息子の出産の時の話を書こうとして娘の出産まで戻ってしまった。

前回の息子と震災の話で書いたように息子は震災の年、1995年に生まれた。
震災が起きたとき、私のお腹で6ヶ月だった息子も、そろそろ生まれてくるので、出産準備をしなければならない。
でも、前回も病院で生まなかったので、今更病院で出産する気持ちもない。

だけど、あの助産院はどうなっただろう。神戸の東灘にあったのだけれど…。息子の出産予定日は6月の初め。その時はもう2月になっていた。後3ヶ月ほどなので急がなければならない。

どうやって連絡を取ったのか覚えていないけれど、東灘の助産婦さんに連絡が取れた。でも、心配したとおり、助産院は倒壊していた。助産婦さんは娘さんのところへ避難していた。一応話してみたら、自宅出産なら引き受けると言うことだった。

自宅出産かぁ・・・。
どうしよう?
前回の娘の出産後、私と実家との関係性は回復していたものの(あれから2年半ほどたっていたし)、産後の私の面倒を誰かが見てくれるという期待はできない。実家へ戻って出産するということも考えられない。産院で一週間を過ごして戻ってきた後なら、何とかなるかもしれないけれど、産んでからの一週間をどう過ごす?まして今は上の子どももいるし・・・。
さすがの私もちょっとためらった・・・。

とりあえず、母に電話をしてみた。
事情を話したら、案の定「え~、そんな面倒なこと・・・。病院で生んだらいいのに・・・」と言われてしまった。
まあ、ほぼ想像通りか・・・。

病院ねぇ・・・。
やっぱりどうしても気が進まない。
ええぃ、何とかなるだろう。
私は自宅出産を決断した。

レンタル貸しおしめを手配した。
なるべく楽なようにしよう。
そして、母に電話をして、最初の数日分だけ私と子どもの食事を何とかしてくれるように頼み込んだ。

出産直前になると、助産婦さんは毎日のように巡回してくれた。
出産のその日、いつものようにお昼ごろ巡回に来てくれた助産婦さんは私の顔を見るなり、「もうそろそろですね。このまま様子を見ましょう」と言って、そのまま居てくれた。
どうして分かるんだろう?

産後はすぐに入浴ができないので、とりあえずお風呂をわかし入浴を済ませることにした。
入浴が引き金となったのか、その日の5時ごろから、陣痛が始まった。

陣痛というのは、本当に不思議な痛みだ。
もし、これが陣痛でなければ、そのあまりの痛みに、人は気が動転するに違いない。すごい病気だと、救急車を呼ぶかもしれない。本当にそのくらい痛い。でもそれは波のように来ては、波のように去っていく。そしてその凪ぎの時間は、何だってできるのだ。まったく平気になる。体は弱らない。そして、体は知っている、この痛みが異常ではないということを・・・。

時間の経過とともに、陣痛の痛みは強くなり、そして間隔が短くなっていく。ほんとうに腰が砕けるかと思うくらい痛い。それで、私は体の体制を色々に変えてみた。あるポジションをとると、陣痛の痛みが避けられることが分かった。陣痛が来る度に、その体制をとると、不思議と陣痛の波を乗り越えることができた。

でも・・・、ふと考えると、
陣痛って子どもが生まれないと終わらないんだ。
そんな簡単なことを忘れていた。
やっぱり産み出しにいくしかない。
私は体制を変えた。
それは腰が砕けそうな痛みに直面するということだった。

2度目の出産なので、軽くてスルッと産まれてくれたらいいなぁ。
そんな期待を持っていた。
が、結局は同じプロセスを短時間で通り過ぎただけだということが、後で分かった。
5時から始まった陣痛は11時の出産で終わりを迎えた。
娘の時の半分くらいの時間だったと思う。
それでも6時間はかかっている。

私は娘を出産に立ち合わせたかったけれど、娘はすっかり寝ていたようだ。そんな時期ではなかったのかも・・・。ダンナも隣の部屋には居たけれど、とても直面する勇気はなさそうだった。兄が来てくれていた。

翌日、起きて来た娘は、初めて自分の弟と対面した。
すると、部屋から出て行って、何やら持ってきて、寝ている赤ちゃんの頭の上に方に置いた。
「何もってきたの?」と聞くと、
「赤ちゃんがね、目がさめたら、あそべるようにって、おもちゃ あげたの」と言っていた。
見ると、積み木のピースが新生児の寝ている頭の上の方に一つ置いてあった。

(まだ、遊ばないんだよ~。)

でも、娘の優しさが嬉しかった。