11年が経ちました。
昨年はFukushima50をご紹介しました。
その後、動画配信サービスにいくつか加入しましたので
今年も震災関連の動画を1本ご紹介します。
風化していくことは仕方のないことかもしれません。
とはいえ、伝えることを諦める理由にはなりません。
今日も例年通り、あの日の出来事、思いをそのままお伝えします。
いざという時には自分の身は自分で守らなければなりません。
必要最低限の備えを是非!!
2011年(平成23年)3月11日 金曜日14時46分18秒
その時、私は、新幹線に乗り、日帰り出張で仙台に向かっていました。
盛岡を過ぎて、しばらくして車両内の灯りが次々に消えました。直感で「地震」と確信。今までも同じ状況で何度か地震を経験したからかもしれません。
新幹線の地震探知網は非常に優秀で、感知するとすぐに停車モードへ。徐々にスピードが落ちていく中で下から、「ドーン」と突き上げ第1弾がきたかと思うと、連続で縦揺れ。すでに減速モードに入ってはいましたが、正直、脱線するのではないかという思いが脳裏をよぎりました。恐怖よりも起きている出来事を認識することで精一杯という状況。
完全停止して、隣の席の男性と、「いや~凄い揺れでしたね」と会話を交すや否や、これでもかこれでもかと余震が襲います。それも恐怖感を抱くには十分すぎる瞬間的には震度5くらいありそうな余震ですから心安らぎません。宮城県北部は震度7という車内アナウンスがありました。これは地震が収まっても、点検等を含めれば長期戦。今日は仙台行きは無理かもと思い、会社のガラケーで関係部署にメール発信。
その後も定期的に余震は続きます。私は10号車の最後尾席でした。その頃に、スマホのワンセグでなんとかTV受信された他の乗客から「どうも大津波がきているらしい」という情報提供がありました。ただ、あんな凄い津波が押し寄せているとは全く分かっていませんでした。乗客は、非常に冷静で、静寂に包まれていました。その要因として「寒さ」があります。停電しており、非常灯は限られた車両のみで、日が暮れていくうちに、車内の温度も急激に低下。少しでも温度を逃さないようにとシェードを下げるようにアナウンスがあり、指示に従います。たまに外を見てみますが、停電しているのでまさに「闇」です。最後尾車両なので、車内販売が来ましたが、もうビールと乾物系おつまみしかなく、隣の席の男性と全て買い占めて、淡々と晩酌(?)した記憶があります。
最後尾車両のため、乗務員室が入口を隔ててすぐです。20:00を過ぎた頃でしょうか、
・余震が激しく、動けないし、高架橋が倒れることは絶対ないので、ここが一番安全。
・本日は車中泊してもらう。
というアナウンスがありました。落胆の声も聞こえましたが、余震の激しさから只事ではない状況であるという認識を誰もが持っていたので仕方ないと諦めていたと思います。
とにかく寒さとの戦いでした。メールは全く戻ってきませんし、家族の安否も不明。バッテリーもどんどん無くなっていきます。寒さに耐えては時計を見るの繰り返し。ほとんど時は過ぎ去ってくれません。余震に起こされて、自分で今寝ていたのか、ボーっとしていただけなのか判断もつかなくなってきました。
22:00を過ぎた頃、毛布とホッカイロの配給を開始。私の10号車から持ち込んで、配布して回ります。善意より、とにかく寒いので動いて体を動かしたいという気持ちが強かった記憶があります。しかし、冷え切った毛布で冷えた体を覆っても全く暖かくなりません。気休めですね。配布されたホッカイロも1人1個・・・こちらも気休め程度です。ホッカイロを当てる場所を時折変えながら、ひたすら時が過ぎるのを待つのみ。
時間は正確に覚えていませんが、夜中の記憶が1つ。医師か看護師かは分かりませんが、女性が、
「辛いかもしれませんが、少し動いてください。足を動かさないと血管が詰まってしまいます」
とエコノミークラス症候群防止の注意喚起のために大声でアナウンス。私も貧乏ゆすりやらふくらはぎを揉んだりを眠りから覚める度(=余震の度)、やってみました。
朝日が昇った7:30頃、バスの手配ができたとのJRからのアナウンス。ようやく帰れると安堵感が。おそらく一生に一度あるかどうかの新幹線線路の徒歩移動。田園の中に駐車されたJRバスに乗り込み、盛岡に移動。その車内で聞いたラジオで昨日から起こった惨状を知りました。新幹線内で閉じ込められて時は、高速バス、駄目ならばレンタカーを考えていましたが、完全にその希望は打ち砕かれました。軽食として配布された菓子パンとお茶は全く喉を通らず。
盛岡では盛岡駅西口複合施設「いわて県民情報交流センター(愛称:アイーナ)で降ろされ、入口で毛布とお湯で戻すおこわを渡され、暫し、茫然自失。とにかく家族に会わねばという思いが強く、とにかく連絡を取ろうと街へ出てみました。懐中電灯で照らしながら営業しているコンビニもありましたが、どこでも携帯電話の外付け充電池は売り切れ。この経験から出張時は必ず外付け充電器(単3電池交換タイプ)&単3電池は持って歩いています。
公衆電話発見。テレホンカード使えず。小銭のみしかNG。家族の無事は確認できました。停電で昨晩はTVが観れる自家用車で布団を敷いて過ごしたとのこと。盛岡市内は駅近辺のスーパーはいずれも買い出しで長蛇の列でした。並ぶ気力は全くなし。目的とした携帯充電器は手に入りませんが、家族の安否確認はできたので、取り敢えずアイーナに戻りました。
アイーナでは、さらに避難された方々でごった返しています。外国の方々もいらっしゃいました。ボランティアで外国人の問い合わせブースもあり、感心した記憶があります。頂いたおこわを(すでに冷え切っていました)食べて思案にくれていると、
「◎×方面、何名募集してまーす!」
と館内アナウンス。募集している場所に行ってみると、
・帰宅手段を手配しているのではない。
・行きたい場所が同じ方々を募っている。
・4人集まったら、タクシー乗り場に行って頂き、あとは各自交渉。
ということでした。私の希望方面はいなかったので、私が立候補して、A4紙に×△方面と書き、それを持って立ち続けます。そしてアナウンスで希望者を募ります。希望者はあっという間に集まりました。4人で、タクシー乗り場で交渉。幸いプリウスのガソリン満タン車があり、希望方面に行ってくれるとのこと。料金ですが、1人あたり11,000円、計44,000円で打ち止めにしてくれるということで帰ることができました。
自宅に着いたら、被害も軽微なエリアだったので電気も復旧していました。まだ縦縞の入っていなかったTVで、初めて映像として津波の惨劇を目の当たりに。家族たちも津波が来るとのことで、車で山をめざしましたが、大渋滞で全く進まず、諦めて戻ったそうです。
おわり