その51
「だったら・・お風呂、先でもいいですか。」
「もちろんよ。」
おばさまの好意を無駄になんてできない。
わたしは、おやつを口に入れようとしている正男の手を掴んだ。
「まだ、だめよっ」
「うん? おなかすいたのに・・」
「さっき、朝ごはん食べたばかりでしょ?」
「あれはあれ・・これはこれ・・・」
「だめっ! まずは綺麗にしなきゃだめよ。
わたしが、洗ってあげるから・・一緒にお風呂っ!!」
わたしは、正男の手を引っ張って立たせた。
「このこ、お風呂が嫌いなのよ。」
「そうなんですか?」
「いつもからすの行水だし」
「からすの行水?」
「湯船にすぐに入って、すぐに出てくるの・・その間、1分」
「えええぇぇぇ・・・たったの1分?」
「そうなの・・ただ、お湯に一瞬入るだけなのよ」
「そうだよ。 ぼくみたいな、お風呂の入り方をカラスの行水って言うんだって!」
(そんな言葉、初めてきいた・・というか、ありえない)
わたしは、おばさまに、おそるおそる尋ねた。
「髪やからだは、洗わないんですか。」
「たぶん、1週間に一度ぐらいは、洗ってそうだけど・・・。」
わたしは、あまりの事実に言葉を失った。
正男、こんなやつに、わたしの大事なファーストキスを。(かえせ、もどせ・・かえせ!)
「正男君って、そんなにお風呂が嫌いなんですか?」
「まあ、決して好きとは言えないわね。」
そう言いながら、おばさまは、笑っていらっしゃる。
(さ、さすが、おばさまだ)
その52
ここまで話が進んだところで、正男が偉そうに反論した。
「いや・・母さん、一週間じゃないよ。
だいたい・・・5日おきくらいには洗ってるって!」
(なんなの、こいつ!)
これは、根本的に間違っている。
わたしが、いるうちに、鍛えなおさなくちゃ。
「おばさま・・まさおくんも、洗い上げますから!」
「申し訳ないわね・・あきちゃん」
「いいえ、まかせてください。」
こんな話を聞いて、放っておけるはずがない。
たとえ、正男がどんなに嫌がろうと、絶対にぴかぴかに洗い上げようとわたしは思った。
「じゃあ、あきちゃんたちがお風呂に入ってる間に
このゴミ袋やバケツを片付けておきますね。お部屋の掃除もしたいし・・。」
「はい、お願いいたします。 では、わたしたち・・お風呂に入ってきます。」
わたしは、おばさまに頭を下げると
正男の手を引いて、お風呂場に向かった。向かいながら、わたしは正男に話しかける。
「ねえ・・ほんとに、お風呂が嫌いなの?」
「ううん・・嫌いじゃないけど・・ひまなんだもん。」
「ひま?」
「うん、お風呂の中って、何もすることないし・・」
「からだや髪を洗ったり・・色々することあるでしょ?」
「そうだけど・・洗わないと、ひまだよ。」
「そ・・そうかもね」
妙なところで納得させられる。
やばい・・こいつの調子に乗せられてしまいそうだ。
話しているうちに、お風呂場についた。
すでに、わたしの下着も用意してあった。(うっ、準備よすぎだ)
なぜか正男のぶんは、見当たらない。
わたしはその自分の下着を正男の目に触れないように、すぐにタオルで隠した。
その53
勢いで、洗ってあげると言ったけれど、よくよく考えれば、とんでもないことよね・・。
でも、考えたって始まらない。
なにしろ、あの虫ややもりの死骸・・・。
そして、1年以上も放ってある埃だらけの机を掃除したんだし。
からだに何かついてる気がして、このままじゃ、気持ち悪いんだもん。
