1973年(S48年)3月に上京したのは、「ロッテ歌のアルバム」という番組が玉置博の司会でやっているのを観ていて
この会社なら音楽に理解があるだろうし、何かのきっかけがつかめるだろうと品川の製薬会社も正社員として内定されていたが、新大久保の((株))ロッテに入社した。
そのチャンスは思いのほか早くやって来た
以前のブログにも書いたが、合唱団員募集のチラシを先輩から貰ったのだ
兎に角幸せを感じた。そして直ぐに手続きをして入団した。
それが、「労音」という団体だったことで色々なことを経験する。
しかし、何と言っても「郡司博」先生との出逢いは、私の人生を大きく導いてくれた
今迄に沢山の先生に師事したが、良い影響を頂いた先生は、まず郡司博先生。そして松田トシ先生この二人は恩人である。
がしかし、反面教師も沢山現れた。世界一受けたい授業他沢山TVに出ている私と同じ年の作曲家には30余年に渡り、試練を与えられた。
その当時、ロッテの工員は2部制で早番は6:30~3:00 遅番は12:00~20:30 だったと記憶している
その合間は合唱団や個人レッスン、アルバイトなどをしていた。
2年後に平常版になるという話がきたことをきっかけに、郡司先生に相談して、夜間の音楽学校を受験する機会を得てそこから必死で勉強をした。そして入学費用・学費・レッスン代・教材・楽器代などの工面の為に更にアルバイトを増やした。ロッテの給料は生活費で消える。
入学してからは、
8:30~17:00 はロッテで勤務 ⇒18:00~21:00の授業に間に合うように自転車で移動 その間に簡単に食事
22:00~翌日2:30 アルバイトに行く間にシャワーと着替え
03:00に帰宅し宿題と練習(暗譜など) 05:30に就寝 08:00に起床し自転車で会社へ
結婚して育児もこなしていた時期は、夫の借金返済も抱え、子供には小さい頃に沢山の経験を積ませたい
お金が無いことでチャンスを失わせたくないそして自分も音楽家として成功をさせたい
という思いから兎に角働いた。日付変更線が分からない生活であった
24:00~07:00 自転車で近くのパン屋のアルバイト 帰宅して子供のお弁当など作って同時に夫の朝食も
その後家に生徒が来るまでに家事をする。本業と複数のアルバイトをし、子供が帰宅すると色々な習い事に付いて行く。
夫が帰宅し夕食だの夜の生徒だの
そして21:00~23:30が唯一私の寝る時間(子供を寝かせながら)
兎に角睡眠時間ば2時間半
このような生活が50歳までの30余年続いた。
とても大病を患って安静のしなければならない体の持ち主とは思えない行動である。
50歳を過ぎてようやく本業一本で生活が出来るようになった。
子供も成人になり、問題はしょっちゅう起こすものの私の手からは離れた。
3時間以上の睡眠を恐怖に思えた
もしまた今迄のような過酷な生活を強いられた場合、こんなにゆったり眠ることを常にしてしまうと、もう起きられない
といつもうなされていた。
今や”暑い”という理由で、朝寝・二度寝・昼寝・夕寝・・・・・早寝・・・
昼寝は以前書いたように涼しい風を感じて、台所に置いたビーチベットで横になると、長い時で3時間も昼寝をし気付ば夕方になっている。
暇が怖い話も以前書いたが、暑いのと体の自由がきかなくなってしまったことで、自分の意思ではどうすることも出来ないこの状況は無条件に受け入れるしかないのである。
”暑い”に助けられて・・・
今迄の睡眠不足を補っているんだと、高級な団扇を片手に好きなだけ寝ている夏でした。今後も好きなだけ寝る秋になるでしょう