日本統治時代の台湾で母は生まれた。
母の両親の出身地は九州。
どういう経緯で行ったかは知らないが
母の姉はアモイ(厦門)で生まれている。
アモイも日本の統治下だった。
和文タイプライター
母は戦時中、総督府でタイピストをしていたらしい。
英文タイプは文字数が少ないから機械は小さいが、
和文タイプは数千の漢字を網羅しているため、
とても大きくて文字を探すのも大変。
私の若い頃はすでに
ワープロの時代だったけど、
その時のアルバイト先にはワープロはまだなく
あったのは和文タイプだけだったので、
それを打たされたことがあった。
文字を探す時間が掛かり、
なかなか仕事が進まなかった。
母はこんなのを打ってたんだろうな…
と思いながら細かい文字の中から
漢字を探していた。
空襲の日の朝
1945年の終戦も近づいたある日、
若かりし頃の母が出勤しようとすると
その父(私の祖父)が「今日は行くな」と引き留めた。
仕事が溜まっているからどうしても行く、と答えた。
母に手を挙げた事のなかった祖父は
初めて母を殴って止めた。
1945年(昭和20年)5月31日
総督府は空爆された。
皆、何も知らずに出勤していた。
空爆後
母は総督府が爆撃されたことを知り、
確か、翌日、行ってみたが
上司や同僚はもちろん亡くなっていた。
身元確認の手伝いをしなければならなかったが、
悲惨な遺体を若い女性に見せるべきでないと判断された。
作業員は、誰かの燃え残った服の
切れ端を切り取っては母に見せ、
服の模様で誰のだったのかを母は答えた。
一緒に働いていた友達は皆いなくなってしまった。
この状態ですね
— Yatabi Yo 台湾建国支持 - VTuber(YouTuber) (@asianews_ch) April 5, 2024
45年5月31日の台北大空襲で大きな被害を受けたようですね pic.twitter.com/BTrEMpd9YB
こんな話を思い出したのは
TwitterXでこのポストを見たため。
初めて見た空襲後の写真。
後日談
あの日
台北の市街地が大空襲でやられたが
母の家族は日本人街から
離れた所に住んでいて皆無事だった。
祖父は何か知っていたに違いない。
タダ者でなかったかもしれない。
死ぬ前にみんなに話すことがある、と
常々言っていたとの事だが、
昏睡状態になってしまい
子供達に何も伝えられなかったそうだ。