正男は、もう脱ぎ始めている。
「あっ! 待って!!」
「うん?」
正男が先に入ると、多分・・・
からだを洗わずに、そのまま湯船に飛び込むはず。お湯も汚れるし、それじゃ意味がない。
「わたし、先に入らせてくれる?」
「・・・一緒じゃだめなの?」
正男が、悲しそうな顔をした。
わたしが、一緒に入るのを嫌がっていると勘違いしたみたいだ。
「ううん、一緒に入るのよ。
でも、わたし、先に入って、からだを洗いたいの。
洗い終わったら、呼ぶから・・入ってきてくれる?」
「うん、わかった。」
正男の顔が、ぱっと明るくなった。
シャワーをひねった。
湯加減を調整して、からだにかける。(気持ちいい)
スポンジにボディーソープをつけながら、ふと、正男のことを考えた。
(あの子、大丈夫かしら)
遊び好きで、待つことが苦手そうな・・あの子。
待ちきれなくて、外に行ってしまったらどうしよう。(そんなの、だめよ。)
わたしは、髪から先にあらうことにした。
いつもは、からだを先に洗うのだが、正男を、あまり待たせるのも可哀想だし
なにより、あいつのことだから・・いなくなっちゃうかも。
どうして、髪を先に洗うのかって?そんなの決まってるでしょ。
だって…。
その54
だってシャンプー中は、目を開けられないんだもん。
じっと覗かれててもわかんないでしょ。それって・・やっぱ、恥ずかしいし(照れ)
からだ洗うときはいいのかって?
後ろ向きで洗うから、大丈夫なはず。
それに、あれだけの虫やトカゲを見たあとだったから
正男が、女の子のからだに興味をもっているとは思えない気もしてた。
(でも、それってわたしに失礼よねっ)
だけど、あの年頃の男の子って、女の子より虫の方が好きなのかも。
そこまで考えたあとで、おじさまから聴いた言葉を思い出した。
『で、正男は、この2週間の間、毎日あきちゃんの写真を見てた。
要するに、今日をすごく楽しみにしてたというわけだ!』
それと、おばさまの言葉も・・。
『こんなに可愛いひと、初めてみたって、正男、感動してたしね!』
うん? ちょっと待ってよ。
ということは・・・やっぱり、正男は、わたしに会いたいって思ってたはず。
わたしに興味を覚えて、楽しみに待ってたはずなのよね?!
だんだん、正男をめぐって、虫と競争している気がしてきた。
ありえない・・虫に負けちゃうなんて(涙)いやいや、わたしの考えすぎだ。
色々あったから、知らず知らず正男のことを意識してるだけよね・・きっと。
なんてことを考えているうちに、わたしは髪を洗い終えた。
からだも洗いたいけれど、わたしのは後回し。やっぱり、ここは、正男の番だ。
おばさまの話をきいたぶんには、正男が丁寧に、からだを洗うとは思えない。
ということは、どんなに嫌がったって、わたしが正男のからだを洗ってあげなくては!
その55
わたしは、脱衣所の方に呼びかけた。
「まさおくん。まさおくん・・・」
返事がない。 (まさか)
わたしは、もう少しだけ大きな声で呼びかけた。
「まさおくん・・・まさおく~ん!!」
やはり返事がない。 (逃げた?)
ほかの子ならまだしも、正男なら十分にありえる。
あのこが、じっと待っていると思ったわたしが、甘かったようだ。
わたしは脱衣所のドアを開いた。(うっ! ほんとにいない)
見渡しても、影も形もない。
もう一度、呼んでみたが、やはり返事はなかった。
――しょうがないわね・・。
あきらめて浴室に戻り、からだを洗おうとしたとき!
