昨日、パキスタン有力野党「パキスタン人民党」総裁のベナジル・ブット元首相が暗殺されたニュースを知りました。
わたしが彼女に俄然興味を抱いたのは、1988年、彼女が35歳の若さでパキスタンの首相の地位についたとき。
アメリカの何かの雑誌で特集されていたブットさんは息をのむ美しさでした。
さらにその雑誌で、彼女は、パキスタンで教育を受けた後、アメリカにわたり、名門ラドクリフ女子大(あのヘレン・ケラーの出身校でもあります。現ハーヴァード大、)を優秀な成績で卒業し、その後は、オックスフォード大学に進み、在学中は、とてもプレステージの高い「オックスフォード・ユニオン」というディベートのクラブの議長を、アジア女性としては初めてつとめたということを知り、ますます目が離せなくなりました。
けれど、首相就任20ヶ月後には軍によるクーデターで首相の地位を追われ、5年後に再び当選しますが、またして同じような事情で、3年後の1996年にその地位を追われてしまいます。
その後、98年からつい最近までドバイで亡命生活を送っていたのですが、10月に、政的なライバルの立場にあるムシャラフ大統領らの「危険だから帰国は見送ったほうがいい」という言葉を押し切って帰国し、このような悲劇的な事態に巻き込まれてしまいました。選挙を2週間後に控えてのことでした。
わたしが、ブットさんにものすごく興味をもったのは、彼女が美しくしかも優秀な女性だからというだけではありません。
彼女のお父上も、最終的にはアメリカ、そしてイギリスで最高学府をおさめた方で、そのお父上が外務大臣として国連へ赴いた際、彼女は一時的にラドクリフを離れニューヨークで父親の片腕となり活動を手伝います。
そしてそれは後の彼女の政治活動への参加の大きな経験となったと、Wikipideaには書いてあります。
極めつけは、彼女のお父上も70年代には首相を務めていること。
しかもパキスタンの歴代の首相の中では国民にもっとも人気があったにもかかわらず、
首相在任中、ある政治家の暗殺を陰謀した角で裁判にかけられ、
最終的には軍に処刑されてしまったいきさつがあることです。
つまり、ブットさんが政治を目指したのは、お父さんの遺志を継ぐ決意だったことはいうまでもないことなんです。
お父上は「パキスタン人民党」の創設者であり、パキスタンとバングラデシュを分割するきっかけを作った人でもありました。
5人兄弟の長女でもあったベナジル・ブットさん、あれだけ美しく優雅で、しかも弁も立つ。
ハーヴァードやオックスフォードに在学している頃は、さぞやモテたことは想像がつきます。
それにもかかわらず、最終的には国に帰り、父親のあとを継ぐ決意をします。註・1985年と1996年に、ブットさんの2人の弟たちは相次いで殺されています。
ここで凡人のわたしは考えます。
父親が処刑裁判にかけられているとき、彼女も軍により自宅軟禁され、処刑後も母親と二人、数か月ポリースキャンプに収容され、自由を奪われます。
そう自国に住むことすら危険な状態を経験しているわけです。
だったら、あんなに才色兼備なんだから、アメリカかイギリスの投資銀行か大手法律事務所にでも就職して、NYかロンドンで悠々自適の生活だってできたのに・・・。
いえいえ、ネイルサロンとエステ、皮膚科に通い、パーソナルトレーナーをつけて自分磨きに専念する道だってありだったはずです。
それでもブットさんは命がけで政治を目指したのです。
今年に入り政界復帰を目指してドバイから帰国し、10月にはカラチで遊説中、自爆テロに遭遇しています。
思えばこれが不穏な悪の予兆だったとはいえないでしょうか。
ブットさんはそれに屈せず、12月27日、イスラマバード郊外のラーワルピンディーで選挙集会に参加し、銃撃により暗殺されてしまいます。
本当に残念です。
ご家族の、ご主人、そしてお嬢さんたちのお気もちを考えるといたたまれない気持ちになります。
犯人は直後に自爆テロを起こし、支持者や警官を含め20名程度の死者が出たということです。
テロの巻き添えとなって亡くなった方、そのご親族、そして何よりもパキスタンの方々の無念を思うと、自分自身の無力も含めて憤りを感じます。
パキスタンは今混迷しています。
まだまだ混乱は続くのでしょうか。
ブットさんのご冥福を心から祈ります。