ニューヨーク&日本クラブの意外な歴史と日本男児 | だれも書かない★ニューヨーク1%未満★

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日本からは見えにくい、知られざるニューヨークやニューヨーカーのこと、たまにプライベートなことを書いています。

最近、日本や日本人、特に日本人男性たちの評価が世界的に上がってきているな、と勝手に嬉しく思っています。

 

 

 

 

角野隼斗、カーネギーホールでピアノ演奏
カーネギー大ホール満席
ピアノリサイタルデビューをした角野隼斗さん

 

 

 

 

カーネギーホール、角野隼斗コンサートの観客
スタンディングオベーション
最後のアンコールはきらきら星変曲レベル1〜7
 
 

 

わたしは36年ニューヨークに住んでいますが、自分が日本人であることに矜持を忘れたことはないですし、娘もアメリカ人ですが、自分は半分だけでも日本人であることに並々ならない誇りを持っています。

 

さらに最近は若い世代の男性たちの世界的な活躍が牽引し、わたしぐらいの年齢でも品があり、国際的なマナーを備え、アメリカ人たちも一目置くような方々が増えている気がします。

 

きっと日本人が昔から大切にしている謙虚さ、礼儀正しさ、礼節と言った美徳が、世界的に認められつつあることも大きい気がします。

 

 

でも反面、今は日本から海外、特にアメリカには、円安やビザの深刻な問題が絡み、なかなか来づらい世の中になっていますね。

 

世界に飛び出す日本人が激減し、海外に魅力を感じない日本人も増えた印象でした。

でも、日本人の実力って、国内にいても気がついたらあらゆる分野で世界レベルに到達していたのでしょうね。

こんなご時世でも、国境を軽々と越え、アメリカで世界中の人たちに認められ、愛されている日本人プロフェッショナルが増えています。

 

 

ただ、「英語」という最後の最後の難関があってとびだせない人が多いのだけど、それも時間の問題で克服できるような気がします。

(わたしは基本的にこういうことに関しては楽天的です)

 

 

大谷翔平選手しかり、今回カーネギーホールでピアニストとしてデビューを果たした角野隼斗さんしかり。

 

角野隼斗さんは、You tuberのCateenかてぃんとしてご存じの方も多いと思います。

You Tubeでは世界中に150万人のフォロワーがいて、正当のクラシックを弾くだけでなく、ジャスやアレンジもできてしまう天才として大活躍されています。

現在はニューヨークにも居を構えておられ、コンサートはもちろん全て聞き取りやすい発音の英語で進められました。

 

彼の大ファンである友人は、今年初めに武道館で行われたコンサートのためにわざわざニューヨークから日本に帰国したのですが、逆にカーネギーでのリサイタルには、多くの方々が日本から駆けつけていらしていたようです。

 

カーネギーホールにくる人といえば、中心は60代以上。

このままではクラシック音楽は絶滅の危機に貧するのでは、と音楽好きの友人たちは危機感を感じていたのですが、この日は大ホールがほぼ満席。

しかも若い人がたくさんいらしていました。

 

 

さて、日本人がニューヨークの地に足をつけて活躍した最初の時代を遡ると高峰譲吉博士に到るでしょう。

多くの方が歴史の教科書で学び、名前ぐらいはご存じだと思います。

江戸末期に生まれた高峰博士は、アドレナリンの発見でアメリカで巨万の富を築いた人です。

 

 

明治41年には、なんとニューヨークで日本人が集まれるよう、日本クラブを創設されました。

当時、野口英世博士や、同じ頃にニューヨークの銀行で働いており、その経験をまとめた「あめりか物語」の著者永井荷風などもニューヨークに住んでいた時代です。

 

彼らが生まれた頃はまだ江戸時代。

それから日本は激動の怒涛に放り込まれ、大きく変化することになります。

彼らがアメリカに来た頃は、話す言葉ばかりか、着るものも、食べるものも、ビルディングも初めて見るものばかり。

そんな環境でも、怖気づいたり、萎縮したり、気後れすることもなく馴染んでいき、異なるもの全てを貪欲に面白がり実力を発揮します。

 

 

日本クラブ前に立つ女性、ニューヨークの風景
日本クラブ12月で閉じる57丁目のタワービル。
 

 

 

鎖国が長かった日本ですが、国内で培われたものは全て、アメリカのそれとは違っても、国際レベルで通用するものだったのは間違いがありません。

 

それは明治初期に、女子初めての長期留学生として幼少のみぎりアメリカにやってきた津田梅子、大山捨松、永井繁子なども同様です。

 

大山捨松に至っては、留学していたヴァッサー大学(当時は名門女子大だった)で爆発的な人気を誇るスター的な存在でした。

会津藩の家老の娘として生を受け、美しくて利発、身のこなしや所作が美しく、凛とした彼女は、アメリカ東海岸のエスタブリッシュメントにもあっという間に受け入れられたのです。

 

なんで今更こんなことを書くの?

って感じですね。ハハ。

 

 

高峰譲吉博士が1908年に立ち上げてくださった日本クラブが、来年より現在の57丁目から五番街47丁目にお引越しをするのです。

 

残念なことに日本企業の撤退、駐在員の激減で現在会員数が減っており、ややこじんまりとしたところへのお引越しです。

でも、見方を変えればくつろげるいい感じの場所です。

 

本格的な日本食のレストランやカフェも入ります。

わたしは書道を習っていますが、他にもお茶、日本舞踊、お花、その他いろいろなクラスをとることもできます。

 

興味深いイベントもたくさん開催されています。

 

ニューヨーク近郊にお住まいの方、またはこれからニューヨークにいらっしゃるご予定の方、きっと日本クラブを通じて和に回帰し、世界が広がると思います。