ぶらり ハチ形城 | rumblin @ blog

ぶらり ハチ形城

所要をこなす。
果たしてこんなことして、意味があるんだか、ないんだか。汗。
まー致し方ない。

ちょっと寄り道しよー。
(この時点で、もーすでに午後)
この時期は日没が早いんで、あまり時間がないが、
せっかくこちらまで来たのでね。





このタイプの自動改札機、どーしたらいいのかー、戸惑う。笑。
そのまま行こうと思えば、行けちゃいそーじゃないですかー。



飲まず食わずなので、何か食えるモノでも買おう・・・と思ったが、何も買わず。
(なにが食べたいのか自分でもわからなくなりまして・・・汗)
結局、本日もノーイート。
ワシはいつも、こーなっちゃう。笑。

それにしても、こちらの住宅街の住宅は、
こーして、歩きながら外観を拝見すると・・・思わず、なんでだか、笑っちゃうほど・・・デカイ! 笑。
いや~、きっと都内とは単位が違うんだろーなー。笑。
きっと1mは120cmくらいなんだろーなー。笑。



まずはこちらに寄ってみよー。
(イメージとしては、スーパーで何か食べるものを購入して、こちらで青空の元いただく予定でしたが・・・汗)

河原へ降りていく。



向こう岸に見える河岸段丘(ブラタモ風)の上に、
かつて、お城がございました。
ハチ形城ですねー。
元をただせば相当古いお城だが(15世紀?)、現在私たちが楽しめる城跡は戦国期末期(16世紀末)のお城ですね。
その意味では、このように川(こちらのお城でいえば荒川と深沢川)に挟まれた舌状大地の上というのは、戦国期末期のお城としてはわりと「ある」パターンですかね。
それまで城は山の中、山の上にあったんだが、
この時期(戦国期末期)になると、こういった平地に降りてきて、
政庁としての役目を効率的に果たすよーに、なったんですねー。

さー、
本日も、
行ってみましょー! 笑。
(ワクワクしてきた。いい歳なのに・・・笑)



こちらへ。



ほいほいほい。笑。
現在位置からすると、
実際は向こう側にある歴史館のある側が、
城としては「正面」側になる。
(正確には正面ではないが・・・歴史館自体はやや脇に逸れた位置)
本来はそちらから「攻め込み」たいのだが・・・本日は時間がないので、こちらから。
(反対側に回る時間的余裕がない)
舌状大地でいえば、先端側からになる。



もー、陽が傾き始めておるね。焦。
この時期は本当に日没が早いね。焦。



先ほどの角を曲がってすぐがこちらの曲輪になる。(笹曲輪というらしい)
こちらは「ワシの見立て」ですと、
おそらく台所ですな。(もしくは米蔵か)
(「ワシの見立て」・・・っつーことは、つまり、またまたワシの妄想説であり、なんら学術的根拠、考古学的知見に基づかない勝手な戯言ですので、その点ご了承くださいませ。汗笑)
つまり本日ワシは台所口からお邪魔しているワケですな。
「ちわー、イソノさん、三河屋ですー」ってカンジ。笑。
石組溝や井戸跡が発掘されているらしいのでね、そー思ったんだけど。
これから参りますが、殿様の館との位置関係などからもね。そー思います。汗。



こちらの武者走り(?)を、女中(?)さんたちがお料理が乗った御膳を持って歩くワケですね。



そのお届け先がココ。
「奥」ですな。
(くどいですが、本日は正面からは逆回りですので、いきなり「奥」なわけです汗)
ここが、おそらく殿様の私的スペースだったところですな。
奥方とこちらで暮らされていた。
・・・と申しても、二人っきり、っつー意味ではなく・・・お付きの人とかもいるだろーし、あとは側室の女性とかね・・・。
(子どもは別の場所でしょーね)

こちらの城主は北条氏邦っつー人ですね。
ちょっと一般的にはマイナーかなあ。
もともとこちらの地域の領主は代々藤田家。
国衆と呼ばれるジモピー。
北条は出自が関東でさえない、新参の外来者。
元々は都からやってきた「伊勢さん」ですねー。
それが、かつての「関東の王」である「北条」を名乗り、
小田原を本拠として関東一円をその配下に治めようとしていたんですねー。
(氏邦自身はその4世代目)