タタタッと廊下を駈けてくる音が聴こえた。
脱衣所のドアが開く。正男とわたしの視線が合った。
(うっ、今のは、完全に見られた・・)
わたしは、あせってしゃがみ、胸を手で隠した。
そして動揺を抑え、平静を装って正男に話しかけた。
「もう、どこに行ってたのよ。」
「おなかすいたから、おやつ、食べてきた!」
「もしかして・・ぜんぶ?」
「ううん、お姉ちゃんのぶんは、残してきたよっ」
「そう・・ありがと!」
「えへへ、あとねっ ぼくの着替えも持ってきたよ。」
今度逃げられては、おばさまに申し訳が立たない。
髪も洗ったことだし、ここは正男もお風呂に入れなくちゃ。
「そっか、じゃあ、一緒に入ろう。
はやく、きてねっ!」
「うん!!」
正男は、また、いそいそと服を脱ぎ始める。
わたしは先に中に入り、正男を待った。
――ガラガラガラッ
浴室の引き戸が引かれ、正男が入ってきた。
その56
ちょっとだけ恥ずかしそうに、下を隠している。
どうどうと入ってくるかと思っていただけに、意外な反応だった。
「じゃあ、お風呂入るね」
そう言うとお湯もかけずに、そのまま湯船をまたごうとする正男。
「ちょっと待った!!」
わたしは、正男の腕を引っ張る。
「うん?」
「うん・・じゃないの。 まずは、からだを洗ってからよ。」
「先に入りたい。」
「だめよ・・そんなの絶対ダメ!」
「なんで・・なの?」
「お湯が汚れちゃうからよ。 このお湯、正男くんだけが入るの?」
「ううん、みんなが入る。」
「そうでしょ。わたしもまだ入ってないのよ。」
「えっ・・・まだ入ってないの?」
「うん、髪洗ってたし、それに、まだからだを洗ってないもの。」
「全部、洗ってから・・入るの?」
「もちろん、そうよ。」
「そっか・・」
「うん! じゃあ、わたしが洗ってあげる、ここに座って!」
わたしは、椅子を、軽く叩いた。
正男が、そこに腰掛ける。
わたしは、正男の後ろに回り込み、スポンジにボディーソープをつけた。
「ぼく、自分で洗えるよ。」
「いいの。わたしにまかせて。きれいに洗ってあげるから」
なにしろ、あの大掃除をしたばかりなのだ。
正男にまかせては、どんな洗い方をするか、わかったもんじゃない。
ここは、やっぱ、わたしが、頑張らなくっちゃ。
まずは、シャワーを正男のからだにかけていく。
突然、正男が私のほうを振り向いた。
無防備なわたしの胸が、正男の顔面の前にあった。
「だめよ!」
その57
わたしは、正男の頭を無理やり向こうにむかせる。
後ろ向きにされた正男が、ぼそっと言った。
「お姉ちゃんの、見えちゃった。」
「わかったわよ! でも、見えちゃったじゃなくて、見たんでしょ?」
「うん」
正男が、嬉しそうに返事をする。
もう、このこったら、ほんとにしょうがない。
「洗い終わるまで、もう、こっち見ちゃだめよ。 見たら、わたし、出ちゃうからね!」
そう言いながらも、わたしには出るつもりはない。
何が何でも正男を綺麗にしたかったし、自分のからだも、まだ洗ってないんだもん。
シャワーはもう十分かしら。
背中をさわると何かべたべたする感じがする。(どれくらい洗わなかったらこうなるの?)
もしかして、まだ流し足りない?
