その73

「うん、平気! おねえちゃんにだったら、いくらでも~」
(え…?なんなんだ、この子、危なすぎ)
「おねえちゃんは、とくべつなんだ。 ぼく、おねえちゃんのことならなんでも言うこときくよ」

わたしは、ちょっと警戒した。
きっと、このあと、何か言い出すにちがいない。
「そんなこと言っても、何もでないわよ」
「あのね、きのうさ…お風呂入ったときに、見たい?って聞いてくれたよね?」
「う…」

「見たいっていったときの返事、聞かせてもらってないっ!」
「…見せるわけないでしょ」
「だって、見たいのに…」
「見たって、何も起きないから」
「それでも、みたい……」
「しょうがない! じゃあ、ちょっとだけね」

わたしは、タオルをちょっとだけ下にずらした。

正男が、くいいるように、胸を見つめている。

「やっぱ、や~めた。」
「ええっ! ずるい~」
「ずるくない。本気で見せるわけがないでしょう。」
「おねえちゃん、うそつきだ。うそはダメだって父さんも言ってたよ。」

「ねえ? わたしの下のほう見たんだよね。」
「うん」
「そのとき、むねも、実はしっかり見たんでしょ?」
「それも…見えた。」

「見えたんじゃなくて、見たんでしょ。」
「うん、みた。」
「じゃあ、それで、もう十分すぎ。
 これ以上、見られると、減っちゃうからダメよ。」
 
わたしは両手でタオルをにぎりしめ、ひざですそをはさんで言った。

「つまんないの~」
「さ、もうあがりましょう。まさおくん、先に出て。」
「うん」

ところが、正男は湯船をまたぐどころか、ざぶんと頭からお湯にもぐってしまった。
もぐったままで近づいてくる。

その74

「な、なに?どうしたの?なにやってるの?」
わたしは腰を浮かせて正男を目で追う。
すると…ざばっ!!わたしの目の前で正男が浮上した!

「な、なにしてんのっ!?」
正男はあっと言うまもなく、わたしの首に腕をまきつけ、ぴたりと顔を押し付けた。

「あ…だめっ!なにするのよ!!」
離れさせなくちゃ…
そう思ったはずなのに、なぜかわたしは固まってしまった。

「おねえちゃん…ぼくおねえちゃんのこと…」

耳もとで正男がささやく。
わたしの頬と首すじに、正男の鼓動が伝わってくる。
でも、それはわたしの鼓動だったかも。

「な、なあに?」
「すっごく、好き…」

その言葉を聞いて
押しのけるつもりだったのに
わたしは、正男の背中にそっと腕を回してしまった。

「わたしも、まさおくんのこと…だいすきよ。」

出会ってたったの二日目。しかも、お風呂で裸になって抱き合っている。
どう考えても普通じゃない状況なのに、それでも不思議に違和感がない。
ずっと前から正男のことを知っていたような、好きだったような気がする。

突然、昨日の夜のことが脳裏によみがえった。
ひどく嫌な経験のはずだったのに、

りりしかった正男のことしか思い出すことができない。

どうしたんだろう…なんだか胸がきゅんきゅんしちゃう…。

正男の体温が触れ合った胸から伝わってくる。
どくどくとお互いの胸が鳴っているのがわかる。
なにか話さないとどきどきがおさまらない・・・
「ねえ、まさおくん?」
「うん?」
抱き合ったままで、わたしは、正男に話しかけた。

その75

「わたしのどこがすきなの?」
「きれいで、優しくて、頭のいいところ。」
タオルがゆらゆらと身体から離れていく。
正男の右手が、わたしの胸にそっと触れた。

「だ、だめよ、動かさないで」
恥ずかしくて、わたしはその手を上からおさえた。

「やわらかい…おねえちゃん、だいすき…」
正男は左手もわたしの胸において両手を押しつけた。

「あ・・・だめよ」
わたしは湯船の角を背にしているので、体をよけられない。
膝に力を入れて、足をしっかり閉じているけど
正男は下半身もくっつけてくるので、このままだと・・・

どうしよう。
抱き合っているだけならいいけど、これ以上触られていると――
まずいことになりそう・・・

「おねえちゃん…」
正男がわたしの胸に手をあてたまま、かすれた声で話しかけた。

「どうしたの?」
「ぼく、なんだか、へん…なんだ…」

正男が、下腹部を、もじもじさせている。
 あっ!
わたしのふとももに、なにかが、あたっている。

「だ…だめよ」

頭が真っ白になった。
だめ! ちゃんと、落ち着かなくては…わたしは自分に言い聞かせた。
「ぼくのからだ、どうなったんだろう。」
正男が困ったような切ない声で、わたしにすがりつく。
「もしかして…はじめて、そう…なったの?」
「…う、うん」
保健の時間に勉強はしていたが
まさか、現実にこんなことが起きるなんて…。(落ち着け、落ち着け、わたし!)

「それはね、まさおくんの身体が、大人になろうとしているの」
「おとなに…?」

 

その76

「うん…だから、ちっとも変なことなんかじゃないの。」
「だって…いつもと、ぜんぜん、ちがうんだよ。」

また、まさおが下腹部をもじもじさせている。
初めての経験で、とまどっているのだろう。
わたしだって、こんなの、初めてなんだよって言いたくなったけど…。

(でも、ここは、しっかりしなくっちゃ!)

わたしは正男の肩をつかむと、そっと両手で押して体を離した。
正男は顔を真っ赤にして、ぼうぜんとわたしを見つめた。

「それ、お風呂に長く入りすぎたからなの」
「そう…なの?」

「うん、だから、もう出ましょう。」
「う…うん」

わたしは、正男に、にっこりと笑いかけてから、背を向け湯船を出た。
そのまま振り向かずに、お風呂のドアをあけ外に出る。
しかし、バスタオルをとった瞬間、へたへたと腰をおろしてしまった。

(のぼせただけじゃない…緊張してたんだ、わたし)

正男は、なかなかお風呂から出てこなかった。
髪の毛も拭き終えて下着を身に着けたが、それでも正男は、出てこようとしない。

(どうしたんだろう…)

わたしは、ちょっと気になり始めた。
正男、あのまま入り続けて、のぼせて倒れているのでは?

