、この映画のポスターの愛嬌ある(と年配の方に言うのは失礼かもしれないが)お顔からも伺える。




で、作り話ではないけれど、すごく綺麗な物語を観た気分になって、

自分は果たして、自分の死、家族の死、大事な人の死に際して、

どうふるまえるだろう、と、死と隣り合わない日常にいるわたしは現実味あるよでないこと考えた。

自分以外の人の臨終の際に、立ち会うことができるのだろうか。

そうできない状況に、自分で自分を置いているのではないか。

自分がもし死ぬことになったら、突然に死ぬことになったら、

最期の言葉として間抜けなことを言わずに済むだろうか。

または、それがもし突然死でなく病死で、死への瞬間へのカウントダウンが、

健康に生きているいまより格段にリアルに始まったとき、

果たして、そのときにできる最高の振る舞いをできるように

精神的、体力的、金銭的に満たされていられるんだろうか、と。

誰も知らず、どうしようもないことを考えた。



わたしは家族に恵まれている実感は幸いあるものの、

「段取り」好きの氏のような要領のよさや、人としての器の大きさは残念ながら(まだ子供だし)ない。

だからもし、人から見て滑稽な死に方をしてしまったとしても

それが「わたしらしい死にざま」として人に受け取られるのだろ、とも考えた。

死んだ後に葬式に来てくれる人の数や態度、死後の評価は

その人の生きた証明を紛うことなく表す。と、思う。

それって職業とか生きる場所とか多いに影響するなー、とも。



例えに自分の親を出すのは不吉な気もするんだけど分かりやすいので書く。

彼らは22歳で田舎の中学の先生になってから、いま50代で管理職に就いて

おそらく定年で退職するまで教職を全うするだろう。

葬儀を行うときが来たとしても、教員として共に働いた仲間、

教えた生徒や親御さん、関わった地域の人々はおそらく参列してくれる。

ともすれば芸能人や政治家には及ぶことはないものの、

人数の値で言えば悼む人は多い部類に入る職種なのではなかろうか。

学校という場で一定期間、多数の人の人生に影響を及ぼし続ける職業なのだから。

また、長年地元で生きたこともあり、そんなふうに葬儀に参列してくれる人も

すぐに来られる距離にいる場合が多い。

多くの人に囲まれることが幸せな死とは限らないが、



客観的に見て、故人の人柄や生き様を表す指標としてそれを用いるならば、

そのために職業や生きる場所、もしくは勤続年数なんかも関わってくると思われる。




と、ここまで身近な人の死に立ち会った経験も少なく、

社会での生き方を知らない青二才の書いた感想ではあったが、

このタイミングで自分の立ち位置やこれからについて

ふわふわとではあれ、思いあぐねるきっかけを作ってくれたという点で、

今回この映画に出会えたことには感謝しなくてはいけない。


次の記事にも、観てはいたものの、感想を書けなかった映画『普通に生きる』について書こうと思う。(予定)

ドキュメンタリー映画を観るのが好きなのだが、多くの場合で「現実は小説よりも奇なり」だなぁ、と思う。

今回のように、編集によっていろいろと観客を、

製作者の意図するところを解するよう操作するのも可能ではあるが、

いろいろな状況に置かれた人々の有様を覗き見ることができるのは面白い。

観た後につっこんでさらに世界を広げることには、生来頭が悪いせいか長けてはいないのだけど、

人生における時間軸の中でいずれ思い出される宝物だと捉えて、時間とお金の許す限り見続けようと思っている。

この先、観たいと思っているのは、


・共同監督:森達也、綿井健陽、松林要樹、
安岡卓治 『311』。

 その名からも分かる通り、テーマは震災と、その後。


・監督:三間旭浩、今橋貴、松尾健太/中野裕之 『らもトリップ』。
 これも名前から推測できすぎるけど、中島らもについての映画。

 社会問題を知ること並んで、特定の人物を追いかけられるのもドキュメンタリーの醍醐味のひとつだ。

 身近な人が製作者になる場合が多いことから、表面的にそれまで知っていた個人のイメージが

 覆されたりすることもしばしば。


・ポレポレ東中野でのオールナイト企画【北海道自転車3部作一挙上映】

 『由美香』 監督:平野勝之
 『流れ者図鑑』 監督:平野勝之
 『白 THE WHITE』 監督:平野勝之


予定が流れることは大いに有り得るけども、ぜひ、と思っている。

最近、とっても気になっている存在、


それは、



ボブキャットたん!



体長65–105cm、尾長11–13cm、体重6–15kg。

アメリカを含むカナダ南部からメキシコ北東部にかけての森林・草原・半砂漠地帯に生息し、12種類の亜種が確認されている。個体数は72万5000頭ほど。

体色は砂漠では黄色っぽく、森林では暗い色をしているなど、生息する地域によって異なる。

グレーから茶色の毛色と髭、黒い飾り毛の付いた耳を持ち、中型のオオヤマネコのような外観を持つ。同じ地域に生息するカナダヤマネコよりは小さいが、大型のイエネコの二倍くらいの大きさである。特有の黒い線が前足にあり、名前の由来となる先端が黒い短い尾を持つ。

夜行性で、主にウサギジリスなどの小型草食獣や鳥類を捕食するが、基本的には虫でも小さいネズミ科の動物やシカも何でも捕食する。捕食の対象は生息地域や季節によって変化する。

他のネコ科の動物と同様、縄張りがあり単独で行動するが、場所によっては人間の生活する場所が縄張りと重複していることもある。縄張りは猫同様、爪の痕や尿・便によるマーキングで行う。

ネコ科の動物としては比較的長距離走に耐える。木登りもうまい。

発情期は冬の終わりから春にかけてで、妊娠期間は50日前後。1度の出産で1 - 4子を産む。

ボブキャットは人間より娯楽と毛皮の目的でハンティングされているが、頭数は減っていない。

ボブキャットはアメリカインディアンの神話やヨーロッパからの開拓者の民話にも登場する。


(Wikipediaより引用)




つまり、おっきい猫ちゃんなのである!

こないだ神戸で王子動物園に行ったとき、それはもう一番長い時間

ボブキャットたんのコーナーにはりついてたんじゃないかしら。


たぶん普通のイエ猫の4~5倍の大きさで、

ラブラドールみたいな大型犬ぐらいあったんだけど、

お顔、お手手、あんよなどは、どこからどう見ても猫ちゃんなのである!