再度シャワーをかけ、もう一度、正男の背中を手でさわってみた。
べたべたが、ぬるぬるになった。
「ね? からだ、石鹸で洗ったの、いつごろ?」
わたしは、さっきの正男とおばさまの会話を思い返していた。
「ええっと・・・」
正男が、指を折り始める(おいおい)
「5日くらい前?」
「ううん、もっとまえ・・」
「じゃあ、一週間くらい?」
「うーん、10日くらいまえだと思う」
わたしは、もう驚かなかった。
そんなことだろうと思っていたし、一応、洗ったことがあるだけでも、よしとすべきかな。
「でもね! お風呂には毎日ちゃんと入ってるよ。」
正男が自慢げに言う。
「あのね・・お風呂は毎日入るものなの!」
「だって、めんどうだよ。」
「気持ち悪くなったりしない?」
「ううん、ぜんぜん・・」
わたしは、あきれを通り越して気が遠くなりそうだった。
その58
正男のからだをさすりながら、ふと思った。
この子、意外に肩幅広い。やっぱ、男の子なのね・・。
「じゃあ、石鹸つけるわよ。」
「うん・・」
照れたように返事を返す正男。その背中をスポンジでこすりはじめる。
(なにこれ、泡が全然たたない)
わたしは、大量のボディーソープをスポンジに追加した。
「いたいよ、お姉ちゃん」
「すこしくらいがまんするの! はい、腕をあげて」
「うん。ばんざ~い」
正男はすなおに両腕を高くあげた。
こういうところ、すごくかわいい。
わたしは自分の胸が正男の背中に触れないように気をつけながら
腕を伸ばして正男の脇と、おなかをこすった。
「くすぐったいよ。ははは・・・」
正男が体をよじらせる。
「こら、うごかないの!」
泡がすぐに立たなくなる。
わたしは何度もボディーソープをスポンジにこすりつける。
「はい、立って。ひざのうらもきれいにしなくっちゃ」
正男を立たせ、腰から下にむかってこする。(ふふっ、おしりがちっちゃい)
ひざも、正男の足を片手で支えながら、うしろから洗い上げる。
「今度は足をあげて。」
「はあい」
正男はひざを曲げて、右足を前に出そうとした。
「ちがうの、前にあげるんじゃなくて、足の裏をわたしに見せるの。」
湯ぶねのへりに手をかけて体を支えながら、正男はひょいと足をうしろに出した。
「これでいいの?」
「そうそう、それでいいのよ」
(なんか・・・黒い。洗ったこと、あるんだろうか)
かまわず、ごしごしとこすると、正男が身をよじった。
その59
「あはは・・・もういいよお。」
「がまんしなきゃだめ!」
よほど、くすぐったいのか、まさおの足が、ぴょんぴょん動く。
わたしは、くすぐりには、ひどく弱い。
自分がされるのは絶対いやなのに正男がくすぐったがる様子をみるのは、なんだか楽しい。
(わたしって・・もしや?)
「きれいになったから」
「足の指の間がまだよ」
なんとか足まで洗い終わると、まさおが下を向いて言った。
「おねえちゃん・・・ここだけ洗ってないよ」
「・・・そ、そこはね」
(うっ! どうしよう)
そこまで洗ってあげるのはやっぱり恥ずかしい。
正男がたたみかけてくる。
「洗わなくてもいいところ?」
「そんなことあるわけないでしょ。 そこもきれいに、しなくちゃいけないところよ。」
(やばい・・わたし大ピンチ?)
そうは言っても、どうしよう。
それに…スポンジでごしごし洗っていいかどうかもわからない。
男の子にとっても大事なところだろうし・・これは困った。
そのとき、芳江おばさまの顔が浮かんだ。
『この子、ほんとにお風呂が嫌いなのよね』
やはり、洗わないわけには、いかない。
仕方ないか・・。
そこまで考えて、ふと思った。
待てよ…。
洗ってあげるのは別にかまわないとしても
まさおが、そのことを嬉しそうに、みんなに話すかもしれないよね。
(それって困る、いくらなんでも、恥ずかしすぎる)
「まあ、そこまでしてあげたの?」
みんなから冷やかされる様子を想像して、わたしは赤くなった。
(だめだ…やっぱ、洗えない)
「もうお風呂に入りたいよう」 と、正男が飽きたように言った。
(わたし、絶対絶命?!)
その60
困りながらも、とりあえずわたしは言った。
「まだ、だめよ! そ、そこも、きれいに…あらってからでないと。」
「そうなの?」
「あたりまえでしょ」
「じゃあ、洗って。
ここって、あんまり洗ったことないんだ。
こするとちょっと痛い感じだし」
正男の声には、邪気は感じられない。
(あんまり洗わないって?
それってよくないんじゃないの?
