風邪やインフルエンザやコロナが流行っている上に

 今年は花粉症も早く飛来していると聞くだけで鼻水が出る👃

昭和4年生まれの母は2月4日で95歳を元気に迎えそうですバースデーケーキプレゼント誕生日帽子クラッカー間も無く節分であるが、昔から歳の数だけまめを食べると
丈夫になると言われているが95個なんて食べたら
        お腹を壊す前にそんなに食べられませんよ節分
年の変わり目は節分と言う考えもあるので、母の誕生日は新年
日か翌日になるが、母は母を早く亡くしているが父(私の母方の
祖父に当たる)が二人の男の子の後に待望の女の子が生まれて
それはそれは喜んだらしい。そして直ぐに市役所に行って出生届
けを出そうとしたら「お名前は?」と聞かれまだ考えても決まっても
いなかったので咄嗟に「いろはにほへとちりぬるを~~~」の最初
の「いろ」と子供の子を付けて「いろ子」にしたと昨年妹から聞いた
のだった。なので「色子」ではなく、今なら「あいうえお~~~なの
で」「あい子」となっていたんでしょうね。色気も艶もある品のある美
人だと子供ながらに感じていたのは私ばかりでは無い気がする。
皆から「いろちゃ(飯田弁))いろちゃ」としょっちゅう声が掛かるし、
癖の強い性格の5人の兄弟の4男で園原家の継承も祖父からの
遺言である意味押し付けられたような感じだが、我が父しか園原
家を継承できる性格の子がいなかったようだと聞いたことがある。
本当は橋賭けと言ういま今で言えば紹介者は父のすぐ上の兄
(3男)にどうかと言って来たらしく弟の父(4男が)そっと職場を見
 
      此処に印刷の関係で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
 
      此処にも特別理由で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
 
行かされて自分が気に入ってしまったと言う話だった気がする。
家庭用位の農家と林檎農家で3人の子供を育てた父(我が母方祖
父)は、「農家ではないサラリーマンの家に嫁がせる訳にはいかな
い。いつ米に困るか分からない」と言ったそうだが、兎に角、農家を
継承する気が全くなく橋賭けさんも「男ばかりの家に行くのは凄く
可愛がられるよ」と言う事で園原家の本家の嫁になったらしい。
その後も舅姑にはとても可愛がられ、ましてや美人で母の記憶が
無い頃に亡くした母は姑をとても慕ったようだ。
そして舅である我が父方の祖父)も綺麗で愛想も良く年寄りの
世話も甲斐甲斐しくする嫁が可愛くてたまらなかったようだ。
私達姉妹の記憶の中では、常に父は「お母さんは?」と妻である我
が母を探してばかりいたし、何処に出かけるにも母を連れて行きた
くてしょうがなかったようだ。二人の子供はまだ母(我が父方の祖
母)が健在だったし、やんちゃ坊主5人を育てた祖母はおとなしく
て可愛い二人の孫娘をいつも自分の部屋に入れて、
  水引の内職をしながら色々な話を聞かせてくれていたものだ。

  左差し荒良寛さんの言葉って素敵ですねOK

戦争中と言う事や様々な理由で母は小学校も碌に出ていないので

勉強が嫌いであるが、父は物知りだった(少なくとも私よりも)。

夫婦仲は素晴らしいが一度だけ喧嘩を見たことがあって物凄く

ショックでその時は祖母が自分の部屋に来るようにしてくれた気が

する。喧嘩を見たのはその1回だけである。

美男美女で有名だったが祖母もミス飯田だったと親戚の人から聞

いたことがある。実家の前の家は祖母の弟の家で、やはり皆美人

さん達の家系である。それを教えてくれたややこしい関係になって

いる叔母は「昔から家(うち)と園原家は美男美女で有名だ、更に

園原家には美人しか嫁に来ないと言われているのに、寿子さんの

時代からそうじゃなくなった」とはっきり言う私より10歳上の伯母で

ある。「なので隔世遺伝だから寿子さんのお子さんは

       二人とも美男美女なのよ」とも付け加えるのだった。

そんな訳で母は、自分の母への記憶は無いようで、長男のお嫁さ
んには随分世話になった様だし、嫁ぎ先では姑にとてもなついた
様だ。父との結婚で父方の祖父はいろ子さんにお手製の三面鏡台
を贈った様でもしかしたら今の何処かに置いてあるかもしれない。
なので理想の子育て像や妻像は無かったのだろう。よく気が利くし
気配りも動く量も半端ではなかった。そして一度も「勉強をしなさ
い」とは言わなかったが父に生意気な口を利くと直ぐに叱られた
「親に向かってその口は何!」とね。そして祖母の部屋に逃げ込ん
    此処にも印刷の関係で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
 