その過程で藤田家はその北条家に従属するということになり、
北条家から養子として氏邦が藤田家に入ったワケですね。
まー、従属する側を「殲滅」せず、
むしろその家の養子として北条が入るのだから、
日本の慣習って面白い。
(外国は知らん)
「藤田のふり」をして、この地域を治める、っつーね。汗。
・・・藤田家の面目は潰さす、北条が支配するという目的も達成するという、ね・・・
藤田としては「屈服・降参」したわけではない・・・っつー、言い訳ができるワケ汗。
後ちの「喧嘩両成敗」的、双方ともに「折れ合う」というか汗・・・1/0ではない考え方・・・汗。
まー、その藤田に今まで従っていた人(家臣・郎党・民衆?)たちも「別に今までも藤田だし、これから藤田」だから、なんら「変わりなく」(代替りしただけで)今まで通りです、って話になるワケですな。
このあたりも今の日本の国民性・メンタリティーに通ずるものがあって、面白いよね。汗。
(「よくわからんが、今まで通りに暮らせるなら、それで結構です」「細かいことはどーでもよいです」的な・・・)
ま、今で言えば企業でも、
買収された側の企業の取締役に、買収した側から取締役がやってくる、っつーのがあるよね。従業員にとっては、毎月給与がちゃんと出れば、どっちでも構わない・・・みたいな。汗。
なので、本来は「藤田氏邦」なのだが、そこはパワー関係なのか、いつの間にか「北条氏邦」ということになっている。

・・・
まあ、いい。

ちなみに奥様の名前は大福さんです。
面白い・・・いや、良い名前ですね。マジで。笑。
最終的には、大きな歴史のうねりの中で悲劇的最期を迎えられたのだが・・・。涙。



そこからの眺め。
先ほどはあちら側(河原)からこちらを見ましたね。



曲輪が分割されていて、
向こうが「表」でしょーね。
政務をとる所ですな。



殿様はここを渡って、「表」と「奥」を行き来したんですね。
(何か橋が架かっていたんでしょー)
(建物が連結していたカ??)



ここは広いですな。
「伝本御殿曲輪跡」・・・「伝」とついているが(=定かではない、という意味ですね)、なにか発掘調査などはされているんでしょーか?
それなりに広い御殿が建っていたと思われますね。



ドドーン!



ドワーン!
土塁が素晴らしいですな!



こちらはその「表」の下段になる。
(伝御殿下曲輪)
下から「表」=本御殿を見上げたところ。

もともとの古いハチ形城は、おそらく「砦」程度の規模だったであろうと考えられるね。
ここまで辺りの本郭部分が古い「ハチ形砦」だったのかも。
(ワシ説ね汗)
氏邦時代になって政庁(この地域のより広域な邑都)になるっつーことで、大規模な改造がおこなわれた思われる。
かなりの掘削、削平工事がなされたんじゃないでしょーか。
(その意味では、以前と以後では別の城と言っても良いんじゃないのカモ?)

この曲輪は大規模城郭になってからは、
武者溜まり的スペースだったんかなあー。



二の丸の方へ行ってみます。
現在は道路によって、分断されてますねー。



ジンジャーがございます。



こちらのスペースもかなり広い。
天正年間になって、上方から豊臣軍の来襲が予期される中で、ここも武者溜りとして拡張されたスペースなのかも知れない。
そこにジンジャーがあり、大掛かりな戦勝祈願などの神事を行うことができたんでしょーなー。
(おっと、繰り返しますが、妄想説ですよ)
各地のお城にはかなりの確率でこーいったジンジャーとか、持仏堂とかがあるんですね。(ほぼある?)





堀(空堀?)
あちらが三の丸になる。



畝堀? 障子堀? になっていた?
やはり北条系のお城である山中城のそれが有名だが、こちらのお城にもあるよーですね。
(これはやがて上方にも「逆輸入」された)



右側が二の丸と三の丸の間にある馬出(?)だという曲輪。
(パンフにそー書いてある)



櫓門か何かがあったんかなー。



イメージを膨らますと、こんなカンジかなあ。
(おそらく橋は、現代の観光用であって、当時はンなのは、なかったと思われる)



こちらが三の丸。
伝秩父曲輪と呼ばれている。
庭園や池などがあり、
(色をつけておきました)
ある意味、外来客をもてなす迎賓館的な、
あるいは、領主が楽しむ行楽地的な場所だったんかな、と思われる。(妄想説ですよ)
ある意味、箱庭的な理想郷を作り出すことによって、
領民の安寧と領地の発展を願った、と申しますかね。汗。
その行為がどうして、領民や領地のためになるんだ? と糾されれば、説明は長くなってしまうので割愛いたしますが・・・。汗、
領主のだたの道楽じゃねーのか? ってね。汗汗。
後ちの(江戸時代)大名庭園とかも、同じ「思想」なんでしょー・・・が、
まあ、いい・・・。