ちょっと待って・・・あ、そうなのか)
あんまり洗ったことがないって・・・
本人が「そこ」をまだ意識したことがないってことかも。
(よし) わたしはひとりでうなずいた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「そこはね、大事なところだから、スポンジでこすっちゃいけないのよ。
それとね、そこは自分で洗うところよ。いつもきれいにね…はい、せっけん」
うしろから正男の手をとって、せっけんを持たせた。
「よくあわをたてて、自分であらってね」
「うん、わかった」
(よかった。言うこときいてくれて)
それにしても、久々の大あせりだった。
わたしはシャワーの温度を下げて、火照った顔に、ざっとあてた。
正男は立ち上がったまま、下を向いて「そこ」を洗っている様子だった。
「ちゃんとあらったよ」
「じゃあ、流すね。座っていいよ」
まさおの背中から、湯を洗面器ですくってかける。
「なんかすっきりした感じがするよ、お姉ちゃん」
「そうでしょ。ほら、背中がきゅるきゅるよ。さ、次は髪の毛よ」
「一回お風呂に入りたいよ…」
うんざりしたように正男が言った。
正男は洗いなれてないのだろう。たったこれだけ洗っただけで疲れたようだった。
その61
「うん、頑張ったもんね。
じゃあ、入ってもいいよ。 だけど…」
「なに?」
「お湯にもぐったりしないでねっ!」
まだ洗っていない、ばさばさした正男の髪。
それがお湯につかったらと思うと…ううん、想像もしたくない。
「うん、わかった。」
正男は湯船をまたぐと、そのままざぶんと湯船に飛び込んだ。
お湯のしぶきが上がる。
「わ~い、気持ちいいよ! お姉ちゃんも、一緒に入ろうよ!」
「だめ!わたし、からだ洗わなくちゃ。」
からだを洗わないと湯船に入れない。
わたしはスポンジにボディーソープをつけて泡立て体を洗い始めた。
なんとなく正男の視線を感じる・・・でもそれは考えないことにした。
わたしはもう、正男に背を向けてすわっているから
たぶん大丈夫だ・・・ろう。
鼻歌をうたっていた正男が、ひまそうな声で言った。
「ねえ、ぼくが洗ってあげようか?お姉ちゃん・・・」
(なにを言い出すのよ)
「お姉ちゃんも、ぼくを洗ってくれたでしょ?
だから、お返しで!」
(こいつ・・・やっぱ?)
でも、ここでうろたえてはいけない。
わたしは平静を装って言った。
「じゃあ、背中流してくれる? ごしごしって」
顔だけ振り返って正男にスポンジを渡し、
後ろ向きで椅子ごと、わたしは湯船のほうにいざった。
正男が、湯につかったままで…こすれるように。ところが、スポンジを受け取ると同時に
「うん! これでごしごしすればいいんだね!」
正男は、ざばっと湯船からあがり、わたしの背後に回った。
(えっ・・・そんなに近づかないでよ。 ・・・あっ、くっつかないで!!)
その62
かまわず正男は、わたしのうしろから首に手を回して
自分の胸とおなかをすりつける。
「わあ、お姉ちゃんのせなか、すべすべ~」
(ど、どうしよう・・・ いや、ここはぴしっと言わないと・・・
・・・あっ、やだっ、胸さわらないでっ!!)
焦ってわたしは正男に言った。
「ちょ、ちょっと。
あ・・・あそんでないの!ちゃんと洗ってよ!!」
「ふふふっ! わかってるよ。」
正男はまじめに、わたしの背中をこすり始めた。
(大丈夫かな・・・この子)
不安を感じつつ、わたしは正男に背中を預けた。
が・・・
10秒もたたないうちに、手が止まった。
(うっ・・・やっぱりなんか思いついたか)
構えるわたしに、正男が言った。
「ねぇ、お姉ちゃん・・・」
どこか甘えるような口ぶりに警戒しつつ、わたしは聞いた。
「なあに?」
「ねえ・・・お姉ちゃんは、前の方は洗ったの?