      此処にも特別理由で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
 
だのは私の方が妹より多かったかもしれない。まあ最初の子が
大きな病気を患ったり怪我をしてばかりで大人の足でも長い山坂
大変な通学路を私が股関節辺りを怪我か病気をしたことで、大人の足でも40分は掛かり250mあるだろう下り上り坂をおんぶして
2~3ヶ月登校下校させてくれた。
その後はリヤカーで連れて行ってくれた。まだ自転車も無かった
父も襖や箪笥職人では食べていかれず
         一人で土方に出て食いつないでくれた。
その後不動産会社の営業マンの資格を取り、声が掛かる所は何
までもバイクで走り回っていて、冬でもおんぼろバイクで仕事を
していて寒さの余りに顔面神経麻痺を起こしてしまったのだった。
その後暫くしてやっと中古の車を買ったんだと随分経って知った。
両親を看取り立派な葬儀を執り行い、お金や兄弟達との苦労や 
  娘(私)の大きな病気(私は幼児期より慢性肝炎)を心配し、
       園原家の嫁としては百点満点である二重丸OK合格100点
私の医療費や勉強が出来なかった為に高額な費用が掛かる高校
4年間。両親も世話をしながら良く育ててくれたと感謝する。人並み
に習字とピアノとそろばんを習わせてもくれたが実際にはそろばん
は一度も行かず・・・・どうなったか忘れましたし、習字はお稽古代
がそんなに掛からなかったせいで暫く習わせてくれたが、ピアノは
父の転職で2年間で止めてくれないかと言われてそれ以降は独学
だった。家にピアノなんて買えないので最初は祖母の部屋の箪笥
の引き出しに紙鍵盤を挟んで真似事をしていたが、その裡(うち)
足踏みオルガンを買ってくれて2オクターブしかないそれで練習を
楽しんでいた。先生の所でのアップライトピアノに触れるのが嬉しく
仕方がなかった🎹
初めての子供が女の子だったことで父と祖母が取り合う様に私を
可愛がってくれたようだ。なので母は「私はお前さんたちを育てたり
抱っこした記憶が無い」と何度も言っていた。
 淋しがり屋だったのだろう父は邪魔だと何度言われても直ぐに
台所に来ては何かを抓むので
        「お父さん、まだ駄目よぉー」と母に叱られていた。
運動も出来、成績も良く、皆の信頼も厚く、更にスタイルも良いし
時は健康だった妹だが、姉である私は何もかも正反対であった。
ある時ゲームを従妹と遣っていて妹は負けて泣いた時に母は
「泣くくらいなら、勝てば良い!」と言ったようでそれ以来
   妹は何をやっても一位や上位や入選やら優勝やら。。。。    
 
同じくゲームで負けて大泣きしている私には「負けて泣くくらいなら
やるな!」と言われ、それ以来戦う事が嫌いで直ぐに逃げるように
      此処にも印刷の関係で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
 
          此処にも特別理由で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
 
なった私ですが、母にはこの姉妹の性格が手に取る様に分かって
いたんでしょうねぇ。まぁ大病を患ってしまった長女の私には、
 無理して欲しくないとも思ったのかも知れません。
こんな祖父母や両親の様になりたいと頑張っているのですが
足元にも及びません。自分はかなり苦労をして来ていると思って
たが、この歳になり当時の両親の苦労を垣間見ることがあると、
本当によく育ててくれたと再確認と共に
        『お手本だなぁ~』とつくづく思うのであるうーん
こんな環境で育った私は、家族ってこういうものだと自分の見識で
しか考えられなかったから、親からの虐待の話や事件や
 我が子の親への反抗はもうどうしようもない程ショックだった。
親は子供を無償で可愛がるものだと疑わないで生きて来てしまい
多くの方々とのご縁やお話で私は殊に家庭愛に恵まれていたと
 いう事を知って驚きを感謝が増す。
こんな育ち方をした私は、暴言を吐く息子や暴言暴力やサラ金に
明け暮れる夫は死んでも許せないと恨みが増すのであるが矢張り
『天網恢恢疎にして漏らさず』を実感し穏やかに過ごしていますニヤリ
 
 
 

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