そっと、お風呂のドアを開けた。
正男は、湯船の縁にこしかけて、じっとうつむいている。

(あっ、もしや、反省してる…のかな?)

反省するくらいなら、はじめから、調子に乗りすぎるなと言いたくなったが
正男のことが、可哀想になってきた。わたしにも責任があるし…

「ねえ、まさおくん?」
わたしは、自分でも驚くくらいに、優しい声で話しかけた。

「…おねえちゃん…ぼくのこときらいになった?」

その77

うつむいたまま、正男がおずおずとわたしに訊いた。
(そっか…さっきのこと気にしてたのね)

「ちがうわよ。ちょっとやりすぎだっただけ。
 だいじょうぶ、まさおくんのこときらいになったりしてないから」
「よかった!」

正男は、湯船に足からざぶっと飛び込みすぐに立ち上がった。

「お風呂出たら勉強よ。分数できるようにならなくちゃね!」
「う、うん。ぼく、がんばる。」

ドアを閉めようとするわたしに、また、正男が話しかけた。

「ねえ…おねえちゃん…」
「うん? なあに?」

「もう、お風呂、一緒には…だめなの?」
「そんなことないよ。今夜も一緒に入ろう」

「うん!」

正男が嬉しそうに返事をした。
もしや、正男、お風呂を好きになってくれたのかな…だったら嬉しいなっ。

「じゃあ、先にお部屋にもどってるから、すぐにきてね。」

そういい残し、わたしは浴室をあとにした。
それにしても、正男って大胆だと思う。
初めて会った子の胸をさわるなんて、やっぱありえないよね。
でも、一緒にお風呂に入ろうって言い出したのは、わたしだし…。

さっき、見つめあったときの小動物のような正男の顔。
なんだか、子猫に似てた気がする。
そして、わたしは、子猫が大好き…。

なんてことを考えているうちに正男の部屋についた。
大きなゴミ袋も全部片付けてある。
四角い大きなテーブルが出してあり、お菓子とジュースが乗せてあった。
机の上では勉強しにくいだろうという、おばさまの判断なのだとわたしは思った。

机をはさんで2枚のざぶとんが敷いてある。
わたしは、1枚のざぶとんを持つと、隣り合わせに、それを置いた。

その78

隣り合わせに置いた理由?
だって、この方が教えやすいし…
となりにいれば、正男のやる気もきっと出るはずよね?
ざぶとんに座り、美味しそうなクッキーに手を伸ばしたところに正男が帰ってきた。

「おかえりなさい。」
「ただいま!」

そう言うと、正男は、わたしのとなりにちょこんと座った。

「まだ、座っちゃダメ、算数の問題集、持ってきなさい。」
「はあい。」

そう返事をすると、正男は、本箱から問題集だけを持ってきて座ろうとする。

「ねえ? ノートと鉛筆は?」
「あっ! 忘れてた…」

(なんなの、このこって…)

正男がノートと筆箱を持ってきた。
わたしは問題集を手にとって、中をぱらぱらとめくった。
ほとんど、開いたことがないのだろう。
まっさらで、本屋さんに並んでいるのを持ってきたような問題集だった。

「ねえ?」
「なあに?」

「この問題集って、開いたことあるの?」
「ううん、ないよ。」

「一度も?」
「うん、一度も見たことない!」

(そう言うと思った><)

小学6年用の問題集。
分数の掛け算と割り算は載っているが
足し算と引き算の問題が載っていないようだ。

「まさお君って、足し算と引き算が苦手だったのよね?」

わたしは、朝食のときの話を思い出しながら尋ねてみた。

「うん、そこが、よくわからない。」

「だったら、この問題集じゃだめなの。
 5年生の頃の問題集は、もってないの?」

「それは…持ってない。」

「じゃあ、5年のときの教科書は?」
「それだったら、きっとある。」

正男は、ふたたび立ち上がり、本箱をあさり始めた。

 

その79

わたしはクッキーを一枚食べてみた。
ジュースをコップに注ぎ、2枚目のクッキーを口に運ぶ。
正男は、まだ、教科書を探している。
見つからないようだったら、買いにいかなくちゃ…。

「あっ、あった!!」

正男が、叫んだ。
見ると、小学5年「下」となっている。

「『上』の方は、すぐ見つかったんだけど、これが隠れてたんだ。」

「どこに隠れてたわけ」
「おくのほうに…」

(単に整理が悪いだけでしょうに)と言いかけたが
せっかくやる気になっている正男の気をそいでも仕方がない。

「よく見つけたわね、まさおくん、えらい!」
(ここは、褒めておかなくちゃ)

「えへ、それほどでも」
すぐ舞い上がる正男、やっぱかわいすぎるぅ。
分数の足し算のページが開かれ、ノートも開かれて勉強の準備は整った。

「じゃあ、始めましょう。」
「はい、おねがいします。」

正男が、礼儀正しく返事を返した。

「お風呂で話したこと覚えてる?」
「うん、 5ぶんの1 と 5ぶんの1 が同じときと違うときがあるってこと?」

「うんうん、よく覚えてたわね。」
「だって、すごく気になったんだもん。」

何事にも、疑問を持つということはいい事だ。
与えられたことだけを鵜呑みにして自分で考えない人も多い。
そんな人が増えている中で、正男のような子って、けっこう貴重かも。