ぼくの体も洗ってくれたんだもん、洗いっこしよ、ね?」
(・・・)
頬が熱くなる。
この年ごろの男の子が、女の子の体に興味があるのはわかってる。
でも・・・ここでうろたえちゃだめ!
わたしは正男にきっぱりと言った。
「ううん、自分で洗うから大丈夫。
だから向こうむいててね。
わかるでしょ?恥ずかしいのよ。体の前・・・見られるのって」
「ふ~ん、そお? まあいいや」
正男は残念そうな口ぶりで言うと、また背後でざぶんという音をさせた。
(こんなに何度もお湯に入ったり出たりして、疲れないのかしら。
でもじっとしてられないのね、きっと)
その63
(でも…もう少しだから、じっとしててね)
心でそう祈りながら、わたしは、からだを洗い終えた。
そして、シャワーで流し、背中を向けたまま正男に言った。
「ね? まさおくん、そろそろ髪洗おうよ。」
「まだいいよ。 おねえちゃんもお風呂に入ろう。」
ちらっと後ろを振り返る。
湯船のふちにあごをのせ、こちらをみている正男が、にっこりと笑う。
「あとになって、やっぱり髪の毛はいいよ…なんて言わないでしょうね。」
「うん、言わない~。」
とりあえず、信じてあげよう。
わたしも、ちょっと疲れたし、のんびりお湯につかりたい気もしてた。
「ちょっと、向こうをむいててね。わたしも入るから…」
「うん」
わたしは、前を隠しながら湯に入った。
「あ、ずるい! また、タオル持ってる。」
「わたしのタオルは、きれいだからいいの。文句言わない!」
「ぶう・・・・」
正男は、ほんとうに、がっかりしているようだ。
(そう簡単に、見せるわけないじゃん)
昨日も驚いたけれど、ほんとうに湯船が広い。足を目いっぱい伸ばすことができる。
わたしは目を閉じて、からだの力を抜いていた。
(すごく気持ちいい)
「飽きちゃった…もうでる!!」
突然、正男が、わがままを言い出した。
「待って! まだ髪洗ってないでしょ?」
「お姉ちゃん、寝ちゃうんだもん。」
(うっ!)
のんびりできるところがお風呂なのよ…と言いそうになったが
正男に、通じるはずもない…。
あまりにも、気持ちがよすぎて
正男が、大のお風呂嫌いだということを忘れていたのだ。
「それに…」
正男が、何かを言いかけた。
その64
「なあに?」
「おねえちゃん、タオルで隠してるし…」
「うん?」
「お…お っぱい…」
「あたりまえでしょ。
おんなのこは、前を見せちゃいけないの。」
「ほんと?」
「うん、ほんと。学校で習ったはずよ。」
「…し、知らなかった…」
正男が、感心したようにつぶやいた。(よし、うまくごまかせた)
せっかくだし、このまま勉強の話にもっていこうかなあ。
わたしは、正男の目を見ながら話しかけた。
「正男君は、分数が苦手なのよね?」
「うん・・すっごく苦手!」
「わり算は、できるの?」
「うん、それはできる。」
「じゃあ・・20÷4は」
「5!」
「120÷3は」
「4!」
「うん?」
「あっ・・40!」
「うんうん、すごい」
「計算は得意なんだ。そろばん習ってたから。」
「そうなの?」
「うん!」
「何級までいけたの?」
「4級だよ。5年のときに4級まで取れたんだ。」
「すごい! 4級ってなかなか大変なんでしょ?」
「いや、それほどでも…」
正男が謙遜するなんて珍しい。
「3級への挑戦は?…あきらめちゃったの?」
「頑張ろうと思ったんだけど…暗算が難しすぎるのと
商工会議所ってところまで、試験にいかなきゃならないんだ。」
「そうなの?」
「うん! だから、めんどうになってやめちゃった。
ねえ?おねえちゃんも、そろばんやったことあるの?」
「うふっ。あるわよ!」
