2005年、厚生省の調べによると、約2万人の赤ちゃんが不妊治療によって誕生しています。
これがアメリカともなると、統計が見つからないのですが、きっと比較にならない人数だと思います。
現にわたしの身近なところでも、辛いIVF治療をくぐり抜けてきた人は、あの人もこの人もと数え切れないほどです。
IVF治療で2人のお嬢さんを授かった友人はこういいます。
「PMSのときってなんかイライラしたり絶望的な気分になったり、顔に吹き出物ができたりするでしょう。不妊治療中って、あの百倍の辛さって感じ」
えっ~~~、PMSの百倍?
うちは、これまで夫婦喧嘩をした日を調べてみたら、
ほとんどがわたしのPMSの日だったことが確認されています(;^ω^A
夫は、魔のPMSDayには出張を入れて留守にしたいと言っております。
「だから、わたしは期間を決めて挑戦したの。あまり長く続けるのは、精神的にも肉体的にもリスクが大きいと思ったから。わたしは2年間と決めた。それで出来なかったらきっぱり諦めるか里子を貰うつもりで。最初の子は、7回目に成功したの。下の子は3回目で授かった」
また男女の双子を授かった別の友人はこういいます。
「あの時期は離婚の危機でもあった。特にわたしは負けず嫌いで、今までの人生、自分でこうと決めて達成できなかったことってなかったから、自分で思うようにコントロールできないということが何より辛かった。たまたま夫の精子の数が少ないということもあったから、彼を責めたりもして、それで夫との仲ももう少しで危うくなるところだった」
「失敗が4回も続いた頃は、公園で楽しそうに遊んでいる子供を見ると涙が止まらなくなってその場で号泣したこともあった」
とも。体の痛みより心の痛みのほうが大きかったと。
そう、これまで何でも思い通りに達成してきた「出来る女」ほど、はまるのです。
実はかくいうわたしも、考えたのですが、やるとなると、一途にまっしぐら、はまりやすい性格だけはだれより熟知していたので、少し調べて止めました。
上手くいかなかったとき、ボロボロになる自分が見えたから。
ないものを欲しがって、手に入らないものをねだってネガティブに生きるよりは、
今あるものに感謝して、この中で何ができるかを考えよう、
とそう決めたのです。
同じくIVF治療を2年間トライしてだめだったリンダは、きっぱり諦め、その代わりINWOOD HOUSE に貢献することにしました。
わたしも大変に共感できたので、参加することにしたのです。
さて、わたしは、雅子さまがIVF治療によって愛子さまを授かったということの真偽をここで論じたいわけではありません。
仮にそれが事実だったとしても、それは多くの、子供を授かれないで辛い治療を乗り越えようとしている人たちにとっては共感こそできることではあっても、マイナスになることではないと、それだけは言いたいけれど。
治療中はPMSより百倍辛い毎日。
気持ちが揺れ動き、夫婦関係まで危機に晒されるチャレンジのとき。
そんなとき、周囲から、仮に絶対に男の子を生まなければだめ、だの
やんや言われたら、ホルモンのバランスが崩れやすいときだもの、
わたしだったら追い詰められて、もう死んでしまいたいと思ってしまうかも。
そして神経をおかしくするのではないでしょうか。
どこかの政治家が「女性は赤ちゃんを産む機械」か何かに例えたそうですが、
この、ポリティカリー・コレクトであることが求められる時代に、そんなこと言い放っちゃうなんて、
その方がいかにずれているかってこともあるけど、
(自分の子であれ、他人の子であれ)子育てにいっぱい参加し、
子供と楽しい時間をたくさん、たくさん過ごしたことのある人ではないことは、悲しいかな、歴然です。
子どもは世界の財産、とAppleさんがおっしゃってくださいました。
少子化を本気で憂え、取り組もうとする日本であるのなら、
今こそ、女が、ひいては男も、
子供を育てるという、
毎日がワクワクの連続、
1分1秒がかけがえのない刻の連鎖、
自分のすべてを犠牲にしてもいい、とさえ思える
この、理屈を超えた愛情の摩訶不思議を、
このすばらしさを、
もっともっと伝えることが急務なのではないでしょうか。
そして、辛い思いを乗り越えてでも、子供が欲しいと思う男女を
もっともっと温かく見守れる社会であってほしい。
今、皇室のあり方を問われる大変難しい、歴史的局面を迎えているなら、
歴史好きのわたしはこれだけは声を高くして言いたい。
わたしたちの子孫が将来、現在のこの今を「歴史」として振り返ったとき、
「ああ、どうしてあの時の日本は、あんな間違いを犯したのだろう」
と、思われる汚点を残してはいけない。
「さすが、われわれの祖先は違う。品格がある、有道の国」
そういわれるよう、時を刻んでいかなくては。
そして、われわれ国民の象徴である皇族であるならば、
そのあり方を考える際、
どなたかの犠牲を強いた上での、真の幸せなど存在しない、
ということを忘れてはならないと思うのです。
ネガティブなものは、必ず次なるネガティブなものを呼び込むから。
時代が激動するとき、
渋沢栄一のような鋳型にはまりきれない大物が登場します。
そのとき、その時代がその鋳型を柔軟に変形することを拒めばどうでしょうか。
今、わたしたち国民が愛する皇室であり続けていただくためには、
雅子さまという鋳型にはまらない方を、
受け皿をもう少し柔軟に変形して受け入れるというのはいかがでしょう。
雅子さまは、人望厚き皇太子さまの選ばれた方です。
今、諸外国の多くの人たちが、お二人の幸せ、引いては皇室に注目し、いい意味で憂慮していると、わたしにはそう思えてならないのです。