お耳の上にあるお毛毛がキュートね。



以下は、ここ最近わたしが収集した

ボブキャットちゃんの画像シリーズである。



まず子猫ちゃん。




子ボブたん、きゃわわ♡




そして、猫ちゃんらしさのある画像が続く。



のびー。


箱座り(?)


無防備な寝顔。






2ちゃんなどでちょっとした知名度のあるこの画像、

これもボブキャットちゃんだったのだ。










これコラやろwて感じやけど、コラじゃないらしい。

ボブキャットちゃんアホそうやし、無邪気に登っちゃったに違いない。






神戸市の王子動物園にいるボブキャットちゃん。



わたしらが行ったときもしきりにガラスの外を見てはった。

(富裕層らしき恰幅のよい中国人男性を凝視していた)


で、



うろうろうろうろ。

落ち着きがないんである。








そして最後に、

わたしが一番気に入っていて、PCのデスクトップ画像に設定している、

野性味あふれるボブキャットちゃん画像。



ばびゅーん。にゃーーん。

(お手手に注目♡♡♡)



ネコ科のみなさんはイエ猫はじめライオンやトラちゃんまで全員きゃわいい!

お手手がみんな、猫ちゃんのそれなので、全員きゃわいい!







わたしの検索能力が乏しいからかもしれないけど、

日本の動物園でボブキャットちゃんを観られるのは神戸と鹿児島くらい・・・

他の動物園でも大型の猫ちゃんは飼育されているのだけど、

案外ボブキャットちゃんは日本にいないみたい。

あの神戸での出会いが、運命的に感じてしまうねっ。また会いたいねっ。

金曜の夜に東京駅を発って、土曜の昼から日曜の昼まで、

某大手旅行代理店のプランに申し込んで、

ボランティアツアーという名目で宮城県南三陸町に行ってきた。


考えも気持ちも整理がつかないが、帰宅していま、純粋に感じたことを

今後の自分の振り返りのためにも記録しておこうと思う。

エピソードの抜粋というよりも、小学生の書く日記のように時系列を追って長々と書いてしまうことにする。

こんな短時間でまとまってしまうほうが不自然な気もする。


南三陸町は、昨年の災害で1000名以上の死者・行方不明者があり、

町の7割の建物が全壊してしまった町。




夜中に東北自動車道が雪の影響で通行止めになっていて、

到着が予定より遅れたせいで、初日は実労2時間もなかった。


南三陸町に着いてまず目にしたのは、瓦礫が撤去された後の

何もない、本当に何もない町が広がっていた光景だった。

本当に静かで、遠くで重機が瓦礫を片付ける音、車がたまに通るエンジン音しかない。

津波の被害が甚大だった志津川地区の沿岸部には人の生活の気配は全くなかったように見られた。


初日にした活動は、津波の被害に遭った町内の福祉施設に残された瓦礫を、

町民の通る道から目につかないよう、建物の裏まで運ぶ、というもの。


たった数十メートルの距離を、数人で協力すれば運べるすでに分別されたものを、ただ運ぶという作業で、

被災後すぐに残っていた、重機と一緒になって、ではないと出来ないような大変な作業と比べると

楽な部類に入るのだろう。

しかし、短い活動時間にしては思いのほか、疲れた印象が残ったのは、おそらく運んだものたちが、

どこかで誰もが必ず触れたことのあるような、ベッドや布団、ポットといった家電などの

日常的なものだったからだろう。それがよくテレビや新聞で見た大きく黒い波にもまれてしまって使い物にならず、泥だらけの”瓦礫”として扱われていることすら、初めて被災地に行ったわたしにはショックだったのだ。