「20の 5ぶんの1 はいくつ?」
「20÷5 と同じだから… 4だ」

「うん、じゃあ、30の 5分の1 は?」
「30÷5 だから…6!」

「同じ 5分の1 なのに、答えがちがってるよね?」
「うん、 4 と 6 だから、ちがってる…」
「なぜ、答えがちがってるの?」

その80

「よく、考えてみてね」

正男は、しばらく考えた後に、つぶやいた。
「20と30がちがってるからでしょ?
 同じ5分の1でも20と30がちがうから?」

「うん、そうなの。」
「不思議だね…」

「数には、4種類あるの。」
「4種類も?」

「そうよ。同じ3でも個数を表す3、りんごが3個とかがそうよ。」
「すいかが6個とかもそうだね。」

「うん、すいか、美味しいよね。わたし、大好き。」
「ぼくも、すいか、大好き。あとで一緒に食べよう。」

「うんうん、絶対、食べよう。」

といっても、正男がくれるんじゃなくて、きっとおばさまが切ってくださるのよねっ。

「次の数字は?」
「順位を表す数字。たとえば、かけっこで、3位になっちゃったとかいうやつ。」
「すごい。同じ3なのに、ぜんぜんちがう3だね…」

正男が感心したようにつぶやいた。

「あと2種類あるんだけど、わかるかなあ?」
わたしの問いかけに、正男は即座に答える。

「ぜんぜん、わからない」
(うっ、こいつ、まったく考えようとしてないな)

「いま、ちゃんと考えたの?」
「ううん、考えてない。はやく教えて!」

「しょうがないわね、まあ、分数が目的だから教えてあげるわよ。」
「わくわく」

「場所を表す数字、映画館やバスの座席についてるでしょ?」
「Aの3とか、Cの7とかってやつのこと?」

「うん、それは場所を表す数字、座標ともいうのよ。」
「へえ、同じ数字なのに、色々あるんだね。」
「じゃあ、復習よ。どんな種類があったっけ?」

正男は、一呼吸おいて、すぐに答えた。
「すいか10個! マラソンで2位! 映画館の座席Fの8!」


その81

「すごい、よく答えられたわね。」
「うん、ちゃんときいてたもん!」

「でも…すいか10個は多すぎるでしょ?おなかこわすわよ」
「大好きだから大丈夫」

「いくら大好きでも…大丈夫じゃないから…」
「おねえちゃんも好きなんでしょ?」

「すきだけど…すいかは一個にしとこうねっ!」
「うん、わかった。一個にしとく。はんぶんこにする。」

「うんうん、はんぶんこが一番いいよね。」
「ねえ、お姉ちゃん?」

「なあに?」
「3つまではわかったけど最後の数字はなあに?」

「気になるの?」
「うん、すっごく気になる!」

正男の目がきらきら輝いている。
わたしも教えるのが楽しくなってきていた。

「この4番目がすごく重要な数字なの。」
「ぼくの知ってる数字?」

「うん、いつでも使ってるはずよ!」
「う~ん…」

これ以上じらすのは可哀そうかな。
目的は分数の足し算引き算だもんね。
ということで、わたしは、4つめの数字を教えた。

「最後は、割合を表す数字」
「割合? 苦手だったやつだ!」

「3倍とかがそうよ。
 この数字は、3だけでは意味をなさないの」
「何を3倍するのかが、わからないから?」
「うん、20円の3倍は、みたいに…何かもとになるものがなければ比べられないの。」

「あっ、わかった。それ、さっきのやつだ。」

わたしが言いかけようとすると、それを正男がさえぎった。

「20円の3倍は60円だけど、100円の3倍は300円。
 同じ3倍でも、答えが、ちがってくるんでしょ?」
「そうなの。まさおくんって、すごいわね。」
「これくらいなら…」

正男が、ちょっとだけ照れたように答えた。

その82

「じゃあ、お風呂での答えを教えるね。重要なのは単位なの。」
「単位?」

「うん、単位がついていれば同じもの。
 ついてなければ、それは同じかどうかわからないの。」

「……」

「5分の1メートルと5分の1メートルは同じ単位だから等しいの。
 だけど、たんに5分の1としか表記されてなければ、それは、どんな量かはわからない。」

「わかったような、わからないような…」
「でしょう? これが難しくって、割合が苦手になるのよ。」

正男がうんうんと言う風にうなづいた。
わかっているのか、わかってないのか、まあいっか。

「じゃあ、分数ね」
「うん、でもそのまえに…」

「なあに、どうかしたの?」
「おなかがすいちゃった。ご飯にしようよ。」

わたしは壁に掛けられた時計を見た。
1時を回っている。
言われてみて、わたしもおなかが減っていることに気付いた。

「わたしも、おなか、ぺっこぺこ。」
「うんうん、腹が減っては、いくさはできぬ!」

「おっ、すごいことわざを。」
「まだ知ってるよ。」

「どんなのを?」
「せいてはことをしそんじる。」

「意味も、わかってるの?」
「うん、あせって勉強しても頭には入らないでしょ。
 だから、先にご飯食べようってことだよ。」

わたしは内心で驚いた。
ただの小学生だと思っていたのに、まさお、おそるべしねっ(笑)

「すごいね。それ、誰に教わったの?」
「学校の朝の学活の時間だよ。毎日ことわざを教えてくれるんだ。」

分校って聞いたけど、人数は少なくても、きちんと授業されているんだ…。
わたしも、その分校に行ってみたくなった。

 

その83

「ねえ、いま、夏休みだけど、 その分校には、いくことできるの?」
「うん、いけるよ。プールもあって夏休み中に最低5回はいかなくちゃならないんだ。」
「そうなの?」
「うん、でも…まだ一回もいってない…。」

今日は8月12日。
夏休みが半分、過ぎようとしているのに
まだ、一度も行っていないとは、このへんも正男らしい。

「そのプール…わたしも行っていいかしら。」
「うんうん、大丈夫。知らない人も泳ぎにくるし一緒に行こうよ。」
「わたしプール大好き。」
「ご飯食べたら、行こうね。」

