バブル時代の絶頂期、その時代を象徴するような雑誌の編集者でした。
今なら書いても許されるかもしれないけれど、摩訶不思議すぎて笑えないエピソードもたくさん。
その雑誌は、一世を風靡し、
その編集者であるがために、わたしはどこに行っても、
ものすごく派手な女に見られがちでした。
けれど、実情は、あまりにも忙しく、
体力の限界に挑む毎日、
例えば撮影前のある晩など、深夜3時に会社を出て帰宅し、
また6時には家をでなくてはいけない・・・
往復の時間から逆算すると、
家でもし髪を洗えばドライヤーをかける時間も含む40分、
寝る時間を削ることになります。
「髪を洗うか、睡眠をとるか」
その選択は過酷なものでした。
そんな毎日を送っていたため、気がつくと仕事以外のことはすべて抜け落ちた生活でした。
とてもバランスの悪いライフスタイル。
1年に一人は編集部から死人(大げさデホントは病人、ぐらいの意味ですが)が出ると評判でした。
気がつくと、有名デザイナーのファッションショーでは一番前の席に通されることに慣れっこになり、
わたしさえ気が向けば、かなり安く手に入るブランドの数々。
海外出張はビジネスクラス。一流ホテルに滞在し、
小娘が出入りできるような敷居の高さではない料亭やレストランに招待を受けることもざら。
ちょっと考えられないような時代でした・笑
気がつくといつも孤独だった。
気持ちはささくれ立ち、神経はぴりぴりし、
大切な友人とさえ容易に喧嘩に発展してしまうほど、
どんどん気持ちはささくれ立っていく。
ふと自分のクローゼットを開けると洋服という洋服、
一時は百足を越える靴という靴に囲まれながら、
それでいて、着る服がない、と感じる矛盾。
取材で出会う女たちの中には、
洋服用と着物用に美容院を使い分ける20代がいたり、
東京プリンスの地下にあった西部の特選サロン、ピサで
ワンシーズンに500百万円以上、売り掛けで洋服を買ってくれるパートナーをもつ女がいたりし、
自分程度の矛盾が軽症に思えてしまう怖さ。
やがてその怖さも麻痺し、
そして不思議なのは、そのどの女たちも決して幸せそうではなかったこと。
何か虚しさを引きずっている。
買えば買うほど満足感はどんどん遠のく焦り。
そんなものを感じていたのではないかしら。
つい最近、あるファッション誌の編集長とお話していたら、
今でもそういう女たちは多いという。
何かに飢えている。何か虚しい。
その穴を埋めようと、必死で皮膚科に通い、
ジムに通い、自分磨きに余念がない。
それでも、何か足りない。
このままでは完結できない不安。
マテリアルの豊饒が拍車をかける精神の飢餓感。
一方、NYにも専業主婦が意外にも多い話はしました。
NYにも、昔なら「有閑マダム」と呼ばれた、似たような女性たちはいます。
けれど、彼女たちの虚しさの度合いは低いように感じます。
それはなぜなのか。
その虚しさを埋める場所があるから。
しかもその受け皿は多種多様です。
ボランティア、チャリティという名の準キャリアといってよいほど真剣な取り組み。
自分の修羅場を逃げ場にしないで、
他人のために役に立てているという実感、
それは不思議な高揚感と精神的充実感を与えてくれます。
どんなBitchでも、何か社会とのつながりをもとうと
子供と一緒に楽しもうと
純粋に他人のために動き、
それが自然に自分へのRewardとして返ってくる心地よさ
マテリアルに満ち足りて尚、空虚感が否めない矛盾、
飽食が生む渇望、
仮想平和という井の中の蛙、
それを打開する道はひとつ、
ベクトルを外に向けることかと思います。
外に出て行って、人と会うことがまず第一歩だとひしひし感じます。
自己完結的ベクトル、
つまり内へと向かうベクトルはやがて行き場を失う、
外へ、人を求め、役立てるベクトルだけがいいスパイラルに形を変える
そんなことを教えてくれたニューヨークの女友だち達
ちょっとした発想の転換
違う見方で、他人を喜ばせようと行動する心地よさ
これからもあの手、この手で
幸せになれる体質作りについて、一緒に考えていきたいと思っています。