前回書いたように、息子は震災の年の6月に生まれた。
その息子は自宅出産したのだけれど、どうして息子が自宅出産になったのかは、震災と娘の出産が深く関わっていた。

私は娘を神戸の東灘にある助産院で出産した。
8ヶ月まで病院に通っていた私は、どうも病院の機械的な対応に納得がいかず、もっと自然に子どもを産みたいと漠然と思っていた。それで電話帳を調べたりしたが、今ひとつそちらの方にも何となく気が進まぬまま、何となく日々が過ぎて、とうとう8ヶ月が来て、病院の方から入院の手続きをとるように言われた。

が、それもまた何だか機械的な対応で、やっぱり違う、とは思うものの、まだ何だか決まらずにいた矢先、友人から神戸の東灘に良い助産婦さんがいるとのこと、さっそく行ってみた。

まだ独身で、子どもを産もうなんて考えすらなかった頃、半年ほどインドに滞在していた時に、私はインドのOshoメディテーションセンターでブレストレーニングの通訳をしていた。その時に、ビデオを見たのだった。
そのビデオは自然出産と病院出産の違いを映していた。
どうしてそんなビデオを見ることになったのか?
そんなことは分からないけれど、そのビデオは深く私の中に記憶されていた。

ブレストレーニングでは、色んなパターンがあって、そのパターンの中で体験したことを擬似再体験することで、その時のトラウマを解消するものがあり、その一つに出産の再体験というものがあった。一人の人がもう一人の人をぎゅうっと抱え込んで子宮の役割をする。そしてもう一人ははぁはぁと呼吸をしながら、そこから出てくるというものだった。
そのブレストレーニングのナイトセッションでそのビデオを見たのだった。

生まれたときにどんな扱いを受けるかで、その後の人生が違ってくる。
赤ちゃんは産道を通ることで、いったん死の体験をし、そして再誕生する。
その過程を経ることで、強さが生まれ、誕生したときの扱われ方で恐怖に対するトラウマが違ってくること、そしてその時の恐怖体験は理由の分からない暴力性に変わる、といったような内容だったと思う。ビデオは病院出産や自然出産を通して、その時の妊婦さんの表情や赤ちゃんの表情を映し出していた。水中出産のビデオもあった。説明を受けるまでもなく、その表情を通して、違いは歴然だった。
そのビデオのことが私の中で深く記憶に刻まれていたのだった。

8ヶ月にはなったものの、娘はまだ逆子だった。
予約をして助産院に行ってみて、助産婦さんに会った。
開口一番、
「どんな風にして産みたいですか?」と聞かれた。

私は本当に驚いた。
(でも、本当はそのことを驚くことの方が驚きかもしれないけど・・・)
そうそう、誰もそんな風に聞いてくれなかった!!
まるで出産工場の様な対応だった。
そして、私のまるまるとしたお腹をゆっくりと撫でて、「ここが頭ですねぇ、ここが足で・・・、赤ちゃんは逆子ですね」と言われた。
病院ではジェルのようなものをお腹に塗って、機械で中の様子を見るだけだったので、私はようやく人間性を回復した気がした。
助産婦さんはかなり年齢のいった方で、長年のキャリアを思わせた。
私は直感でここでお願いしようと思った。

「もし、最後まで逆子だったらどうですか?」と私は聞いた。
助産婦さんは落ち着いた様子で、
「たいていは産まれるまでに、赤ちゃんの方がちゃんと産まれる用意をして出てきます。でも、もし最後まで赤ちゃんが逆子のままだったら、うちではお受けできません」と言われた。

そうなんだ、何でもかんでも引き受けるわけではないんだ。
私はその対応に逆に安心した。
きっと、何とかなる。

その後で、たいていは問題がないけれど、万が一のことがあった場合は病院にも受け入れ態勢が整っていることなどを聞いて、私はそこで産むことを決めたのだった。

娘は出産の一週間前に無事、お腹でひっくり返って生まれ出る体制をとった。
そしてお昼の12時頃に陣痛が始まって、助産院に電話をしたら、陣痛の間隔を聞かれ、「それならまだ大丈夫」と言われた。
何度目かの電話の後で、「それでは来てください」と言われた。

その当時、私は実家とは疎遠だった。
もともと賛成できない結婚を、相談もせず、勝手に籍を入れ、そんな私を実家の父はもてあましていた。彼に会うのもなかなかだった。それでもどうにかこうにか、普通に会うところまで回復していた関係性は、私の妊娠で振り出しに戻った。
電話で妊娠を告げた私に、父は「自分の目の届かないように、もうインドに行ってくれ」と言った。

父はきっと私のことを心配していたのだと思う。子どもがいなければ、別れたらそれで終わる。でも、子どもがいたらそうはいかない。いつまで続くのか分からない私の不安定な結婚生活を見ながら、途方にくれていたのだろう。結局はまあ、父の心配どおりになったのだけれど。(笑)
ずっと後になってから「命を否定していたわけじゃない。どんな命も命だから」と言ってくれた。でも、ずっと後になってから・・・。

そんなわけで、その時私には頼るところはなかった。
実家とは車で10分ほどの距離だったけれど、出産後、もちろん実家へは帰れない。
友人にそんな理由を話し、陣痛が来たら助産院まで車で送ってくれるように頼み、出産に立ち会いたいという友人2人と一緒に私の出産が始まった。

すべてが初めての体験だった。
最初の陣痛からもう15時間が経っていた。
夏だというのに、いよいよ産むという瞬間が近づくとクーラーの風が邪魔だった。私はクーラーを止めてくれる様に頼んだ。その時の私はきっと、洞窟の中で子どもを産み落とす動物の感覚に近かったのだと思う。助産婦さんは安産だと言ってくれたけど、私にとってはすったもんだの末、上の娘は誕生した。

娘は生まれたとき、3回「おぎゃぁ、おぎゃぁ、おぎゃぁ」とないた後、手を胸の前に抱え、こぶしを握って、じっと不思議そうな目で外の世界を見ていた。

そんなドラマの中、娘は助産院で生まれた。
そこでは、いきなりへその緒を切って産湯を使うこともなく、生まれた赤ちゃんをお母さんのお腹に乗せて、へその緒の機能が停止するまで、そのままにして置いてくれた。生まれたときに体についている皮脂は2時間くらいそのままにしておくと、自然に体が吸収し、その方が体が丈夫になると、助産婦さんは言っていた。その後で体についている血液だけを洗ってくれた。

兄夫婦が子どもを連れて広島から来てくれた。
友人が見に来てくれた。
父は来なかった。
でも、母だけ父に送られて来てくれたのか、来なかったのか、もうそれも覚えていない。
母だけ、来てくれたんだっけ?
思い出せないなぁ。
産院からどうやって帰ってきたのかも、もう覚えていない。
もう12年も前のことだものなぁ。

母は暑いのに毎日自転車で、一週間くらい子どもの入浴の手伝いに来てくれた。
それだけは覚えている。

洗濯とか食事とか、どうしてたんだろう?
何ンにも覚えてないなぁ。
人って忘れていくもんだ。

その娘ももう12才・・・。