「それはだめよ。 きょうは、算数の勉強あるんだから。」
「ううぅ、そうだった…」
「さあ、ご飯を食べにいきましょう。」

わたしと正男は、広間の方に移動した。
そこでは母と芳江おばさまが向かい合って談笑していた。

「おばさま、こんにちは。」
「あきちゃん、こんにちは。さっきは御苦労さまね。
 おかげで正男の机も見違えるようにきれいになったわ。」

「いいえ、そんなこと…」
「ううん、あきちゃんすごいって
 いまも京子さんに、話してたところなのよ。」

わたしはなんだか、照れてしまった。

「それに正男をお風呂にまで入れてくださって
 なんと、お礼をいっていいやら、ほんとにごめんなさいね。」

「いいえ、わたしが一緒に入りたかったんですから。」
「あきちゃんって可愛くって、ほんとにいい子ね。」
わたしは、ますます照れてしまった。

「ねえ!」正男が横から口を出した。
「はいはい、わかってますよ。」
そう言うと、おばさまは立ち上がった。

その84

「もう用意はできてるから、そこに座って待っててね」

あっという間に、食事が用意された。
どれもこれも美味しかった。
日ごろ、おかわりをしないわたしが、おかわりをするくらいに。

「ごちそうさまでした。」
「おそまつさまでした。」
「では、また、正男君と勉強してきますね。」
「言うこときかないようだったら殴ってもいいですから。」

過激なおばさまの言葉に思わず大笑い。

「このこ、ひとりっこだから 弟ができたみたいで嬉しいんですよ。」
と、母が、おばさまに言う。

「出来の悪い弟だけど、よろしくお願いしますね、あきちゃん。」
「わたしのほうこそ、正男くん、かわいくって!」
「うふっ あきちゃんもお世辞が上手ね。」
「お世辞なんかじゃありません…」

わたしは、ちょっとだけ頬が熱くなった。
おなかもいっぱいになり、私たちは部屋に戻った。

「じゃあ、始めるわよ。」
「うん、ぼく、がんばる!」

正男がわたしの顔をまっすぐに見ながら返事した。
(か…かわいい)

やばいなあ、わたし、ほんとにどうしちゃったんだろう。
虫のことや、お風呂でのことを思い出すと、絶対に、とんでもない子のはずなのに…。
それに年下だし…会って、たったの1日しかたってないというのに…。

でも、こうして隣に座るだけで
なんだか、胸がきゅんきゅんしちゃうんだよね。
(だめだめ! 今は勉強の時間なんだから)
わたしは、首を振って雑念(?)を振り払おうとした。

「おねえちゃん?」
「うん? なあに?」
「おねえちゃんの髪っていい匂いがするね。」
「あ、ありがとう…」

「それに…」

 

その85

正男が、そのわたしの髪に触れながら言った。
「…すごくやわらかい…」
頭を振った拍子に、わたしの髪が正男に触れたのだった。
その私の髪に正男の指が絡んでくる。
嬉しくて、ずっと触ってて欲しくなりそうな指使い。
  「あっ!」
正男の指が、わたしの耳に触れた。
一瞬、身体に電流が走る。
ぞくぞくする感じだが決して嫌ではない。
身体の力が抜ける感じがした…これはやばすぎる。

「だ、だめよ。 勉強しなきゃ!!」
「そうだね、ぼく、ノート開く。」

正男は何もなかったかのようにノートを開いた。
わたしは、そっとため息をついた。
こんな子あいてにときめくなんて自分でも信じられない。
(わたし、ちょっと変なんだろうか…)

「おねがいします。」

いつにもまして礼儀正しく頭を下げる正男。
かわいくってたまらない。
わたしは、つい、ぎゅーって抱きしめたくなったけれど
そんなん絶対だめだよね…わたしどうにかなってしまった?
そうだ!勉強しなきゃいけないんだった。

6分の5+9分の2=と、わたしは正男のノートに書いた。

「この計算できる?」
「15分の7?」 正男が不安そうに答えた。
「残念、はずれ!」
「掛け算だったら、できるんだけど…」
「じゃあ、掛け算だったら、答えはどうなるの?」
「54ぶんの10」

「あってる!」
「でしょ、それは自信あるんだ。」
(約分してないくせに…と言うのは落ち込みそうだからやめとこう)

「足し算と引き算は、通分して分母をそろえないとダメなの。」
「通分?」

その86

「うん、簡単だから、言うとおりにしてみて!」
「わかった。」

そう言うと、正男は鉛筆をもったまま、わたしの方をじっと見る。

「まずは、大きな方の分母を○で囲んでね」
「9だね…」
そう言いながら、正男は、9を○で囲んだ。

「次は、その9の倍数を5個くらい横に書いてみて。」
「9、18、27、36、45」
正男は口に出しながら、5つの数字を書いていく。

「それでいいの。その数字を左からみていくんだけど
 6で、割れる数あるかしら?」
「18は、6で、われるよ」
「そうそう、その18が、新しい分母になるの!」

「次は、どうするの?」
「計算は、まだいいわ、分母だけ見つけてみましょう。
 今度は、これよ。」

ノートに、18分の△+4分の○=と新しい問題をわたしは書いてみた。

「これやってみて!」
「あれ? これ、分子がないよ?」
「分子なんてあとまわし。
 始めは、分母の見つけ方を確実にしなきゃダメなの。」

「はあぃ!」

正男は、すぐに18を○で囲んだ。
すぐ横に、18、36、と書いて、そこでわたしを振り返る。

「これ…36が、新しい分母?」
「うんうん、大正解!」

「か、かんたんだ…」
「うん、それを、通分って言うの」
「数字がちがうから、どうすればいいかが、ぜんぜんわからなかったんだ。」

「大事なのは、大きな方の分母を○で囲むことなの。
 そうすれば、すぐに通分できるの。」
「おねえちゃんって、やっぱ、すごいね」
「すごくないって。この方法は、塾で教わったから知ってるだけよ。」