「えっ! そうなの? おねえちゃんは、何級?」
「3級よ!」
「うっ…負けた」
がっくりする正男をなぐさめる。
「4級も3級も、かわらないって!!」
「そっかなあ…」
その65
「うん。それにね…
覚えておくだけで、すごく便利な計算もあるのよ。」
「そうなの?」
「うん、たとえばね…1の位が5になる数を2回かけるとき」
「1の位が5?」
「35×35みたいな計算のことよ。暗算できそう?」
正男が、指を折り始める。
「ええと…まず175だ。これは…ここにおいといて…」
そう言うと、正男は両手でボールを持つような仕草をした。
わたしの右の胸を、その手で、ぽんぽんとさわる。
「きゃっ!」
わたしは一瞬身をひき
なにすんのよ、と言いかけたが正男は真面目な顔で考えている。
「つぎに…5をかけるから…45だ。」
今度は、その45を、わたしの左の胸に…またも、ぽんぽん。
(も、もうっ。ふざけてるのか真剣なのか…)
「で、それをたすんだよね…17+45だから…62…」
わたしは、だまって聞いていた。
「わかった。625だ!!」 自信満々の正男。
「ちがうわよっ」 わたしは、冷たく言い放つ。
「いや、あってるよ!」 正男は、引き下がらない。
「こっちの45が、まちがってるの」
わたしは、左の胸を押さえた。正男が目を丸くする。
「35×35だよね…あっ! 105だ!!」
「とりかえるわよ…この45はすてて、かわりに105。」
わたしは、またも左の胸を押さえた。(なんなのよ…この勉強)
「105と17だね…ええと…122だから最後に5をつけて1225!」
「うんうん、すごい。それで合ってるよ。」
正男は、褒められて嬉しそうだ。
「でも、ミスもしたし、時間もだいぶかかったわね。」
「それは、仕方ないよ…なにしろ2ケタだもん。」
その66
「と、思うでしょ?」
「うん、思う、思う! 2ケタどうしは難しい!!」
正男が、激しくあいづちを打つ。
「ところがね…この計算、1秒でできるのよ。」
「えっ? 1秒?」
「うん、1秒」
「たったの1秒で?」
正男は、ちょっとだけ考え込んで言った。
「どうせ、すごく難しいやり方なんでしょ? ぼくには、どうせ無理!」
その言いかたに、わたしは、ちょっとだけむっとした。
「なんで、聞く前から、決め付けるわけ?
なんだって、やってみなきゃ、わかんないでしょう?」
わたしが機嫌を悪くしたことに気づいた正男はあわてて謝った。
「ごめんなさい。ちゃんと聞くから…」
すぐに素直に謝られると逆にくすぐったい。一瞬で、わたしの機嫌は治った。
「うんうん、いい子ね…それじゃ、教えるわよ」
「35×35だけどね…まず、3と…3よりひとつ大きな数をかけるの。」
正男は、黙って聞いている。
「3の上の数は4でしょ?」
「うん」
「3と4をかけたら?」
「12だ」
「その12の後ろに25をつけるの。12と25だから…1225」
「うーん。よくわからない。」
「別の数字で説明するね。」
「うん」
正男は、一生懸命聞いている。
「65×65でやってみるわ。
6×7=42 その 42 の後ろに 25 をつけるから 4225!」
「す、すごい!」
正男にも、突然、わかったようだった。
「じゃあ、問題よ。」
「うん、まかせて!」正男の目がきらきら光った。
「85×85は?」
「八九72だから 7225?」
「うんうん、そうよ。」
「おもしろい…もっと問題だして!」
その67
「55×55」
「30と25で、3025」
「75×75」
「56と25で、5625!」
「95×95」
「9×10=90だから、9025だ!」
正男は、自信を持って答えた。
「簡単でしょう?」
