昔、1993年から約2年

ロシアに滞在していた時、

かなり長時間を旅に費やした。

ロシア国内だけでなく

近隣の数か国も歩き回った。

 

 

  ー  ー  ー

 

 

その前の

1990年、仕事を辞めて

シベリア鉄道に2度目に乗って

ヨーロッパへ行った時

ポーランドも通った。

ショパンが生まれた所、

ショパンコンクールが

行われる国だって事はもちろん知っていた。

 

 

 

まだ旅慣れていなかった私は

ソ連(まだソ連があった)を抜けた
最初の国ポーランドで
直ぐにアホをやらかしてしまった。
 
ポーランド語はもちろん、
英語も少し(英会話教室行ってたけど)、
ロシア語も少ししか話せない。
 

ひょんなことで(数人の中継で)知り合った

インテリのポーランド家族に助けられ

数日泊めさせてもらった。

(ものすごく幸運と言うしかない)

 

 

夫婦と小学生の息子は英語を流ちょうに話した。

 

お母さんは

ワルシャワ大学のロシア語の先生で、

イタリア語も得意と後で知った。

(帰国後文通を始めたので分かった)

 

 

 

ワルシャワの街中に

ショパンの博物館があったのを見て

ワルシャワで生まれたのかを尋ねると、

ジェラゾワヴォラという名の町を教えてくれた。


お父さんは

「じゃあ今から行こう」と

車にお母さんと私を乗せ出発した。

 

お母さんは

「日本人はショパンが好きね」と言ったニコニコ

 

 

ショパンの生家は

とても素敵な緑の美しい田舎にあった。

質素なたたずまいの

家とその中をゆっくり見学した。

 

 

帰り道に広い庭のある

昔の貴族の邸宅のような公園へ寄った。

そこも緑が美しく森があり

小宮殿のような中で休むことができた。

壁際にアップライトピアノが置いてあり、

子供が何か弾いて遊んでいた。

 

 

そこがどこだったか思い出せない、

ネットが使えるようになってから

地図を見て何度も探したけど分からない。

 

 

お父さんの車はトヨタだった。

当時車は少なかったし

地下と3階もある広い庭の一戸建てだから

多分お金持ちと思ったら、建築家だった。

 

 

甘い実のなっている木が何本かあって、

鶏も歩き回っていた。

 

 
  ー  ー  ー
  ー  ー  ー
 
3年後、
ロシア語が随分話せるようになってから
春にモスクワへ行き
ロシア語の授業を受けつつ旅をしていて、
秋にやっとワルシャワに行った。
 
 
 
着いてから、知り合いの家族に
電話をするとツーツー音が鳴り続けた。
 
取り敢えず泊まったユースホステルでは
同じ部屋に、ウクライナからの出張で
1人で長期滞在しているという女性が
私と話しながら「自分の言葉で話せてうれしいわー、
ここはポーランド語ばっかりだから寂しくて。」
と涙を浮かべていた。
子供も家に置いてきていると言っていた。
 
 
街へ散歩に出て戻ると、
ロビーで彼女がロシア語で青年と話していた。
ポーランドの北東の出身で、
東のポーランド人は
ロシア語が話せる人が多いとの事だ。
(ポーランド風の訛りはちゃんと聞こえる)
 
 
  ー  ー  ー
 
一緒にしゃべった中で、
「ポーランドの歌うたって」と言うと、
おどけながら歌ったのが、
「森へ行きましょう、娘さん」だった。
 
驚いた、小学生の音楽の教科書にあり、
当時の教科書の世代はみんな知っている歌。
(コマーシャルでも使われていた)
これポーランドの歌だったのね!
 
  ー  ー  ー
 
 
その後、
彼に知り合いの家族の事と
そこへ行きたい旨を話した。
中心地から離れているので
1人で見つけることは難しかったのだ。
住所から探し出してくれた。
 
 
  ー  ー  ー
 
 
手紙に私は、「そのうち
ワルシャワに行く」と書いていたが
電話は繋がらなかったせいで、
突然の訪問になったが喜んでくれた。
 
悲しい事に
お母さんは、ガンに罹っていた。
モスクワに出張に行って
帰ってから発症したらしい。
多分毒を盛られたと言っていた。
 
隣り合う2つの国は大抵 
関係が微妙な事が多い。
(日本だって色々あるが
島国だから随分マシだと思う)
 
