丸2ヶ月で80回まで来た楽しい時間を謳歌しているし、
読者が増え続けている幸せを実感する毎日折角なので、
私がこの仕事をするようになった経緯を書こうと思う
私の仕事は特殊である。
会社員や公務員、農家や漁業などとも違う。
自分で仕事を探さなければならない。
待っていれば舞い込んで来るようなものではない。
積極的に自分の出来ることをアピールして認めて貰わなければな
らない。
認めて貰ったとしても仕事に結びつく可能性はかなり低い。
入学試験や入社試験とは全く違う。
芸術の世界も学歴社会や縦社会である。
場合に寄っては横繋がりで固まっている世界でもある。
才能なんてものは、売れれば〈才能〉という言葉を発せられるが、
有名になったり、
高額に稼げる者に世間は〈才能)という称号を与える。
英才教育も施されてはいない。当然有名音大卒でも欧米等の留学
経験等ないし、日本語以外話せない。
親の七光りもなく、人脈も組織もない田舎娘がこの音楽の世界に
身を置くというのはかなり無謀な生き方に間違いはない。
しかし、生まれつき虚弱体質でろくに勉強も運動も出来なかった私
が唯一誉められたのが〈うた〉である。
此処に印刷の関係で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
小木曽サチ江先生のその一言「寿子さんが独唱ね」と小学校の
校内放送で流すクラス毎の音楽で「通りゃんせ」を歌う事に
なっていて、その独唱部分を私に歌わせてくれた
その時、歌いながらうきうきしていた自分が鮮明に思い出される。
嬉しいただそれだけ
私には〈歌う〉しかないと感じた瞬間だった
家族に理解されていないことは以前のブログで何回か書いたが、
兎に角(歌う)を追いかけた
自分の出来る事は何でもやったなので、
世界一嫌いな酔っ払い相手の仕事も、
大嫌いな煙草の中でもお稽古代や学費の為に働いた
全然苦労なんて思わなかった目はそこにいる客などを見ていな
い歌い手だけを夢見ていた
まぁそんなこんなでここまで来た。
音楽家一本で食べて行かれるようになったのは50歳になった頃だ
ろうか
しかし、無茶苦茶働いたせいもあって同時に杖歩行が始まり、
インスリン投与も始まってしまった💉
健康より何より〈歌う〉ことを夢見ることを最優先した生き方が招い
たことだから仕方ないと受け止めている。
もしかして、我が家族がバラバラなのも、自分としては妻として母と
して最大限の愛情を注いできたと自負しているが、それ以上に
〈歌う〉という夢への愛情の方が上回っていたのかも知れない。
反省なんてしない。後悔なんてしない。
夢があったからこそとんでもない人生をここまで遣り切ったのだ
という満足と自信がある
人様からは、どう見られようが馬のマスクのように前だけを見て
進んできたようである
兎に角寝る時間も惜しんで動いた
21時~23時が二倍の時間であったらと度々思った
21時~23時半は唯一私の睡眠時間だったからだ忙しい事は
嬉しかった。
夫の借金返済に苦しめられながらも
人並みに教育出来る子育ても、働ける故である
還暦を過ぎて2か月後の母の誕生日に、突如歩けない激痛に
見舞われ(脊柱管狭窄症)と診断されて以来、
体中の痛みを背負いながらの生活に一変する
そんな中でも出来ることを探し探し種を撒く
動けない 忙しくない
此処にも印刷の関係で無駄な行を入れますごめんなさい(≧▽≦)
恐ろしく忙しかった頃の辛さより、時間を持て余す辛さを実感する。
年をとり、やることもなく、
やりたくても体や頭が付いて行かないこともある。
ただただ、時間の経過に身を委ねるしかない生活の妙な疲労
これこそが高齢者の本当の辛さだと思う
2024年5月21日修正(68歳)
更科寿子のホームページ
ここの色の付いたアドレスを触るだけです