みなさんこんにちは![]()
こちらにアクセスして頂き、ありがとうございます♪
乳がんを「無治療」で闘い抜き、45歳でこの世を去った姉の、その闘病生活と、そばでサポートしてきて見えた事、わかった事、感じた事を綴ってます。
今ガンで闘っている人、そしてその家族の方に少しでも何かのお役に立てればと思いながら書いております。
さて、今日のお話は、、、
「死」に対しての考え方、特に「若い人の死」の捉え方についてお話したいと思います。
私はここ10年で割と身近な人が若くして亡くなっています。
●44歳で亡くなった近所のママ友(白血病)
●50歳で亡くなった幼稚園ママ友の旦那さん(心筋梗塞)
●39歳で亡くなったママ友(心筋梗塞)
といった感じで、それもけっこう仲良くしており、個人的に遊んだり家族ぐるみで仲良くしていた方達でした。
なぜこんなにも自分の周りにはこんな事が続くのか、不思議で仕方ありませんでした。
そして今回、ひとつ上の姉が45歳で亡くなる…という事に、またひとつ、身近での若い人の死をそばで見届けるの事になったのです。
姉の死を見届ける前までは、彼女らの死を
早すぎる、、、
まだ子供も小さいのに、、、
なぜ、、、
と、やりきれない気持ちでいっぱいでした。
白血病で亡くなった彼女の最期は、2年の闘病生活の末、骨髄移植をし、それがうまく適合せず、移植手術から2週間後のことでした。
最期のいよいよお別れが迫ってきた時、残された彼女の子供達を私が病院に送っていき、子供達はお母さんにお別れをしてきました。
上の子が小6、真ん中の子が小3、1番下の子がウチと同じ小学1年生でした。
彼女は生き残れる希望に掛けて、骨髄移植を決意したのです。それでも彼女の願いは叶わず、拒絶反応に苦しみ、最後は点滴ずくしで息を引き取り、家に戻ってきた時はまるで別人でした。
ブクブクにされていたのです。
痩せていた彼女が最期の悪あがきの治療による点滴で浮腫んで、見た目では10キロ以上太ったような姿で戻ってきたのです。
スマートだった彼女の面影はほとんどなし。
悲しい事でした。
私が初めて経験したやりきれない気持ち、虚しさ、悲しみでした。
そして、次に次男の幼稚園ママ友の旦那さんで、ママとは幼稚園では1番仲良くさせてもらい、卒園の委員も一緒にやっていました。
運動会では隣にシートを敷き旦那さんとも一緒に話し、観て、幼稚園の送り迎えもたまに旦那さんが来てましたので、良く話しもしました。
彼女の旦那さんが亡くなったのはそんな卒園間近のまだ寒い冬。
朝仕事先の現場近くのコンビニのトイレの中での突然死でした。
現場が東京だった事もあり、司法解剖があり、戻って来たのは数日後。
あまりの突然死に、周りも本当に驚いたのを覚えています。
そして、次に次男の同じクラスのママ友で、犬の散歩仲間でもあった39歳の彼女。
急激に仲良くなって、偶然にも幼い時すぐ近くに住んでいた事もわかり、なんと彼女の兄と私の姉は同級生。
とても面白い子で、LINEでもしょっちゅう笑えるやり取りをしていて、子供の授業参観では一緒に観てコソコソ話しながら笑っていました。
その数日後、犬の散歩で会い、当たり前に次があると思って別れたその10日後、電話が入り、ICUにいるとの事で最期の別れをして欲しいとの連絡。心筋梗塞でした。
驚きなんてものでは言い尽くせない何とも言えない感情と動揺。
「なぜ?」としか出てこない言葉。
この時はさすがに「なぜ私の周りはこういう事が多いのか…」と、「自分の人生はこういう経験をする意味が何かあるのか」など、【死】とは何か、【生きる】とは何かを考えるようになりました。
そして、彼女のお葬式のすぐ後、姉のガンが発覚。
その時「もしかして姉も…」と一瞬でも心をよぎった事は決して嘘ではありません。
そして本当にその2年半後、姉もこの世を去りました。
でも姉を看取った時の私の心はまるで別の違うものになっていました。
それは、人には【寿命】がある事を知ったからです。
若い人の死は、残念がられ、悲しみが多く、惜しまれ、悔まれます。