そこから、実際に当時、そこにいて波を免れた方からのお話を聞くことができた。

その方がしきりにわたし達に言っていたのは、

「自分ひとりを守ることを考えろ。隣の人を助けようとすると両方死んでしまう。」ということばだった。

使命感、責任感から取られる美談や善行とは正反対にあることばで、

平和ボケしたわたしにはシビアーに感じられた。しかし何より「まず我が身」と。

これは推測でしかないのだけど、生存された多くの町の人々が、必死に自分の命を守ったが、

身近な人が亡くなった事実を思うにつれ、「どうして自分は生かされたのか」という自責の思いを

反芻したのではないだろうか。

いろいろな人への気持ちを自分の中で咀嚼して納得する作業とともに、

被災した方々は復興に向かっているのだろう、と思うと、

実質、直接的な被害を受けていない自分は、彼らの話を完全に理解することは不可能だ、と感じた。

だからただ、こうして少しでもできることを手伝って、そして見聞したことを

わたしのように他人事のようにして毎日を送っている人に少しでも話すしかできないなぁ、と。


そのあと、先月末にようやくオープンした、町内の商店街に寄った。

商店街といっても、店店がアーケードに立ち並んでいるわけではなく

小さなプレハブのお店が並んでいるようなところだった。

となりには廃屋と瓦礫の山がまだあった。

そこには食堂や美容院、電気屋、生鮮食品の店、衣料品店があったが、

思いのほか地元の人は多くないと感じられた。

車のない人や、町から離れてしまった人には近寄りがたいのだろうか、

そう思うと、本当に津波は町の人々の日常を破壊してしまったんだ、と。

それでも、店の人と地元の客が話しているのに聞き耳をたててみると

「今どこどこの仮設住宅にいるのよ~」「じゃあ誰々さんと同じじゃない」「そうなのよ~」

などと、地元住民ならではの情報共有の光景がここにはあって、

ここに来れば誰かに会えるかもしれない、と地元住民に思わせる、

そういう希望の芽のようにもこの商店街は見えた。

宿には、町内の高台にあるとてもきれいなホテルを宛がわれた。

畳の部屋に5人ずつ、ふかふかの布団があり、タオルや浴衣も用意されていて

海のよく見える本当に快適な環境だった。


夕食前に語り部さんのお話を伺うことが出来た。

自宅は高台にあり、家族も自宅の2階も助かったけれど、友人や親類を多く失ったそうだ。

一番悲しいことは、町の皆が散り散りになり、縁が遠くなってしまったことだと言う。

日常の崩壊が人の精神を蝕む、ということは様々なシチュエーションで起こりうることだけど、

多くの場合が工夫や努力でその状況を脱却できる。

しかし、この場合は状況が状況であるし、それを招いた原因も自然災害ということで

怒りや解決の糸口を求めようにもそう容易にはいかない。

そんな想像するに至るのが不可能なほどの喪失感と共に生きているのだろうに、

わたし達にお話ししてくれて、そこまでの気持ちになれるまでに相当な葛藤があったに違いない。

また、被災地の外にいる人々、つまりわたしのように直接的な被害がなかったり、

被災地から遠く離れている人々が、被災地のことを忘れてしまうことが怖い、とも。

どうしても、最近は関東など東北以外の地域では、被災地についての報道が少なくなっているし、

市民の関心も時が経つにつれて薄れてしまっているのは事実だと思う。

節電節電といっていた時期に比べ、街は明るすぎるくらいになっていることからもわかる。


このことに対してどういったことが有効かというと、ずばり被災地に行くこと、だと思う。

多くの人は、一度でも行ったことがある場所、会ったことがある人に親近感を抱く。

それは、そこで受け取ったいろいろなエッセンスを、自分のテリトリーに持ち帰って

ふとしたきっかけに思い出すことから起こる感情である。

よって、どんな形であれ、東北に、被災地に足を運ぶことで、そこで自分に蓄積された

たくさんの感情や情景は、全く何不自由ないような自分の日常に帰ったとしても

様々な場面で思い出されるはずなのだ。



で、夕食なのだが、

ボランティアの食う飯ってのはせいぜいほかほか弁当レベルだと思っていたのが、

普通に観光でホテルに宿泊するときに出てくるような、ちょっとした懐石のようなものが与えられた。

釜飯やら刺身、茶碗蒸しに吸い物、蒸した魚、煮物、果物まで。

お腹一杯になることに申し訳なさを感じることは、

もしかすると被災から1年経った被災者に対して失礼にあたるのかもしれないが、

この事実と、昼間に見た何もない町とのギャップに驚いてしまった。


そして温泉に入り、暖かな布団で就寝。




翌日は、朝からビュッフェ形式の朝食で、和洋の食材が食べ放題であった。

ボランティアとは言うものの、宿泊や食事といったことに関しては

完全に観光客の感覚を意識してセッティングされたツアーなのだ。

これが当然のことなのか、異常なことなのか、わたしには判断しかねるのだが。


そして午前中から昼まで、波を受け廃校になる小学校で行われる、最後の卒業式のため

設営や清掃といった、またまた重労働ではないような作業に従事した。

学び舎がある日、突然に破壊され、さらには、

それまでの仲間たちと離れなければなってしまった子供たちのためだ、

と思うと自然と雑巾を持つ手に力が入った。

保護者の方々も数名おり、終始明るく振舞われていたものの、

思うところはいろいろと複雑なのだろう、と、また推測というか、勘ぐってしまった。




そうして、その後、町を離れて高速でその日のうちに東京に帰ってきた。





以下では、トピックスを取り上げていく。


◎参加者いろいろ

自己紹介の時間があったので、参加者のみなさんのことを少し知ることができた。

この程度の情報で特定はされない、と思うので書いてしまうこととする。

参加者の男女比は男性:女性=4:6くらいかな。

40人中、約半数が学生で、最年少はこれから大学生になる18歳。

金曜夜~日曜夜のプランだったのもあって、休日を利用して参加した社会人が残りの半数。

参加の動機は様々で、でも大半は「何か力になりたくて」という至ってシンプルなもの。


凡その人々は初めての参加で、

でも中にはもう何回も東北に来ています、という方も。

同じ代理店の同じプランで以前に参加したこともあるらしく、

でも被災してすぐ、という時期と比べて

格段にボランティアに対する接遇(環境の面で)はリッチになっているとのこと。



◎語り部さんのお話より

上記にもあるように、この方は自宅(1階部分は波によって何もなくなってしまったそうだが)、

同居していた家族が助かり、間貸ししていたアパートの空室で避難生活を送ることができたそうで、

家も家族も・・・というような避難所にいる人々から「よかったわね」などと

僻みや嫌味のようなことを言われるのが辛かった、とおっしゃっていた。

「辛い気持ちは同じようにあるし、津波によって被害を受けたのは同じ」と。

自然災害によってもたらされた事実に対して、どうしようもないのは同じであるのだが

被災の程度が人によって異なることで、双方が違った辛さを抱く構図が出来上がっている。

目の前の惨状を受け入れるのにも、前に向かおうという気持ちになるのにも、

それぞれ違った長さの時間が必要になる。

本当に気を長く持って、双方が助け合って生きていけるようになることが望まれる、と思った。


語り部として活動するまでにも抵抗が当初はあったそうで、

でも、被災したことについて、うんうんと相槌を打って「辛かったね」、と話を聞いてもらえたことで

少し気持ちが前向きになった、と。

