金曜の夜に東京駅を発って、土曜の昼から日曜の昼まで、
某大手旅行代理店のプランに申し込んで、
ボランティアツアーという名目で宮城県南三陸町に行ってきた。
考えも気持ちも整理がつかないが、帰宅していま、純粋に感じたことを
今後の自分の振り返りのためにも記録しておこうと思う。
エピソードの抜粋というよりも、小学生の書く日記のように時系列を追って長々と書いてしまうことにする。
こんな短時間でまとまってしまうほうが不自然な気もする。
南三陸町は、昨年の災害で1000名以上の死者・行方不明者があり、
町の7割の建物が全壊してしまった町。
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夜中に東北自動車道が雪の影響で通行止めになっていて、
到着が予定より遅れたせいで、初日は実労2時間もなかった。
南三陸町に着いてまず目にしたのは、瓦礫が撤去された後の
何もない、本当に何もない町が広がっていた光景だった。
本当に静かで、遠くで重機が瓦礫を片付ける音、車がたまに通るエンジン音しかない。
津波の被害が甚大だった志津川地区の沿岸部には人の生活の気配は全くなかったように見られた。
初日にした活動は、津波の被害に遭った町内の福祉施設に残された瓦礫を、
町民の通る道から目につかないよう、建物の裏まで運ぶ、というもの。
たった数十メートルの距離を、数人で協力すれば運べるすでに分別されたものを、ただ運ぶという作業で、
被災後すぐに残っていた、重機と一緒になって、ではないと出来ないような大変な作業と比べると
楽な部類に入るのだろう。
しかし、短い活動時間にしては思いのほか、疲れた印象が残ったのは、おそらく運んだものたちが、
どこかで誰もが必ず触れたことのあるような、ベッドや布団、ポットといった家電などの
日常的なものだったからだろう。それがよくテレビや新聞で見た大きく黒い波にもまれてしまって使い物にならず、泥だらけの”瓦礫”として扱われていることすら、初めて被災地に行ったわたしにはショックだったのだ。
そこから、実際に当時、そこにいて波を免れた方からのお話を聞くことができた。
その方がしきりにわたし達に言っていたのは、
「自分ひとりを守ることを考えろ。隣の人を助けようとすると両方死んでしまう。」ということばだった。
使命感、責任感から取られる美談や善行とは正反対にあることばで、
平和ボケしたわたしにはシビアーに感じられた。しかし何より「まず我が身」と。
これは推測でしかないのだけど、生存された多くの町の人々が、必死に自分の命を守ったが、
身近な人が亡くなった事実を思うにつれ、「どうして自分は生かされたのか」という自責の思いを
反芻したのではないだろうか。
いろいろな人への気持ちを自分の中で咀嚼して納得する作業とともに、
被災した方々は復興に向かっているのだろう、と思うと、
実質、直接的な被害を受けていない自分は、彼らの話を完全に理解することは不可能だ、と感じた。
だからただ、こうして少しでもできることを手伝って、そして見聞したことを
わたしのように他人事のようにして毎日を送っている人に少しでも話すしかできないなぁ、と。
そのあと、先月末にようやくオープンした、町内の商店街に寄った。
商店街といっても、店店がアーケードに立ち並んでいるわけではなく
小さなプレハブのお店が並んでいるようなところだった。
となりには廃屋と瓦礫の山がまだあった。
そこには食堂や美容院、電気屋、生鮮食品の店、衣料品店があったが、
思いのほか地元の人は多くないと感じられた。
車のない人や、町から離れてしまった人には近寄りがたいのだろうか、
そう思うと、本当に津波は町の人々の日常を破壊してしまったんだ、と。
それでも、店の人と地元の客が話しているのに聞き耳をたててみると
「今どこどこの仮設住宅にいるのよ~」「じゃあ誰々さんと同じじゃない」「そうなのよ~」
などと、地元住民ならではの情報共有の光景がここにはあって、
ここに来れば誰かに会えるかもしれない、と地元住民に思わせる、
そういう希望の芽のようにもこの商店街は見えた。
宿には、町内の高台にあるとてもきれいなホテルを宛がわれた。
畳の部屋に5人ずつ、ふかふかの布団があり、タオルや浴衣も用意されていて
海のよく見える本当に快適な環境だった。
夕食前に語り部さんのお話を伺うことが出来た。
自宅は高台にあり、家族も自宅の2階も助かったけれど、友人や親類を多く失ったそうだ。
一番悲しいことは、町の皆が散り散りになり、縁が遠くなってしまったことだと言う。
日常の崩壊が人の精神を蝕む、ということは様々なシチュエーションで起こりうることだけど、
多くの場合が工夫や努力でその状況を脱却できる。
しかし、この場合は状況が状況であるし、それを招いた原因も自然災害ということで
怒りや解決の糸口を求めようにもそう容易にはいかない。
そんな想像するに至るのが不可能なほどの喪失感と共に生きているのだろうに、
わたし達にお話ししてくれて、そこまでの気持ちになれるまでに相当な葛藤があったに違いない。
また、被災地の外にいる人々、つまりわたしのように直接的な被害がなかったり、
被災地から遠く離れている人々が、被災地のことを忘れてしまうことが怖い、とも。