お年の方が亡くなると、長寿の場合は特に悲しみも去ることながら、むしろその長寿を真っ当したことに皆「大往生だね」と称えます。
でも結局、若かろうが大往生だろうが【寿命】は【寿命】なんです。
その人が決めて来た【寿命】。
若い人の死も、大往生で亡くなられたお年寄りの様に
「お疲れ様でした。寿命を真っ当しましたね」
という想いで送ってあげるのが本来の送り方だとと私は思います。
寿命の長さはそれぞれです。
短いと「失敗」、長いと「成功」ではないのです。
短くても役割を終えて戻る魂もあれば、長くても役割を思い出さないまま戻る魂もあるのです。
色んな経験をするのに長い時間を要する魂もあれば、もう経験する事はそんなにはなく、短い時間で戻る魂もあるのです。
そう思えば「若すぎる死」などはないのです。
子供の死であろうが、それはその子が生まれる前にそれを決めて来て、そして、親はそれを学びとしてその子の親になる事を選んで来ているのです。
ですから、
【死】とはこの3次元での物質世界での学びを終えて戻る事
で、皆それを忘れているのです。
忘れているから、「若すぎる」となり、必要以上に悲しみ、悔やむのです。
【死】=全て終わり=【無】ではないのです。
死後に対しての知識が余りもないまま死を迎えるとすんなりとあちらに戻れないことがあるので、あまりに死後の事や魂の事を信じなさすぎるのも要注意です。
信じる事に無駄はありません。
例え「死後」、何も無く【無】だったとしても、生前信じていた事は無駄にはなりません。
なぜならそこに労力もお金も掛からないからです。
むしろその考えで生きていた方が楽に生きられる。
ところが、あまりに死後のことを知らずか信じずか、その状態で死を迎えると、先程も言ったように自分の死を受け入れられなかったり、よく認識出来ずにいたりするのです。
すると本来戻るべきはずの所に戻れないという事が起こるのです。
それは残された側も同じです。
家族の死、大切な人の死を受け入れられず、いつまでも悲しみ苦しみ、その人の持っていた物、部屋をそのままに残し、時が止まったような状態でいると、死んだ人を引き留める事になり兼ねません。
だから、残された側はきちんと卒業を祝い、いくら突然でもいくら若すぎたとしても、それが彼らの選んで来た人生であり、寿命であり、残された私達はその死を受け入れ送り出し、次のステップへ進まないといけないのです。生きている私達にはまだ学ぶべきものがあるから、体験するものがあるから、いつまでも同じ場所に留まっているわけにはいかないのです。
【死】を恐怖だと思わないで下さい。
終わりではない事を知ってください。
私達は魂の成長の為にこの物質世界に来て、体験し、学びを得ているのです。
自分で決めてきた寿命を終えたから帰るだけです。
私がこう思えるようになってから、世の中の見え方が変わりました。
残された子供達を見ては「可哀想に…」と悲観して哀れな目で見ていたのですが、今では「その子達が親を早くに亡くすという事を選んで来たのね、頑張れ‼︎」と応援する気持ちで見守れます。
こういう気持ちに至ったのも全て彼女達の【死】があったから。
私はきっと【死】という物の真理を生きているうちに知る、忘れていたものを思い出す為にあえてこの状況を選んで来たのだと思います。
その真理をひとりでも多くの方に伝え、広め、思い出させ、生きることに対しての【辛い】という感情から解放させるための、そんな役割があるのかもしれないという勝手な思いでこれを書いています。
彼女達の【若すぎる死】は、彼女達が身を持って教えてくれた【死】に対する意味であり、それを理解し、その真理を広める事で、彼女達の役割の一つが果たされるのではないかと思ってます。
若くして先立って逝った彼女達に感謝です。
そもそも人生は短いものです。
見えない物、事に恐怖し、見えない先に不安を感じて生きるより、今この時間を大切に、やりたい事をやり、楽しんで生きましょう。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました![]()