その87

わたしは問題をどんどん書いていく。

「分母が15と25だったら?」
「25を○で囲むんだね
 …ええと、25、50、75、75だ!」
「そうそう、それでいいの。」

30分くらい分母をそろえる練習が続いた。
何十問もの問題がノートに並んだ。

すべて分母だけは完成している。分子の方は、まだ真っ白いままだ。

「これで分数の足し算引き算、第一段階終了よ。」
「第何段階まであるの?」
「第3段階までよ。次は第2段階ね!」
「第2段階?」

「うん、このままじゃ分子がないから この分数たち、かわいそうでしょ?」
「うん、かわいそうだ。」

かわいそうと言いながら、にこにこしている正男。
わたしも、ついつい笑顔になってしまう。

「じゃあ、今度は、分子の方にいくよ。」
「うん…」

わたしは、はじめに書いた問題を見るように指示した。
すでに分母は出来上がっている。

  18分の5 + 4分の3
= 36分の□ +36分の□ 

「18を36にしたのは2倍したんだよね」
「うん」
「だったら5も2倍してみて」

  18分の 5 + 4分の3
=36分の10 +36分の□

「次は、どうしたい?」
「4と36を見るんでしょ? 9倍だから、ここは27だ!」

 18分の 5 + 4分の 3
=36分の10 +36分の27
=72分の37

正男は、自信を持って答えまで書いていく。

「ぶっとばす!!!」
「ええぇ? まちがってるの?」
「違ってるわよ…」
「…」


「分母は36のまんまじゃないとだめなの!」
「…どうして?」
(うっ! そんなところで突っ込むわけ?)

『だってそれが決まりだからよ』
と言おうとして、わたしは、その言葉を飲み込んだ。

 

その88

勉強って何なんだろう。
単に、やり方だけを覚えても、それって意味がない。
きちんと理解していなければ、すぐに忘れてしまうはずだし…。

わたしは一本の線を5等分して
その一個ずつの下に、すべて5分の1と書きこんだ。

「5分の3って、ここまでだよね?」
わたしは、3つ分を指で押さえた。

「うん」

「じゃあ、なんで、これを5分の3って言うの?」
「5分の1が3つだからでしょ?」

「うん、5分の1と5分の3を合わせたら?」
「5分の1が4つになるから、5分の4?」

「うんうん、それで大正解」
「こんなの簡単だよ。」

「簡単じゃないでしょうに。
 正男君は、これを、10分の3って答えてたのよ。」
「まさか~~」

正男は、疑わしそうに、わたしを見た。

「まさかじゃないわよ。
 それに、わたしを見てどうすんの。
 ちゃんと自分の解いた問題を見なさい。」

 18分の 5 + 4分の 3
=36分の10 +36分の27
=72分の37

正男は、自分の書いた答えをじっと見ている。

「あっ!」
「わかったかしら?」

「うん、わかった。
 36分の1が何個集まったかってことなんだ!!」

「そうよ。 じゃあ、正しい答えは?」
「36分の37?」

「ピンポンピンポン大正解」

そして分数の特訓は第3段階の約分へと移った。
休みなしで2時間以上も勉強を続けたが
その間一度も、正男は集中を切らさなかった。
最後には、わたしと同じくらいの速さで問題を解けるまでになった。

その89

「そこまででいいよ。」
「えっ、もういいの?」

「うん、正男君、すごくがんばった。
 もう、分数の足し算も引き算も完璧だよ。」
「ほんとに?」
「うん、もう…わたしより計算早くなってるかも…」

正男は、すごく嬉しそうだった。
勉強嫌いって聞いたけど、そんなことないのかも知れない。

「ちょっと疲れたでしょ? おやつの時間にしましょうか。」
「うん、すいか食べにいこう」

正男はすぐに立ち上がり、わたしの手を引っ張る。
なんで毎回毎回、手を握ろうとするわけ?
それに机の上は、ノート出しっぱなしになってるし…。

「これ、ちゃんと片付けてからよ。」
「うん、わかった。」

無造作にノートと筆箱をつかむと、そのまま自分の勉強机にぽんとおく正男。

「おくんじゃなくて、しまうの!!」
「しまい込むと、どこにおいたか、わからなくなる…」
「なに、ばかなこと言ってるの…はやくしまいなさい」
「はあぃ。」

正男は机の引き出しの中に、全部しまいこんだ。

「じゃあ、いこうね」

今度は、わたしから正男の手を握り、おばさまたちのいる部屋へと向かった。

母はいなかった。
おばさまは、ひとりでテレビを見ていた。
わたしたちに気付くと、そそくさと席を立つ。

「のどかわいたでしょ?ジュース入れるわね。」
「ううん、すいかがいい、すいかにしてっ!」
「はいはい、すぐ切りますね。」

冷蔵庫から半分に切った大きなすいかが出てきた。
そのすいかを切りながら、おばさんが言った。

「正男、ばかだったでしょ?」
 (ばか?)
自分の息子なのに、これほど、はっきりと言うなんて、すごいおばさまだ。

その90

「そんなことないですよ。 飲み込みも早くて、いい子でした。」
「うん、もう分数得意になったよ。」

正男が偉そうに言う。

「ちゃんとお礼は言ったの?」
「あっ! ありがとうございました。」
(おっ、正男の敬語、初めて聞いた)

「はい、スイカ!」
わたしと正男の目の前に
4分の1 に切っただけの大きなスイカが置かれた。

東京で母が切ってくれるスイカは
この4分の1のスイカをさらに細かく切り分けてある。
それに慣れていたわたしは、目の前に置かれたスイカを見て豪快に感じた。
わたしのスイカにだけは
先が割れているスイカ用のスプーンが一緒に添えてあった。
(あれ、正男のスプーンは?)