石垣・・・ではなく、石積、というらしいです。
石垣の技術とは違うため、そう区別しているよーだ。
お城と言うと、天守閣や石垣をまずは思い浮かべる方も多いのではと思いますが、
実は東日本、関東のお城はほとんどが土。土塁ですね。
(土で成っている=城ですねー)
(「いわゆる天守閣」っつーのも、徳川が入国するまでは・・・関東にはかったんじゃないかなー・・・うろ覚え汗)
なので、関東(北条)には石垣を高く積み上げる技術はなかったよーです。
あっても、ご覧のように↑低い、そして高さを出すためにはこのように段状にしなくてはいけない、っつーね。
信長が小牧山ですでにやっていた、という意味では上方と20年くらいの技術的開きがあった、ってことになるね。汗。
それでも、
じゃー、なぜ、ここにあるのか? と言えば、
まさに客に見せるためなんでしょーね・・・。
「どう? 石をキレイに積み上げちゃっているんだけど、スゴイでしょー、オレ」って。汗笑。
「石を並べてキレイでしょ?」ってカンジかなー。
現代で言えば、キレイにタイルを並べたりしますよね? あんなカンジでしょーか? タイルで化粧するのと同じっつーか。
(おそらく、ここに招かれるのは近隣の国衆や土豪などで、上方の高石垣のことはご存知なかったのかもねー汗)

ただし、その後このスペースは削平されてしまったよーで、詳細なことはわからないよーです。
豊臣軍の来襲時に(?)畑にしてしまった(?)のかなー?? 食料確保のためにね(?)
(妄想説です)



四脚門の再現。



門前には馬場? のよーなスペース?
先ほどの伝秩父曲輪が想像通りであるとするならば、
室町様式的な空間がこちらの曲輪にあったのかな(?)汗。
客をこのスペースに連れてきて、
「私の家は都の武士のように、格調高いのですよー。決して田舎侍ではありません」
と、自慢(?)主張(?)誇示(?)できる、っつー。汗。
(妄想説です)
社長になったら、ベンツに乗って、ゴルフして、元読モの秘書を侍らして・・・んなカンジ??汗汗。
(妄想説です)



こちらへ行くと。



こちらにもジンジャーがありますね。
そのまま曲輪になっていたよーで、
これも過去に何回か申し上げてきましたが、寺社はそのまま軍事拠点になるんすねー。
んま、平時には、
外来客はこのルートで迎賓館たる先程の三の丸(伝秩父曲輪)へ招かれるわけで、
その途上で
こちらの立派なジンジャーを見せつける、っつー意味もあったのかも知れませんね。
見せつけつつ~の~からの~→先ほどの三の丸の庭園! みたいな。汗笑。
で、戦時には、
ここが一つの防衛拠点にもなる。っつー。



やっとこ、
正面にやってきました。
王手です。
往時の姿を妄想します。↑笑。
こちらは伝逸見曲輪とされています。
逸見とは人名ですね。
(先程の秩父も人名のよーです。曲輪は守備していた人の名前で呼ばれることも多いよーです)
正面門の守備を任されるというのは、勇猛だったのでしょーね。
また忠実でもあったんでしょー。
親衛隊長、っつーカンジですかね。
豊臣期江戸城でいえば、半蔵門(=服部半蔵)ですな。
※半蔵門は豊臣大名時代の徳川江戸城の正面だったんじゃないでしょーか?(ワシ説=妄想ですな汗)

↑真っ直ぐ突き進めば本丸に達しそうに見えますが、
到達するためには画面向かって左の先程の三の丸方向へ進まなくてなりません。
間違って画面右側に行ったら、行き止まりです。
(まーここで、場内を知らない敵は右と左に別れるから、ある意味半減できるわけですな)
そこを突破しても、二の丸、本殿下の曲輪と何重にもゲートが設けられていることになりますね。
厳重ですね。



こちらには弁天社。(弁天島??)
こんなカンジだったのカナ。笑。
(橋を渡ってお参りできる)
(ワシ説=妄想です汗)

ある意味、
「北条」という家名=三つ鱗(家紋)=そして弁財天? はセットなんでしょー。(??)