わたしも参加に際して調べていくうちに、いろんな形のボランティアがあることが分かったのだけど、

被災者の避難所(はだいたいが閉鎖されたのでこれは数か月前の話ですが)や仮設住宅に話を聴きに行く、

なんていうのもあって、でもそれにはなんだか畏れ多くて手が出せなかった。

だって、何もかも無くしてしまった、と感じているかもしれない被災地の人にとって

目の前にいる、家に帰ればあったかい布団だってテレビだってパソコンだってあるような被災地外の人に

共感してます、みたいにして話をするのってどうなんだろう、と思ったのだ。ひねくれているだろうか。

何にも知らない人に話すほうが楽になることだってあるんだろうが、果たしてこの場合は、と。



◎ふるさとについて

これも語り部さんのお話にあったんだけど、

この方はもともと、南三陸の民話を語り継ぐ活動を行っていたそう。

南三陸町は柳田國男の『遠野物語』で有名な遠野地方に次ぐほどの、

東北で指折りの民話の里であるとのこと。

人が民話を紡ぐためには、里を囲む自然が必要である。

今回は、その自然が人の生活を崩壊させてしまった。なんとも皮肉なことである。


ホテルには、震災前の南三陸町の写真がプリントされたポストカードが売られていた。

あの海、山に囲まれたふるさとの風景があってこそ、民話も生きるというもの。

今は、海、山は依然として在るものの、里がない。

民話の光景がありありと浮かぶような豊かな里が再び造られるのには、

少なくとも10年はかかるとも言われている。


また、これは統計や報道の裏付けがないことだけど、

語り部さんが言うことには、若い人びとを中心に、町民が町外に移るケースも多いとのこと。

それまでしていた仕事が続けられなくなった人は、外に出ざるを得ない。

海の近くは商業施設や公園を、山間の高台に町民の居住スペースをという都市計画が構想されているそうだが

このままでは年配の人だらけの町になってしまうのでは、とおっしゃっていた。



◎ゆとり教育

これは活動を離れて、宿でのお話。

今回のツアー参加者の多くが”ゆとり世代”と呼ばれる若者で、

まぁわたしもその中のひとりなのだけど、社会人の参加者の方々とお話ししていて、

「この世代の子は言わないと動かないし、言った以上のことは追求しないよね。」と言われた。

よく指摘されることだし、自覚もあるだけに、こんな機会で言われてしまうと普段よりもコタエた。

よって2日目の活動はさらに気持ちを引き締めて行うよう務めたわけだが、

世代の上の人に言わせてみると、こういった行動も「最初からなんで全力出さないの」ということになるだろう。


ただ、その反面、初めての被災地ボランティアという社会人は

今回の学生ボランティアの多さに驚いた人も多いと言っていた。

「(こんなに若者が復興に関心を持っているなんて)日本も捨てたもんじゃない」と。

そんなことばに励まされたところもあり、自分の世間に対する無関心さを戒めなくては、と思った。



◎わたしの変化

実際に被災地を目で見て来たことで、格段に震災、復興への関心の度合いが増した。


震災後1年が経とうとしている。

わたし自身、現在進行形である被災地支援、復興、原発問題について、

最近では、すでに過去のことであるかのような感覚さえあったと振り返る。

しかし、そうではないのだ、と、足を運んで目で見て、ようやく知った。

だって、1年という歳月を経て、南三陸町を見る限りでは、

大きな瓦礫が”片付き始めた”段階であり、流された家の基礎はまだ撤去されていない。

新しく建物が出来ている、という光景がすでにあるかと思いきや、そんな状況だったのだ。

これはボランティアの1人のことばだが「まだ人の手が必要なところが山積している」。

よく人の目にするテレビっていう巨大なメディアで継続して震災関連の報道をしているのは

NHKだけだなぁ、って。

なのにわたしときたら、辛いこと、難しいこと、複雑なことから目を背けたい人間の習性に従順なために

震災に関心を持っていられたのはほんの数か月だったように思う。

語り部さんのことば、ボランティアの方のことばにもあったように、

被災地の人はもちろん外の人も、復興に関わり続けることが必要なのだ。

わたしのような被災地外の人は、当事者でないがしかし、それなりに関与してけるはずだ。

体力的に、だとか、仕事の関係で、だとか、人それぞれにキャパがあるので、

被災地に足を運ぶことができない、という人もいるだろう。

だから、被災地の情報を追うことが何より求められる。

復興は、日本中の人々が思っているよりも進んではいないという事実は、

ただテレビをかけ流しているだけれは得られない。

こちらからアクセスしていかなくてはならないのだ。


自分のテリトリーの中では、自分のことに関心が向きがちだけど、

わたしにとって(短い時間だったけれど)被災地と関わることができたことで、

能動的なエネルギーが生じていると感じる。

気づくのはすごく遅かったんだろうけれど、気づくことができたのはよかったと思う。


時間が経ったことで、いろいろな教訓やデータに基づく情報も出ている。

正しい情報を収集する術も、習得していかなくてはならない。








やっぱり長々とまとまらなかった。ゆとりの書く頭の悪い日記だ。

でも、いずれまた、いろんなきっかけで被災地や震災のことを思うだろう。

だから素直な感想もそのまま残しておく。

今回のことで、自分をとりまくいろいろな人や物事について思いあぐねた。


また、いつか必ず南三陸町には訪れたいと思っている。




追記。

NHKで、今回訪れた南三陸町の商店街を作るまでの番組を再放送していた。

海岸から2㎞の場所に商店街の予定地を決め~とナレーションがあり、

!?と。「あれ海から2㎞もあったん!?」て。

それだけ、何にもない風景が続いていたことに、東京に帰って改めてショックだった。

明大前のあすかちゃんちにお邪魔して
ごはんつくった。

スーパーでうろうろしてたら、ちらし寿司の素が輝いて見えて、
だからコメ炊いたんだけど、冷まして具ちらすの面倒臭すぎて
お茶碗に酢飯盛って具乗せるだけの
なんか結局ちらし寿司味の丼みたいの作って食べた。

あとカボチャと玉ねぎとベーコン炒めてチーズかけたのに、コンソメスープ。




布巾写っとる(´ε` )
見た目はアレやけどまま美味かった。
料理5級(自称)にしては上出来すぎた。


で、夕方からバイトのあすかちゃんと新宿でさよならして買い物。


数日後、東北へボランティアに行くのでその準備をハンズで。
釘踏んでも大丈夫っていう安全な靴底と、防塵ゴーグル、作業用革手袋、
そして巻いて発電するラジオ・アラーム(サイレン?)・ライト・充電器として機能するようわからん機械を。

震災からもう1年経つけど、
直接的に被害がなかったのと、
身内に被災者がいないだけに
やっぱり他人事だっていう感覚があって、防災グッズの売り場に今回、初めて行ってみた。

で、率直な感想としては
ほんとに万全の備えをしようと思えば、結構お金かかるのね、って。

携帯トイレとか何百円で売ってたけど、
被災したとしてトイレ使えなくなれば、そんなん何個も必要になっちゃうし、
ほんとに切羽詰まっちゃえばそのへんで用を足したりビニール袋使ったりするんだろうし、
そういう、どこまで備えとくか、っていう線引きが大変だなーって思った。

一応おうちでは、山登るときに使う90Lのザックにお水とかとタオルとか、衛生用品を詰めていて、
いろいろ備えようと思えばキリないし、そのくらいでオーケーにしとこうと今回、一旦納得することもできた。