「いただきま~す」

なんと正男は、そのまま、かぶりついた。
種ごと食べて、ぷッと種を吐き出す。
お皿に出すつもりの種があたりに散らばる。
その様子を見ていたおばさまが怒った。

「正男! 縁側で食べなさい!!」
(縁側・・・たぶんあそこだ)
「はあい」
正男が間延びした返事をする。

「おねえちゃん、こっちこっち。」
(やっぱりここだ。窓が大きくて、広くって…)

庭に面した、廊下みたいな感じのところ。
ここに来たときに、サザエさんのアニメみたい…って思ってた。
たま、みたいな猫はいなかったけど。

正男がサッシをがらがらと開いた。
「ここからなら、種をプッ、てしてもいいって言われてるんだ」

縁側に足を投げ出しながら正男がにっこり笑う。
わたしも笑い返してスイカを食べ始めた。
わたしはスプーンで種をとりながら切り取るようにしてスイカを口に入れてみた。

 

その91

(うわっ!甘くて冷たくてすごく美味しい)

それにしても大きすぎる。食べても食べてもなくならない。
正男の食べ方は豪快だ。
大きく口を開け、かぶりつく。そして種をぶっ…とを吐き出す。
できるだけ遠くに飛ばそうとするように斜め上に向けて吐き出すのだ。

「あまり飛ばないね。今日は不調かな? おねえちゃんも飛ばしてみたら?」
「そ…そんなことするわけないじゃない。」
「だって、面白いんだよ」

「そう?」(面白くない…)

正男の吐き出した種が地面の上に散らばっている。
「これ、あとで拾うの?」
「ううん、ほっとけば、そのうち土になるから!!」

わたしが半分も食べないうちに正男はすっかり平らげてしまった。
「また、もらってくる!!」
そう言うと正男は、台所の方にかけていった。

その夜わたしは、なかなか寝付けなかった。
疲れてるはずなのに…正男のことを考えてしまう。
振り回されたように思える。でも、かわいい弟ができたようにも思える。

ううん…ちがうかなあ
弟じゃないよね…

わたしはいつのまにか、眠ってしまっていた。
・・・
・・・
(トン・・・トン)
階段を上ってくる足音が聞こえる…
(まだねむい…寝させて…おねがい)

バタンとドアの開く音がする。
  ――どさっ!!
(うっ!!…なにっ?あっ、重っ!!)

何かの重みにわたしは目を覚まされた。
腕と足が、ぐいぐいと布団の上からわたしの体を締めつける。
  (やっ!やだ…、は、はなして!!)

ふっ…と、だれかの息が顔にかかる。
湿ったくちびるの感触がほおに触れる。

その92

――耳もとで正男の声が聞こえる。

「おねえちゃん、おはよう!
     おきなよ? はやく?」

夢うつつで意識がはっきりしないけど、
それは頬をすべり、わたしのくちびるに重ねられる感じが…。
(う…うん…だめ…)
わたしは眠いのをがまんして呼んだ。
「…?正男?」

「おねえちゃん!!
 今日はプールに行くんでしょ? もう起きてよ!」
「うう…今なんじ?」
「もう8時だよ、寝坊なんだから。
 プール、10時からだから、もう起きないと!」

夏休み中に、プールに5回はいかないといけない。
だが、まだ1回も行ってない。 昨日正男はそう言っていた。

(う、ん…わたしがいる間になんとか…行かせなくっちゃ)

「わかった。起きるから、どいて。重いよ」
「わあぃ!やったあ!」
「はやく、どいてよ」

正男は、ずっとわたしの上に乗ったままだ。(もしかしてさっきのは夢・・・?)
「あっ、ごめんごめん」
そう言って、わたしの横に飛びのくと、今度は布団をめくり始める。

「ちょっと何すんのっ!」
「お布団、かたさなきゃ!!」
「わたしが、あげておくから、向こうに行ってなさい。」
「せっかく手伝おうと思ったのに…」

布団の中のわたしは、パジャマを着てるんだけど
この子は、何か、別のことを期待しているような気が…。
(これだけは、気のせいなんかじゃないと思うけど…なあ)
「じゃあ、せっかくだからお布団あげてね。」

わたしは、自分から布団を抜け出した。
旅行に行くと、わかったときに 、
母と一緒に買いにいったお気に入りの黄色いパジャマなのだ。
正男がわたしのそのパジャマをまじまじと見る。

その93

「そのパジャマ、すっごく可愛い」
「う、うん、ありがとう。」

褒められて嫌な気になるわけがない。
日ごろは寝起きの悪いわたしなのに、その一言で、気分よく目が覚めた。

「プールだったよね。」
「うん、10時からだよ。」
「すごく楽しみ!」
「ぼくも! おねえちゃん、プール大好きなんだよね?!」
「うん、だいすき!」

私は運動は大の苦手なのだが、水泳だけは好きだった。
25メートルくらい、しかも平泳ぎでしか泳げないくせにだ。
(うん? そんなんで何で水泳がすきかって?)
暑い日ざしの下で水につかっている、あの感触が好き。
みんなだって、そうなんじゃない?
泳げるとか泳げないとかじゃなく、ただ水に入っているのって嬉しいよね?
だからわたしは、いつでもプールの時期を毎年楽しみにしていた。

「ねえ、学校までどれくらいかかるの?」
「歩いて1時間くらいかなあ。 ううん、もうちょっとかかるかも」
「うそっ、そんなにかかるの!? それじゃ、毎日通うのって、たいへんすぎるね」

「ううん、全然。楽しいよ、途中の道にいろんなものがいるから。

 田んぼとか林の中とか通っていくんだ」
(途中にいる、いろんなものって…)
なんとなくいやな予感がした。
でもそんなに遠いのなら、もう起きて支度をしないと間に合わない。

「じゃあ、起きてご飯食べよう。 着替えて顔洗うから、先に行ってて」
わたしが言うと、正男がばかなことを言った。
「着替えるの?じゃあ見てる~」
「何言ってるの!早く行ってて!!」
「は~い」
油断できないんだからと思ったが、意外にも素直に正男は部屋から出ていった。

 

その94

裸を見られているのに、下着すがたが恥ずかしいのは変だと自分でも思うが
女の子の気持ちはそういうものだったりする。
でもよくよく考えてみれば、お風呂って裸が当たり前だし
やっぱ、お風呂以外で見られるほうが断然恥ずかしいはずよね?!