どうしても、最近は関東など東北以外の地域では、被災地についての報道が少なくなっているし、
市民の関心も時が経つにつれて薄れてしまっているのは事実だと思う。
節電節電といっていた時期に比べ、街は明るすぎるくらいになっていることからもわかる。
このことに対してどういったことが有効かというと、ずばり被災地に行くこと、だと思う。
多くの人は、一度でも行ったことがある場所、会ったことがある人に親近感を抱く。
それは、そこで受け取ったいろいろなエッセンスを、自分のテリトリーに持ち帰って
ふとしたきっかけに思い出すことから起こる感情である。
よって、どんな形であれ、東北に、被災地に足を運ぶことで、そこで自分に蓄積された
たくさんの感情や情景は、全く何不自由ないような自分の日常に帰ったとしても
様々な場面で思い出されるはずなのだ。
で、夕食なのだが、
ボランティアの食う飯ってのはせいぜいほかほか弁当レベルだと思っていたのが、
普通に観光でホテルに宿泊するときに出てくるような、ちょっとした懐石のようなものが与えられた。
釜飯やら刺身、茶碗蒸しに吸い物、蒸した魚、煮物、果物まで。
お腹一杯になることに申し訳なさを感じることは、
もしかすると被災から1年経った被災者に対して失礼にあたるのかもしれないが、
この事実と、昼間に見た何もない町とのギャップに驚いてしまった。
そして温泉に入り、暖かな布団で就寝。
翌日は、朝からビュッフェ形式の朝食で、和洋の食材が食べ放題であった。
ボランティアとは言うものの、宿泊や食事といったことに関しては
完全に観光客の感覚を意識してセッティングされたツアーなのだ。
これが当然のことなのか、異常なことなのか、わたしには判断しかねるのだが。
そして午前中から昼まで、波を受け廃校になる小学校で行われる、最後の卒業式のため
設営や清掃といった、またまた重労働ではないような作業に従事した。
学び舎がある日、突然に破壊され、さらには、
それまでの仲間たちと離れなければなってしまった子供たちのためだ、
と思うと自然と雑巾を持つ手に力が入った。
保護者の方々も数名おり、終始明るく振舞われていたものの、
思うところはいろいろと複雑なのだろう、と、また推測というか、勘ぐってしまった。
そうして、その後、町を離れて高速でその日のうちに東京に帰ってきた。
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以下では、トピックスを取り上げていく。
◎参加者いろいろ
自己紹介の時間があったので、参加者のみなさんのことを少し知ることができた。
この程度の情報で特定はされない、と思うので書いてしまうこととする。
参加者の男女比は男性:女性=4:6くらいかな。
40人中、約半数が学生で、最年少はこれから大学生になる18歳。
金曜夜~日曜夜のプランだったのもあって、休日を利用して参加した社会人が残りの半数。
参加の動機は様々で、でも大半は「何か力になりたくて」という至ってシンプルなもの。
凡その人々は初めての参加で、
でも中にはもう何回も東北に来ています、という方も。
同じ代理店の同じプランで以前に参加したこともあるらしく、
でも被災してすぐ、という時期と比べて
格段にボランティアに対する接遇(環境の面で)はリッチになっているとのこと。
◎語り部さんのお話より
上記にもあるように、この方は自宅(1階部分は波によって何もなくなってしまったそうだが)、
同居していた家族が助かり、間貸ししていたアパートの空室で避難生活を送ることができたそうで、
家も家族も・・・というような避難所にいる人々から「よかったわね」などと
僻みや嫌味のようなことを言われるのが辛かった、とおっしゃっていた。
「辛い気持ちは同じようにあるし、津波によって被害を受けたのは同じ」と。
自然災害によってもたらされた事実に対して、どうしようもないのは同じであるのだが
被災の程度が人によって異なることで、双方が違った辛さを抱く構図が出来上がっている。
目の前の惨状を受け入れるのにも、前に向かおうという気持ちになるのにも、
それぞれ違った長さの時間が必要になる。
本当に気を長く持って、双方が助け合って生きていけるようになることが望まれる、と思った。
語り部として活動するまでにも抵抗が当初はあったそうで、
でも、被災したことについて、うんうんと相槌を打って「辛かったね」、と話を聞いてもらえたことで
少し気持ちが前向きになった、と。
わたしも参加に際して調べていくうちに、いろんな形のボランティアがあることが分かったのだけど、
被災者の避難所(はだいたいが閉鎖されたのでこれは数か月前の話ですが)や仮設住宅に話を聴きに行く、
なんていうのもあって、でもそれにはなんだか畏れ多くて手が出せなかった。
だって、何もかも無くしてしまった、と感じているかもしれない被災地の人にとって
目の前にいる、家に帰ればあったかい布団だってテレビだってパソコンだってあるような被災地外の人に
共感してます、みたいにして話をするのってどうなんだろう、と思ったのだ。ひねくれているだろうか。
何にも知らない人に話すほうが楽になることだってあるんだろうが、果たしてこの場合は、と。