 
でもなぜ、個人に対して?
しかもロシア語専門で、
ロシアが好きな人に対して
ロシア人がそうする理由はないのに、
とそう思っていた。
(もしかすると、別の第3の、
例えば陥れようとする勢力か何かが
あるのかな、という考えも浮かんだ)
これは今でもわからない。
でも考えると辛い…
 
 
  ー  ー  ー
 
 
そんな中で、私はそこで
何日か過ごさせてもらった。
 
 
「森へ行きましょう、娘さん」
の歌は、日本でも有名なんだと
お母さんに話した。で
ポーランド語の歌詞を書いてもらった。
 
本当の大学の先生らしく、
意味をロシア語で丁寧に説明しながら。
 
 
そのあと1人で、あの時あの家で、
歌詞を何度も繰り返してさらった。
 
今でも1番は全部覚えている。
 
2番か3番まであって
後半はあやふやだけど。
 
 
  ー  ー  ー
 
 
旅では、訪問の前後に
他の国を通って色々な町を見ながら、
ポーランド国内も回った。
 
クリスマスに招待されたので、
またモスクワから行ったりした。
 
年明け後に
チェコとスロヴァキアにも行ってから
またワルシャワに戻って泊めてもらった。
 
記憶に残るあの家族の家は何度も訪ねた。
 
 
今までの人生で、日本以外、つまり
外国ではロシアの次に長く滞在したのが
ポーランドだった。
 
 
  ー  ー  ー
 
モスクワに帰って
その後の計画を立てた。
春か夏までモスクワにいて、
それからポーランドに長期滞在して、
同じスラブ語であり、
ロシア語との共通点もある
ポーランド語を習ってみようと。
その後、
チェコにも行って、
同じくスラブ語なのでそこでも習って
比較してみたい…と思ったのだ。
 
 
 
でもその春、
今の夫と知り合う事となり、
それらの計画は無くなった。
 
 
 
  ー  ー  ー
 
 
でもその後もう一度
ワルシャワのお母さんには
会いたかったので、一緒に行った。
 
ワルシャワに着いて、体調を少々崩し
2,3日経って回復してから
家族の家に電話を入れた。
すると、同居のお婆さん(お父さんの母)が
受話器を取った。
彼女はロシア語は話せないようだったけど
今病院にいる、と言ったのは分かった。
教えてくれた病院の名と通りの名だけはメモできた。
(頑張ってロシア語を混ぜてくれたのかも)
 
 
見慣れた地図で地名を探し病院へ行く…。
誰でも入れるわけでないらしく
守衛に話して名前を伝えて
敷地に入れてもらう。
連絡してもらい、
お父さんが門まで迎えに来てくれる。
 
 
病室に入ると
4人部屋だった。
 
 
部屋をくるりと見渡し
それぞれのベッドにいる顔を見て探す。
4人の顔を見比べ、1人目に戻った時
潤んだ目で私を見るお母さんと目が合った。
何と最初に見た人がお母さんだったのだ。
やせ細って顔が分からなかった。
ショックだった。
 
お母さんの母がそばに付き添っていた。
彼女にも前回会ったことがあり、
顔見知りになっていた。
自分の娘の病状に絶望して
すっかりやつれていた。
 
まっすぐ見ていられなかった。
悲しい。
 
 
以前、お母さんは
私が見た目より年上で驚き、
もう適齢期を過ぎそうなのを知って
心配していてくれていた。
一緒に来ていた現夫が、
「結婚するんです」と言ってくれた。
 
その時、「安心したわ」と
お母さんの目がキラキラして
喜んでくれたのが嬉しかった。
変わらず大きくてきれいな
茶色の目をしていた。
 
 
長時間いると疲れさせてしまうし、
間も持たなくなってきたし
短時間で最後のお別れをした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本語の歌詞は娘も若者も複数だけど、
ポーランド語ではどちらも単数...
ちょっと意味深照れ ...かな
 
 
ロシアでも
歌自体は知られているらしく
夫がこの歌を聞いた時、
照れてニヤリとしていた。
 
(ずっと前の話、今は忘れているかな)
 
 
 

 

 

 

 

 

↑アメブロ内で

ポーランドの方による

ショパンの生家博物館の紹介