馬出とされてます。
馬出とは、ある意味機動的な出撃口。
正面門に敵を引きつけておいて、脇にあるこちらから出撃した兵(騎馬武者?)が横腹を突く、っつーね。
この出し入れは指揮官の腕の見せ所でしょ。
後年ね、
大坂冬の陣で、真田信繁(幸村)が有名になるけど、
あの真田丸での活躍は、こうした北関東~甲斐・信州~越後の武士ふたちのレベルの高さがあったんだろーなー。





ぐぐっと、曲輪を降りていく。
この高低差が土塁の高さですね。
往時は川幅もこんなもんじゃ、なかったでしょーね。
(↑の赤←→くらい・・・以上はあったでしょーか?)



曲輪の前を深沢川が流れる。
現代ではチョロチョロですね。
往時はお堀の役割を果たしていたんでしょー。



外曲輪へ。



ここに歴史館があり、
本来はこちらから先程の本丸(表、奥)に向かって歩かれるのが良いのではないでしょーか。
広い駐車場もこちらにあります。
歴史館は時間がないため、泣く泣くスルー。
ワシはローカルの歴史館も大好きなんだが・・・汗。
・・・入館しようか、どーしよーか、もたもたしていると、
どこぞからいらしたらしい、若い兄ちゃんと、ちょっと話す。
お城好き? 歴史好き? のよーだ。
(話したカンジだと「まだまだの腕前」にお見受けしたが・・・笑。上から目線汗)
・・・昔の自分を思い出すなー・・・笑笑。
・・・同じ匂いがする。笑笑。
同じ人種ですな。笑。
キミの将来大丈夫かなー。心配です笑。
(余計なお世話ですね笑)
もっと突っ込んで話すべきか、戸惑ったがほどほどにしておいた。笑笑。(上から目線汗)
またいつか、どこかで! 笑。(?)

ちょっとした邂逅・・・。
不思議なものです。
別々な時間をこれまでずっと過ごしてきた、これからもずっと過ごしていくアカの他人が、
今日、ここで、ピンポイントでクロスするなんて・・・。
日本のどこかで朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、電車に乗って、あるいは車に乗って・・・
・・・「たまたま」・・・ここで一緒になった。
偶然だけなんですね、人生なんて・・・。笑。
ものすごーーーい確率だな・・・
全ての出会いに感謝しなくてはね・・・。

さて、
外曲輪をぐるっと回って、帰りましょう。
もうだいぶ暗くなってきて。



パンフによるとこちらにも馬出があるらしいが・・・
ちょっと、どこなのかわからんかったな。

しばらく歩いているとこのような・・・



鉢形城祭十五周年記念碑。
石柱に名前が刻まれているが・・・



な、な、なんと!
先ほどの伝逸見曲輪のご子孫らしき方のお名前が・・・!!
他にも錚々たるメンバーのお名前がある・・・!!
大福御前のご実家だとするお名前も!
なんとも・・・まさに歴史ってのは現代に繋がっているんですね~。
「たまたま」を「たまたま」が紡いで、今日につながっている・・・
ある人は抗い、ある人は翻弄され、ある人は流され、
ある人は自分が勝者だと信じ、
ある人は自分の価値に気付かず・・・
「たまたま」そうなった日々を過ごし、
今日につないできた・・・
感慨深いものですな・・・。

歴史のうねりの中で・・・北条にのみこまれ、北条は豊臣に、そして豊臣もやがて徳川に・・・
しかし、今も石となってここに佇む一族・・・。
・・・まー・・・
地方の方は、
「あそこの家は元家老で~~」云々とか、
「うちは武士じゃなかったからね~~」云々などと、
それ故、面倒くさいこともあるんでしょーけど・・・
もー、さすがに令和の現代には、そんなこともないですかねー?? 汗。



長久院跡とされる方にも足を伸ばす。
位置的にはグルッと回って、最初の「台所」の曲輪(笹曲輪)の下段になります。
つまりこちらの先端にも防御施設として寺院があることになりますね。
平時は位置的に殿様の生活の何かしらの機能を果たしていたのかも知れません。
(居間? 坊さんもいたと思うので、いろいろと治政について相談していたとか?)
坂を下りきると、河原に降りれるよーでした。
(そこまでは行きませんでした)
目の前が川なので、ここは平時には物資の搬入口の役割も果たしていたのかもしれない。台所口ってやつですね。
(妄想説です)



これでほぼ一周したカンジかな。
時間的にもギリギリですかね。
短い時間だったけど、
久々、
楽しめたなー。