でも頭のどっかで、
「いざほんとに逃げるってなったら、こんな重たいもん持って家出る余裕ねーんだろーな」、とも。



おうちに帰って、ぐるぐる巻いて発電する機械で、試しに携帯を充電してみたんだけど、すげー大変で、電池1%溜めるのにも全力で回して5分かかる。
でもラジオは超鮮明に聞こえるし、ライトもまぁまぁ明るいのでよしとする。

ここでも、頭のどっかで、「ほんとにヤバい状態になったら電波とか入んのかな」と思ってしまうのだが。


この前の震災で、東京で帰宅難民してた人にとったらツイッターがとっても役立ったみたいだけど、ほんとに被災地にいたら公の情報しか入ってこない、且つ電力を携帯より必要としない(ぐるぐるの機械では)ラジオのほうが、情報収集のツールとしては心強いのかなー。
バーチャルなシュミレーションがどれだけ役立つかはわかんないし、いざってときは火事場の馬鹿力に頼らざるを得ないのかもなー。




わたしが日本の中で行ったことのない地方は、東北だけだった。
北海道も関東、中部、関西、中四国、九州、沖縄、全部行ったことがあったけど、東北だけ縁がなくて行っていなかった。
就活が終わったら、夏に一人旅しようと思っていたところ、就活中にあんなことが起こってしまった。
奇しくも、こんな形で初めて東北に行くことになる。この一年、日本中の人々が固唾を飲んで見ていた惨状を目の当たりにするのは正直言って怖いのだけど、いたずらに有り余っているわたしの体力を、微力だろうが復興の一端に出来れば。



被災した地域の規模なんかのいろいろな条件は違うんだけど、このところ神戸に何度か行って、何も知らない人はここが震度7の大地震があって、街が崩壊し、たくさんの人が亡くなった場所だとは思えないだろう、と感じた。
直接関係している人が被災してなかったし、何しろ4歳だったし、震災を知らないわたしの成長と並行して神戸は立ち直ったんだろう。
残酷なこと言うみたいだけど、当事者や、積極的に支援を継続していける人びと以外は、復興にさほど関与できないのでは、とも思える。



どう感じるかは行ってみないとわからんが、とにかくわたしは、真っ赤な長靴履いて東北へ行ってみる。アマゾンで買ってしまって一度も使っていなかったのだが、やっと日の目を見させることが出来そうだ。



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関西最終日。

夜勤明けの加藤ととりあえず昼飯ってことでマック。笑
ポテト150円なのでLを。
ふたりで分けて食べたんだろ?って?
いいえ、もちろんLサイズそれぞれ食べますた♪~(´ε` )

サイコスコップ店長が…すごかった……!!
もう右手がスコップになってるじゃないかって思うくらい滑らかな手つきでポスト作ってはった。コブラのサイコガンみたいに、普段は人間の腕に見えるけど、ここぞって時にスコップに。そういう妄想してはポテトを口に運んでた。
あの時はサイコスコップ店長でSSTやな!てはしゃいでたけど、冷静に考えればPSYCHO SCOOP TENCHOなんで、PST、なんですね。

それはさておき。

食後は神戸の王子動物園に連れてってもらいました。
加藤はフラミンゴが嫌い。上野にいったときも、嫌悪感が表情に表れまくっていた。そんなフラミンゴが入園ゲートくぐってすぐに大量飼育されているのだから、もう修羅だ。

で、パンダ!



モサモサと笹食ってはった。
上野では休日のお父さんみたいにダレた姿しか見られなかったので、動いてて感動しちゃった。に、しても、食い方不器用過ぎて愛らし。




パンダー!



象さんはオスメス2頭が仲睦まじく謎のステップ踏んでた。超でかい糞してた。



ここの動物園はネコ科の大型動物のバリエーションが豊富。
でっかい猫ちゃんぎょうさんおったで。







虎ちゃんは凛々しく日光浴してたし、ライオンちゃんはオスだけ情けないくらいダレてた。お前ほんまに百獣の王かよ!てくらいブッサイクな寝顔。
トムキャットみたいな名前のおっきい猫ちゃん、正しくはなんて名前だったか忘れたけど、そいつがほんまに可愛かった!きゃわわな横歩きをずーっと繰り返してたん!


この日はほんとに暖かくて、みんな日光を浴びてのんびりしてた。



白クマちゃんは、大あくび。
この後、金持ちの家の玄関にあるやつみたいにダラーっと寝そべってた。


王子動物園でいちばん心拍数上がったんは、七面鳥に威嚇されたときやわ。

ふれあいの国ってとこで、アホみたいにのんびりいた鶏やら烏骨鶏やら羊やらを見てて、そこでいちばん目立つラマちゃんの前で記念撮影してたん。
したら、一羽の七面鳥が威嚇してきよったから、なんやこっちは人間サマやぞ!いうて、でかい態度で舐めてかかってたわけ。
小川みたいのが流れてて、どや、お前には越えられへんやろへっへーん!て余裕ぶっこいてたら、音もなく背後に忍び寄る七面鳥!けたたましい叫び声を上げながら威嚇を続けているではないか!

しかも七面鳥数羽が加勢し、総勢6羽ほどの叫ぶ七面鳥に追いかけられるハメに。全速力で逃げるも、挟み撃ちに遭う。ほんまあいつら怖すぎた。ちっちゃい頭やから脳みそもちっちゃくてアホやと舐めとったら痛い目あった。


まぁそんでも暖かくて動物たくさん動いてる動物園日和だったし、上野行ったときより動物が近くで見られて、とってもよかった。


そっから何したかってしゃぶしゃぶ食べ放題ですよ。
マックたらふく食ってからの食べ放題。
ふたりで
・豚バラ肉 6皿
・豚ロース 6皿
・豚肩ロース 2皿
・餃子 3皿
・野菜盛り合わせ 2皿
・細切り野菜 1皿
・うどん 3皿
・餅 1皿
・聖護院蕪 1皿
・デザートのチョコケーキ 各1皿