―――

「学校って、そんなに遠いんですか?
 1時間以上かかるって、さっき正男くんが言ってました」
朝ごはんを食べながらおばさまに聞くと、おばさまは笑った。
「それは、正男が寄り道しながら行くからよ。
 回り道もしてるかもしれないわね。
 普通に歩いていけば30分でつくわ。 ゆっくり歩いても40分みれば十分よ」

(なんてやつだ…)

寄り道して何をしているのかは、こわくて聞けなかった。
正男は早起きしてご飯を済ませてしまったらしく、庭に出てなにかをしている。
見ると、庭の日陰になっている地面をシャベルで掘り返しているようだった。
気になったわたしは、ついつい声をかけてしまった。

「ねえ…なにしてるの?」
「あっ! おねえちゃん…な、なんでもないから!!」
(なんでもないはずないでしょうに…)

そう思ったが、わたしはご飯で忙しい。
プールの時間も迫っている。
食事を早くすませようと、正男のしていることは、とりあえず放っておくことにした。

「あき、水着、自分で入れて持ってきてる?
 お母さんは覚えがないけど」
母が言うので、わたしはうなずいた。
「うん。泳げるところあるかも、って思ったから、持ってきた」

おばさまが話しかけた。
「タオルと水泳キャップを入れておいたわ。学校のプールだから、水泳帽がいるのよ。 」

その95

「あっ! 水泳帽、忘れてきました。」
「きちんと借りられるから気にしなくていいわよ」
「だったらいいんですけど…」

  不安そうなわたしに

「それに、なくたって誰も文句は言わないから。」
「わたし、正男君の学校の生徒じゃないのに本当にプールに入れてもらえるんでしょうか」
「それは絶対に大丈夫。 もう、先生には連絡してあるの。
 正男のいとこの女の子が東京から来てるって。」
「えっ!?」
「大歓迎ですってよ」

(すごい…さすが分校だ)
わたしは、変なところで感心してしまった。

「それと、お弁当はおにぎりをクーラーバッグに入れたから、
 お昼くらいまでなら大丈夫。 あ、暑いから水筒も忘れないようにね」

おばさまは手際よく、持ち物を準備してくれた。
「よしえさん、すみませんね、あきによくしていただいて」
「いいえ、こちらこそ、正男がめんどうをみてもらって」

そう言って、母とおばは笑いあった。

―――

10時からなら、9時すぎに出れば十分だと思う。
でもなにしろ、正男が早く早くとわたしをせかす。
食事もそこそこに、ばたばたと家を出たのは8時半を少し回ったころだった。

「へへっ」
「なによ、変な声だして?」
「うん…なんでもない」
(こいつ、やばいこと考えてるかも…)

正男とわたしは、田舎の道を歩いていた。
あぜ道っていうのか、舗装されていない、田んぼの中の道。

八月の終わりなのに、もう、稲が刈り取られている。
そのことに気づいて、わたしは正男に訊いてみた。
「ねえ…もう、稲刈りって、終わったの?」
正男がそんなことを知っているかどうか…いや正男なら絶対知ってるはず!

その96


「うん終わったよ。
 でも次のやつも、もう植わってるでしょ?みて?」

そう言われて、わたしは、田んぼを見た。

「あ…もしかして、あの緑色の?」

細く伸びて、列を作っている草。
(二期作…っていうんだったっけ)

「これ、十月のおわりくらいに、お米になるんだよ」
「…すごいね!そんなに早く、実るんだ」
「すごくない。これ普通だから。」
「わたしには、すごいことなの…!」

正男のとっては何でもないことでも
都会育ちのわたしには、珍しいことだらけだ。

「そんなことより…おねえちゃん、はやく行こうよ。
 もうちょっと行ったとこに、おもしろいところあるから!」
「プ、プールに行くんじゃなかったの?」
「それはあと!」

これってあせるよね?
だって、正男の言う「おもしろいところ」って…きっと…。

きっと恐怖への耐性強化かも…やだ、そんなの(><)

そういえば、さっき庭でなにかしていたし、それに関係ある?
わたしの顔を見て、わたしが考えていることに気づいたのだろう。
正男が言った。

「おねえちゃん、虫は、それほど好きじゃないんでしょ?」
「好きというより苦手!あの針金みたいな、かぎ爪がダメなの。」
「そっか…でも、今度は虫じゃないから。あっ、もう着いたよ。ね、こっちこっち!」

いつのまにか雑木林の入り口にさしかかっていた。
正男はわたしの手をひっぱり、わたしたちは林の中へ足を踏み入れた。
等間隔に立ち並ぶ木々の間に、
人が二人並んで歩けるくらいの細い道が通っている。

(こういう所、たしか里山っていうんだよね。
 木は一種類みたいだから。…ええと、なんの木だったっけ?)

その97

学校で習った気がするけれど、名前を思い出せない。
青々と葉を茂らせて木陰をつくっているその林の中は、
ひんやりと涼しく、湿った土と草のにおいが濃くたちこめていた。

土のにおいは知っている。

でも、こんなに強く感じたのは初めてだ。
なんだか感動して、思わず立ち止まって深呼吸する。
でも、正男にはいつもの場所みたいだ。めずらしくもないのだろう…。

「こっちだよ」

わたしの手をひっぱったまま、本道(?)の横にある狭い道を入っていく。
その横道は、(たぶん)去年の落ち葉に覆われていて
道ともいえないほどに狭かった。
はじめから知っているのでなければ
到底、見つけるのは無理だと、わたしは思った。
正男はそこをすいすいと歩いていく。
わたしは不安になって、正男に尋ねた。

「ねえ、どこ行くの?」
「ひみつ!」

「寄り道してたら、おくれちゃうよ?」
「だいじょうぶ。見ていくだけだから」

「見ていくって?」
「いいからいいから。もうすぐだから」

わき道はいったん上りになったが、すぐ、かなりの傾斜で下り坂になった。
足を滑らせると下に転がってしまいそう。
つたや木の枝につかまりながら正男についていく。
すでに道とはよべない状況になっている。
(無事に帰れるんだろうか…)

5分ほど歩いたと思う。
急に道がとぎれて、視界が開けた。
そこはがけのようになっていた。と言っても、高さは1メートルもない。

「おねえちゃん、下を見て。
 あ、落ちないようにね」

わたしは足もとを見下ろした。
なにかが、きらきらと光っている…もしかして水?

