「勝鬘経」自性清浄章大十三 | るいのビターな日々

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バイクと車(ともに旧車)好き、旅と音楽好きな昭和生まれの残党です(笑)

読者もアメンバーさんも募集していませんので、悪しからず!

この大十三章も2回に分けて学んで行きます。


〇「この如来蔵の本性は清浄であって、生死の世界で煩悩の迷いの中にあっても汚染されない。
ただ隠されているだけである」

⇒これは維摩経の中に出て来る、煩悩あるままに涅槃に渡る。
蓮の花は高原の陸地に生じず、卑湿の汚泥に生じると言う、あの譬えと同じようなことを意味しているような…うーん

※如来蔵は生死輪廻の基盤
・生死の死は、受けた緒根(六根=感覚と意識)が没することで、生はまだ受けていない緒根が次に起こることです。
・死は緒根が壊することで、生は新たに緒根が起こることです。
⇒そして、如来蔵そのものには生も死もありません。

>如来蔵は有為の相(因果応報のものごとの世界)を離れて常住不変です。
〇このゆえ、如来蔵は依(依りどころ)であり持(支え)であり建立(基盤)であります。

  とシュリーマーラー王妃は述べられていますが、如来蔵と言うのは以前に学んだ通りと捉えるのなら、本来の仏(如来)さまと同じような仏さまの種とか胎児のように私たち衆生に備えられていると言う、法華経の衣裏繋珠の譬えの宝珠を指すように言えるのかなと思いましたうーん

⇒要は お釈迦さまの教えはどの教えも衆生を済度する為に説かれた抜苦与楽の教えなので、
〇どの法門から入って行っても行き着く先は涅槃(浄土)であり、その境涯に衆生を導き渡すことこそ如来の本願なのだろうと思いました😃