という暴挙( ゚д゚ )
たらふく食ったった。
こうやって書いてみたら、もうちょいイケたかなー、とさえ思うデブー。




そこから新神戸駅まで送ってもらってバイバイしますた。
今回の神戸は加藤のイースくんのおかげでいろんなところ行けて良かった。
仕事もあったのに長いことお世話になった。また東京に加藤が来たときは、辛いから嫌とか文句言わずに思う存分スニック料理屋に連れてったろう思うねん。



なんだかんだで疲れてたので、夜行バスは無理…てなって、新幹線でリッチに東京へ。東京着いたのが23時くらい。
で、ここからがちょっとした地獄であった。

人がホームから飛び降りたとかなんとかで、中央線が遅れちゃって、しかも金曜の夜だからみんなお酒飲んで帰宅ラッシュ。

やっと来た電車に乗ってたら、お腹いっぱいすぎたのと、寝不足だったのとで酔っちゃって。しかも始発の東京駅ですら結構な人が乗ってた電車に、停まるたびにどんどん乗客は増えて、たぶん乗車率120%くらいになってたと思うんだけど、お腹が圧迫されるわ、立ってらんないわ、車内の温度は体温と暖房で暑いわ、酒臭いわで、気分最悪。目眩がしちゃって、我慢できなくて四ツ谷で一時下車。
車内中程まで押されていたのを、泣きながら掻き分けて、フラフラでトイレへ。

そっから30分くらい吐き続け/(^o^)\もったいね!

そんで比較的空いてた中央特快で三鷹まで行って、各停で12時半にようやく西荻帰ってきますた。
三鷹で電車待ってる間、歩きながら嘔吐してるおばちゃんがいて、貰いゲロしないように走って逃げますた。


そんで帰宅後はゲリラ祭り/(^o^)\
上からも下からも/(^o^)\

泣きながらポカリ飲んで寝ますた。


もし夜行バス選んでて、バス内で吐き気と腹痛が襲ってきてたら、と思うと…。


そんなこんなで最後の最後に意味わからんくらい最悪な展開だったけど、
トータルで楽しかったし神戸また好きになったね。

働きはじめたら時間的にもお金のことでもなかなか行けんと思うけど、また絶対行くねん。


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関西4日目。
宝塚歌劇団月組公演の、15時公演を観るのに、寝坊して14時をゆうにすぎてから宝塚駅に到着。
花の道を大劇場まで急ぐけど、11時公演を観終えた人々の波に飲まれ、半ばモーセ状態で劇場へ。

先日、花組を観た席のひとつ後ろの席での観劇。
一階席は分からないけれど、二階席はS席とA席にあまり人が座っていなかった。B席は結構な埋まりよう。

初観劇が先夏で、歌劇やグラフといった雑誌を定期購読できないしがないわたしにとって、宝塚と繋がっていられるのはニコ動や2ちゃんといった、非公式で親会社の阪急には全く金の入らない媒体によってである。
しかし、知り合いに宝塚に通じた人のいなかったわたしにとって、劇場に足を運ぼうという気持ちを持たせるために大いに役立った。

さて、プログラムを買って、おおまかな話の流れと登場人物を捉える。





霧矢大夢さん演じるデイヴィッド(エドワード8世)は、社交界で華々しい日々を送り、国民にも人気の“プリンス・チャーミング”。でも、皇太子という身分を目当てにしてではなく、ひとりの人間として接してくれる人を心では求めている。
蒼乃夕妃さん演じるアメリカ人、ウォリス・シンプソンは、夫の求めでデイヴィッドに近づくも、親密になるにつれ彼に惹かれてゆく。

そんな二人が出会い、愛人関係となり、ウォリスの離婚調停を経て結婚するまでの葛藤が、デイヴィッドとウォリスの小気味よい会話(彼らがこれを“議論”と呼んでいたのが素敵だった)とともに進んでいく。

話のピークは父のジョージ5世の死後、国王エドワード8世となったデイヴィッドが、ウォリスとの愛を全うするために退位を決断し、弟のジョージ6世(映画『英国王のスピーチ』でも取り上げれていた)と抱き合うまでのあの件。
霧矢さんの演技と歌に鳥肌が立って、涙がちょちょぎれました。言わずと知れた歌唱力、貫禄ある演技。トップスターだなぁ~って、当たり前のことを痛感した。退団公演だけど…。

王室を去る時の、“今までここで生きた日々を胸に~(うろ覚え)”的な、退団を匂わせる歌詞を含んだ歌にもホロホロ。

(宛て書きならば、ジョージ6世に龍真咲さんをあてて、その人物像をも少し濃く描くことで、最後の抱擁が現トップから次期トップへの引継ぎを思わせ、更に大拍手だったに違いない、と。次期トップの発表が遅れていたこともあるし、劇団の画策が配役の背景にあるのだろうか。)

困難を乗り越えて結ばれるっていう宝塚的な展開だけど、霧矢・蒼乃コンビならではの大人の暑苦し過ぎないカップルで、好きだった。
ストーリーに関してはいろいろなところでいろいろなことを言われてますが、わたしとしては、(初見の人には)よくわかんない役回りの人がいたなー、ってのと、盛り上がりが急に来たなー、って感じたものの、クライマックスにはとっても感動できたので、まま良かったです。



霧矢さんはじめ月組さんを生で初めて見ました。当然です観劇が三回目なので。
雪組、花組とこれまで観ましたが、月組さん観て思ったのは、とにかく歌のレベルが高いということ。
のっけからコーラスの声量に驚きました。
ソロを歌う人もほとんどの人が音程も声量もしっかりしていて、耳に優しかったです。


レビューのMisty Station、初見故か、?、な場面もあったけど終始楽しかった。
舞台上の皆が華やかな笑顔の中詰め、男役の意気が感じられる群舞、退団者が少しずつ歌い継ぐ終盤の一場面、霧矢さんとまりもちゃん(蒼乃夕妃)がデュエダンのあとで銀橋に出てくるところ、そしてキラキラしたパレード…。
霧矢さん、蒼乃さん、退団者の皆さんには残り少ない大劇場での舞台。
もっと早く宝塚を知っていれば…もっと霧矢さんの舞台を観られたらよかった…と大変に悔やまれる。