「かわ…これって、川なの?」

 

その98

正男は、にっこりとうなずいてた。
川幅は、1メートルちょっとしかない。
やはり、小川のようだ。
耳を澄ますと、木の葉のさらさらという音に混じって、
別のさらさらという音…水の音が聞こえる。

水は、朝の日の光をうけて、きらきらと流れている。
チチッ、声が聞こえたかと思うと、パサリと鳥が飛び立つ。
プールの時間のことも忘れ、わたしは何も言わずにそこに立っていた。

「この場所、おかあさんもおとうさんも知らないんだ。
 友だちにも、教えてないんだよ。
 つりする時は、別のところから下りるから。
 なんか、感じのいいところだなって思ってたんだけど…おねえちゃん、気に入った?」

虫が大好きな、やんちゃなだけの男の子と思ってたのに…。
わたしは、ひどく感激して、次の瞬間――
――正男をぎゅっと抱きしめてしまった。

「おねえちゃん、どうしたの?…そんなにきつくしたら苦しいよ」

わたしの腕の中で、正男がわたしの顔を見上げる。
「あ…ごめんね。なんだかうれしくて」
腕の力をゆるめて正男に笑いかける。

「ありがとう…秘密の場所なのに、教えてくれて。
 すごくきれいなところね、ここ…」
「うん、おねえちゃんだけに教えたかったんだよ。
 おねえちゃんがうちに来たときから、一緒に来ようってずっと思ってたんだ」
「そうなの。ありがと…」

ずっとここにいたい気がしたが、プールに行かなくてはいけない。

「ね、帰りもここを通るのよね?」
「うん、もちろん!だから来たんだよ。じゃ、行こうね」

正男はあっさりと言って、またわたしの手をひっぱって歩きだした。

その99

学校が見えてきた。
分校と聞いていたが、意外に大きい。
校舎は木造で、さすがに年代ものって感じだが
それはそれで風情がある…あとで中もみてみたいって思った。

運動場も広い。
わたしの中学校よりも広いくらいだ。
まあ、わたしの場合は都内だから狭いのかも知れないが…。
分校ときいて、ひどく小さな学校をイメージしていたけれど
開校当初は、もっと生徒が多かったのかもね。

正男と二人で校門を入ると、歓声が聞こえてきた。
声のするほうが、プールなのだろう。
その中には、かなり小さいと思われるような子供の声も交じっている。

(知らない人もくる、って言ってたっけ。
 生徒じゃない人も入ってるのかなあ)

わたしたちは、校庭に入った。
小さな塔のようなところに掲げられている時計は
まだ9時半を少し回ったところだ。

「ねえ、10時からじゃなかったの?
 もう、人がいるみたいだけど?」
「うん、10時からだよ。
 でも、先生が早くきてくれれば入ってもいいんだ。
 子供だけだと危ないからってことで、必ず先生もくるんだ。」

「10時よりも早くから入ってる子もいるってこと?」
「うん、ちっちゃな子は水に入るの大好きだから
 先生が来るのを待ってて、入るんだって!」

「正男くんは、すきじゃないの?」
「だって、めんどうなんだもん…」

「もしかして去年…ちゃんと5回行ったの?」
「ううん、一度も行かなかった。」

「それが、どうして、今年に限って?」
「おねえちゃん…プール好きかなって思ったから!」

(ほんとに、それだけが理由だろうか
 昨夜のお風呂での様子を思い出すとなんだか怪しいけど…)

その100

「ねえ?もしかしてだけど…」
「うん?もしかして、なあに?」

「正男くん、泳げないんじゃないの?」
「…か、かけっことかは速いんだよ」

「だれも、かけっこのことなんて聞いてない…」
「だ、だって、プールは足が届くし、泳がなくたっていいんだもん。」

「それって言い訳?」
「ううん…ほんとのこと!」

「だめよ! もし川に落ちたりしたら溺れちゃうのよ。
 かんたんなんだから、ちゃんと泳げるようにならなきゃだめ。」
「そんなこと言ったって…」

ひどく自信がなさそうだ。
やんちゃな正男しか見てなかっただけに
なんだか面白くて、わたしは思わず笑い出しそうになった。

(ここで笑っちゃ傷つけちゃう…でも、面白い…むぷぷっ)

「一緒に練習しよう。
 手も引っ張ってあげるからねっ!」
「う、うん、わかった。」

プールに近づく。
さっきより、歓声が大きく聞こえてくる。
きっとみんな、この近くに住んでいるんだろう。
それにくらべ、わたしは、まったくの部外者。
そう思うと、やはり気が引けてきた。

「いいのかなあ、わたしなんかが入っても…」
「だいじょうぶだよ。ね、行こう?」

ためらうわたしの手を、正男が引っ張る。

(そういえば、更衣室、あるんだろうか)

わたしの中学でも、夏休みには何回か学校のプールに行かなくてはいけない。
わたしはいつも水着を服の下に着て登校する。
その方が、着替えが早いからだ。

でもそれは、わたしの中学までは家から歩いて5分くらいだから。

今日は、水着は着けてきていない。
肌にぴったりくっつく水着を着て、
30分も40分も歩いたら…暑すぎて、泳ぐ前にばてちゃうと思ったからだ。