◎ふるさとについて
これも語り部さんのお話にあったんだけど、
この方はもともと、南三陸の民話を語り継ぐ活動を行っていたそう。
南三陸町は柳田國男の『遠野物語』で有名な遠野地方に次ぐほどの、
東北で指折りの民話の里であるとのこと。
人が民話を紡ぐためには、里を囲む自然が必要である。
今回は、その自然が人の生活を崩壊させてしまった。なんとも皮肉なことである。
ホテルには、震災前の南三陸町の写真がプリントされたポストカードが売られていた。
あの海、山に囲まれたふるさとの風景があってこそ、民話も生きるというもの。
今は、海、山は依然として在るものの、里がない。
民話の光景がありありと浮かぶような豊かな里が再び造られるのには、
少なくとも10年はかかるとも言われている。
また、これは統計や報道の裏付けがないことだけど、
語り部さんが言うことには、若い人びとを中心に、町民が町外に移るケースも多いとのこと。
それまでしていた仕事が続けられなくなった人は、外に出ざるを得ない。
海の近くは商業施設や公園を、山間の高台に町民の居住スペースをという都市計画が構想されているそうだが
このままでは年配の人だらけの町になってしまうのでは、とおっしゃっていた。
◎ゆとり教育
これは活動を離れて、宿でのお話。
今回のツアー参加者の多くが”ゆとり世代”と呼ばれる若者で、
まぁわたしもその中のひとりなのだけど、社会人の参加者の方々とお話ししていて、
「この世代の子は言わないと動かないし、言った以上のことは追求しないよね。」と言われた。
よく指摘されることだし、自覚もあるだけに、こんな機会で言われてしまうと普段よりもコタエた。
よって2日目の活動はさらに気持ちを引き締めて行うよう務めたわけだが、
世代の上の人に言わせてみると、こういった行動も「最初からなんで全力出さないの」ということになるだろう。
ただ、その反面、初めての被災地ボランティアという社会人は
今回の学生ボランティアの多さに驚いた人も多いと言っていた。
「(こんなに若者が復興に関心を持っているなんて)日本も捨てたもんじゃない」と。
そんなことばに励まされたところもあり、自分の世間に対する無関心さを戒めなくては、と思った。
◎わたしの変化
実際に被災地を目で見て来たことで、格段に震災、復興への関心の度合いが増した。
震災後1年が経とうとしている。
わたし自身、現在進行形である被災地支援、復興、原発問題について、
最近では、すでに過去のことであるかのような感覚さえあったと振り返る。
しかし、そうではないのだ、と、足を運んで目で見て、ようやく知った。
だって、1年という歳月を経て、南三陸町を見る限りでは、
大きな瓦礫が”片付き始めた”段階であり、流された家の基礎はまだ撤去されていない。
新しく建物が出来ている、という光景がすでにあるかと思いきや、そんな状況だったのだ。
これはボランティアの1人のことばだが「まだ人の手が必要なところが山積している」。
よく人の目にするテレビっていう巨大なメディアで継続して震災関連の報道をしているのは
NHKだけだなぁ、って。
なのにわたしときたら、辛いこと、難しいこと、複雑なことから目を背けたい人間の習性に従順なために
震災に関心を持っていられたのはほんの数か月だったように思う。
語り部さんのことば、ボランティアの方のことばにもあったように、
被災地の人はもちろん外の人も、復興に関わり続けることが必要なのだ。
わたしのような被災地外の人は、当事者でないがしかし、それなりに関与してけるはずだ。
体力的に、だとか、仕事の関係で、だとか、人それぞれにキャパがあるので、
被災地に足を運ぶことができない、という人もいるだろう。
だから、被災地の情報を追うことが何より求められる。
復興は、日本中の人々が思っているよりも進んではいないという事実は、
ただテレビをかけ流しているだけれは得られない。
こちらからアクセスしていかなくてはならないのだ。
自分のテリトリーの中では、自分のことに関心が向きがちだけど、
わたしにとって(短い時間だったけれど)被災地と関わることができたことで、
能動的なエネルギーが生じていると感じる。
気づくのはすごく遅かったんだろうけれど、気づくことができたのはよかったと思う。
時間が経ったことで、いろいろな教訓やデータに基づく情報も出ている。
正しい情報を収集する術も、習得していかなくてはならない。
やっぱり長々とまとまらなかった。ゆとりの書く頭の悪い日記だ。
でも、いずれまた、いろんなきっかけで被災地や震災のことを思うだろう。
だから素直な感想もそのまま残しておく。
今回のことで、自分をとりまくいろいろな人や物事について思いあぐねた。
また、いつか必ず南三陸町には訪れたいと思っている。
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追記。
NHKで、今回訪れた南三陸町の商店街を作るまでの番組を再放送していた。
海岸から2㎞の場所に商店街の予定地を決め~とナレーションがあり、
!?と。「あれ海から2㎞もあったん!?」て。
それだけ、何にもない風景が続いていたことに、東京に帰って改めてショックだった。