組子からの眼差しが泣けた…。素敵なトップさんだったのだなぁ…。

今回、霧矢さんばかりでなく次期トップの龍真咲さんもちゃんと見ようとしました。
自信に溢れた振る舞いと伸びやかな歌声に輝きを感じられました。
そして何よりも、舞台上での男役らしい目力、指の先まで意識のこもったダンス。舞台人として生徒は皆それぞれに注意していることだろうけど、皆が揃う中詰めの場面で特に、彼女の意識の高さがわかった気がしました。
ネット上ではいろいろある事ない事書かれていますが、舞台に対する情熱は人一倍なのでは、と。
彼女のトップとしての舞台も、お財布と相談して観に行けたら。



終演後、劇場内のプチミュージアムに初めて行ってみた。
実際に使われているお衣装などが飾られているのだけど、まぁ華奢なこと。
絶対わたし入んないわ、あんな細い肩幅の服。
過去10年くらいの歴代トップスターさん(現役は除く)の手形もあってはめたりできるんだけど、まぁ皆、指が細長い。実物は、白魚の手なのだろうなぁ。
朝海ひかるさん、安蘭けいさんなどの手はとってもちっちゃかった。
ただ、湖月わたるさんの手はわたしのより若干大きかった。

出口に霧矢さんの実物大と思しきパネルが有り、背比べをしてみた。
男役さんは、5センチとか7センチとかのヒールを履いてるなんてどこかで読んだ気がするけど、そう考えると霧矢さん実は結構小柄なのだなぁ、と。ヒールを履いたパネルでさえ、ヒールなし169センチのわたしと同じか少し小さく感じた。そして今日見た実物の細さ。トップになる以前に比べて痩せた(こけた)とも言われていますが、まぁ細い。それにあの声量である。しかも二回公演の二回目。
宝塚を観るたび、生徒さんたちの体力には驚かされる。



長くなってしまったが、加藤が夜勤でいなくてぼっちなので、プログラムをもうひと通り見たあと、ひとり寂しくニコ動(当然宝塚関連の動画)観て寝まする。






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関西2日目は生憎の曇り空で。

前々から行きたかった国立民俗学博物館のため、大阪は吹田の万博記念公園へ。

乗り換え乗り換えモノレールにまで乗って、着いたところは如何にも、郊外~って感じの場所。
決まった坪数の土地に似たような家が立ち並ぶ、東京で言えば八王子(厳密には日野?)の中大やら帝京大やらあるあたりに似ている。

そんな場所に広がる万博記念公園は、1970年、高度経済成長の只中に、アジアで初めて万国博覧会が開催された場所である。
テーマの「人類の進歩と調和」、三波春夫の「世界の国からこんにちは」、丹下健三の設計したパビリオン、そしてなにより、




岡本太郎の「太陽の塔」。




お口きゃわわ♡


70年当時の写真など見ると、まぁなんと華やかなことか、と感じるが、パビリオンなどの建物が解体されたいまでは、ただただ広いところに巨大な太陽の塔が物言わずにそびえ立っているる、なんとモノ寂しいことか。
祭りの後って言葉がうってつけなのでは、と当時を知らないわたしが思っても、まぁ仕方のないことなのだが。


それでも、これがなければここがあのエクスポの場所であったとは、信じられまい。
入場ゲートから少し奥にある博物館に入るまでも、観光客がまばらに居るだけであった。
エクスポランドも数年前に閉まってしまって今では誰も乗せていない遊具が錆び付いている。

で、国立民俗学博物館ですけど、ここもまぁ平日であったとはいえ、ほぼ貸し切り状態であった。

世界のいくつかの地域を分けてブースが設けられており、世界中から収集されたものが並んでいる。

オセアニアのブースでは人肉用フォークに驚いた。その島にキリスト教的感念の入る以前、少し前の時代まで、争いで死んだ人は、人に食われていたのだと。
それが慣行であったのだ、わたしには考えがたい。しかしそこで、生来、宗教的感念に囚われてきた自分のアイデンティティを再確認した。

アフリカのブースにはビーズ細工や儀式のための道具から、女性が水を汲んでくるためのバケツまである。

まぁ何万点という収蔵品が所狭しと並んでいて、丁寧に見て回るには相当な時間を要する。
展示室も割りと複雑な造りをしているし、昼間でも暗い(且つ入場者がほとんどいない)ので、少々不気味であった。

と、そこにやかましい団体の登場、小学生の遠足だろう、1年生くらいの小さな子供たちが走るわ叫ぶわ。
グループ学習なのか、バラバラで行動しているし、引率の先生がいないらしく、まぁどこから子供が飛び出してくるやらヒヤヒヤした。

「怖い~」、「泣いたらあかんやん」、「いま目が光った!」、「やめてよ~」というように、彼らにしたらこれらのコレクションはただただ不気味なものでしかないのだ、とおかしかったし可愛かった。

一番面白かったのは、バリのお面だなー。強面、無表情、怒った顔にひょうきんな顔と、表情も色彩もカラフルだった。


少々疲れて、しかも超寒い!
とりあえず梅田まで帰ってタリーズで休憩。
関西のああいった形式の飲食店って先に席を取ってから注文なのね。少し恥をかきました。

その後、大阪天満宮付近の大阪繁昌亭へ。





桂枝三郎・桂三歩・桂三発兄弟会を見ました。
桂三枝さんの内弟子さんだそうで。
親ほどの歳の落語家さん三人でした。

18時30分開演で、5分前に滑り込んだ(縁起悪い)のだけど、快く入場できて、客席見てみると真っ赤でした。つまりお客があまり入ってない…。
少し心配になりながら、後ろに座っていた玄人ぽいシニア四人組の会話を聞いて始まるのを待ちます。

幕が開き、三人の座談会が始まって早々に客の入りを自虐してらした。笑

でもわたしが何に驚いたかっていうと、落語家さんたちの声の大きさ。
梅田の花月とか、広いホールみたいなものではない小さめの小屋だったけれど、まぁまぁ驚くほどに通る声と発音。純粋に、すごいなぁ、と。

枝三郎さんは古典(だろうもの、落語ほとんど知らないので分からない…)を。
三発さんは創作落語。
三歩さんは現代もの(だと思われる)を。

幕間に少々客が減り、
再びそれをネタにした座談会の後、枝三郎さんがまた古典をひとつ。

初めて小屋にちゃんと来て、落語を聴いたのだけど、感動したのは小屋の空気。
今回が小さめの小屋だったからかも知れないけど、噺家側にも観客側にも和やかに互いを見つめる目があった。

終演後は小屋の外まで出演者のお三方が出てきてくださった。

やはり後ろの玄人四人組は常連さんらしく、噺家さんたちと顔なじみな風情で言葉を交わしていた。

平日とはいえ、なかなかの立地にあるしっかりした小屋に、あまり客足が振るわなかった様子に、伝統芸能である落語の現代における経営の難しさを感じた。
ああいう商売は、精通した客がリピートすることに加え、当然、新規客の獲得が不可欠である。
落語に馴染みのないわたしたち若い世代を取り込んでいかなくては次代を紡ぐことが難しくなってしまう。

そのために何が必要なんだろう。
例えば、若い上方落語ファンをつくるために地元の人に対して特典をつけるとか。
わたしのような観光客にはもう少し親切であってほしい。公式サイトのアクセスマップは土地勘のないわたしには難解すぎた。だから少し迷って、到着が遅れた。

何はともあれ、連続テレビ小説「ちりとてちん」を見てから一度は見てみたいと思っていた上方落語に触れられて貴重な経験だった。
東京でもこの春、一度、江戸前の落語を見に行きたい。



3日目には、加藤の運転で三田のアウトレットに行った。
雨と山道という芳しくないコンディションななか、山の神様、コーナンの軽トラに導かれて山道を曲がる曲がる。
加藤は駐車が数日で着実に上達している。アイドリングストップの得意なイースくんとは末永く仲良くやってほしいものだ。



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事情あって、いたずらにバイトを入れてない完全なフリーデーを5日ほどとっていた。

でも海外行けるほどリッチでもなければ準備の期間もなかったもので、
さて、国内、ということで、当初は九州旅行を検討していたものの、
ここでもお金の問題が頭をもたげた。

宿代浮かせたい→誰かのおうちに泊めて頂く×みうちゃんに会おう=関西へ。
ということで、結構な突然の申し出だったものを、承諾してもらって、いま神戸を拠点にして少しずつだが(無計画だったため迂闊に動けない…)観光している。

初日は夜行バスの朝着で、三宮で少し待っていると、そこにかとみうが華麗にイースくんで登場。
かとみう宅に荷物を置かせてもらい、かとみうの勤務先の病院で野暮用ののち、徒歩で兵庫駅。
(ところで、かとみう宅で駐車に四苦八苦したのも将来的には思い出のひとつになるだろう。)

腹ごしらえにベトナム料理屋へ。フォーと炒飯。

移動中にスナック感覚で行列肉屋の名物コロッケ。



食べ物に関しては盲目!


(チャオパを越えて…)

元町で古着屋、雑貨屋などを回る。
あのへんはとても雰囲気よくて趣があって好き。
港町特有の人の大らかさを感じられる。

かとみうはいい買い物してたね。
わたしも服を見繕ってもらった。

そして!

わたしが今回、神戸へやってきた目的のひとつである、チーケー(チーズケーキ)を頂きにカーフェイへ。
あのチーケーは、神戸一、いや、ニッポンイチやで!
滑らか且つ濃厚且つ後に残らずすんなり頂ける。美味なことこの上なしなのだ。




チーケーを目の当たりにすると、
こんなにもわたしの食欲中枢は顔の筋肉を弛緩させるのだ…!

ただ、隣のいきりのおっちゃんが残念な点だった。
しかし、こんなマイナスポイントさえも補って余りある程のチーケーの威力。


そこから、一旦帰宅し、かとみうの運転で西宮へ。H&Mを目指す。
正確には正確だけど右折左折などの指示が直前すぎるナビのもと、なんとか到着。

いろいろ見たけどんんん、て感じで、駐車料金浮かすためにとりあえず飯を。


と、ここでバイキングを選ぶところがわたしたちの憎めない点であり、同時に戒めるべき点である。

閉店まで食べ続けていいっていう天国でしたので、むっしゃむっしゃと食べました。
わたしはイモのようわからんクリームソースのんをぎょうさん食べた。



多大な公開と一緒にイースくんで帰宅、燃え尽きるように就寝したのであった。



つづく。


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情けねぇ、と、最近すごく温室にぬくぬくしてる自分が嫌になっていて、
取り立てて不幸でもないのに自分が不甲斐なすぎて馬鹿すぎて可哀想とすら思っていた。

今日はパソコンというわたしにしてはとても高価な買い物をした。
それで当たり前だけどお金がなくなって、情けないことに母親に電話してぐちぐち言って、そんな自分を認めてさらに情けない気持ちになった。

いつでも彼女はわたしを見捨てず慰めてくれる。屁理屈にも逆上せずに相槌を打ってくれる。優しければ優しいほど、彼女が立派なことを感じれば感じるほど、それに比例してどんどんわたしはわたしを嫌いになるのだ。

いつにも増して、ステレオタイプな人や物の捉え方をして、寛容の真反対の卑屈なわたしだ。


あーあ、またつまらんことで母親に迷惑をかけてしまった、と辛くなってしまって、そういうタイミングでかとみうからお電話あった。GTKだった。Good Timing Katoだ。しかし、またここでも情けないことにうじうじとしてしまった。どこまでもわたしは子供だと思った。
精神的にすごく幼くて、一足先に社会人になったかとみうは、なんだか時々、頼れるお姉さんのようにも感じられる。


こんなわたしでもいつか、母やかとみうを癒せるような、弱ったときに勇気を与えられるような人になれるだろうか。ずっと頼りっぱなしで申し訳ない気持ちがある。いつになればわたしは大人になれるのだろうか。ずっとひねくれたガキンチョだろうか。





貧乏人の気質で、半年以上伸ばし続けた髪の毛を剪定した。
気分を変えて前髪を作ったら、毛皮のマリーズの人みたいになって、留美サイケデリコ。留美サイケデリ子。


近影に耐えられるほどの顔ではないのでモザイクだが。



でも、なんだかいろいろと落ち込んでいたのがマシになった。ずっとひねくれていてはダメね。前向きになって(といってもベッキー♪♯みたいのは無理)、パワースポット巡っておごそかな気持ちになりたいデトックス。デトックスサイケデリコ。




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