「うんうん、簡単だ。おねえちゃんって頭いいんだね。」
「ううん、そんなことないよ。 ただ、やり方を知ってるだけ。
覚えるだけで、誰だってできることなの。」
正男は、ひたすら感心している。
「じゃあ、分数を始めるわよ。」
「う…うん。」
分数と聞いて、正男の声は、急に不安そうになった。
「大丈夫よ。 まさおくんなら、絶対、大丈夫!」
「……」
「5分の1ってわかる?」
「うん、わかる。」
「どういう意味なの?」
「5つに分けた1個分」
思ったとおりの答えが返ってきた。
「5分の2は?」
「5つに分けた2個分」
正男は自信満々で答えてくれる。
なんだか楽しくなってきた。
「すごい…じゃあ、レベルアップするね」
「5分の1と5分の2は、どちらが大きいの?」
「それは、5分の2」
「なんで?」
「だって、5分の1の2倍が5分の2だもん。」
「ほんとに、ほんとなの?」
「うん、絶対に、5分の2の方が大きいよ。」
「それじゃ、よく聴いててね。」
「うん」
正男が、きらきらした目で私をみた。
(かわいい)
「じゃあ、5分の1と5分の1は、どちらが大きいの?」
「同じ大きさ…だと思う。」
「絶対?」
「うん…絶対!」
「ほんとにほんとに?」
「うん、ほんとに、ほんとにだよ」
「そっかなあ?」
わたしが首をかしげたので、正男は不安な顔になった。
その68
「もしかして・・ちがうの?」
「同じときもあるし、ちがうときもあるのよ。」
「うん? どんなとき、ちがうの?」(やった…正男、興味を持ってくれたみたい)
「それはね…」
「それは?」
「お風呂出たら、教えてあげる。」
「ええっ…ずるい!!」
「ずるくない。」
「じゃあ、すぐ、出るっ!」
ちょっと待った。
やる気になるのはいいんだけど…大事なことを忘れてるんでは?
「ねっ?その前に、何かやることなかったっけ?」
「ううん、なんにも!!!」
(こいつ、わざとしらばっくれてる!)
「髪の毛!」
「……」
「洗うんじゃなかったっけ?」
「あっ! それ、また今度でいいよ。」 (うっ、あっさりと…)
「ダメよ。せっかく体がきれいになったんだから…それに…」
「うん、なあに?」
「髪、洗わないでいて、痒くはならないの?」
「ううん、別に…」
そう言いながら眉毛をよせて、なぜだか頭に気を集中させようとしている正男。
「どうかしたの?!」
「それがね…」
正男が、困ったような声をだした。
「うん?」
「なんだか、頭がかゆくなってきちゃった。」
「そうなの?」
「うん、いつもは、こんなことないんだけどなあ…」 (なるほど…わたしは、ぴんときた)
「それってね…ゆっくりあったまったからよ。」
「そうなの?」
「そうよっ。いつも以上に汗もかいて、だから、かゆくなったの。」
「…なんだか、気持ち悪い」
そう言いながら、頭をぼりぼりと掻きはじめる正男。 (や…やめて><)
「じゃあ、出なさいね。洗うから!」
その69
ざっと、正男が湯ぶねから上がる。
正男の背後からわたしも上がり、正男の後ろに回って椅子をゆずった。
「はい、どうぞ」
すとんと正男がすわる。
わたしはシャワーの栓をひねり、湯加減を確かめて正男の頭にかけた。
お湯をかけられた正男の髪は異様な匂いをさせた。
だがそれは、決していやなにおいではなく、
日なたと、ほこりと汗のまじったような、どこか懐かしい感じのするにおいだった。
(髪の毛って洗わないでいると こんなにおいになるのね。知らなかった)
正男はシャワーをかけられながら、頭をかきむしった。
「うわ~、なんかひさしぶりな気がするよ。・・・かゆっ!かゆいよぉ、おねえちゃん」
「そうでしょ? この汚れかたじゃ、
2度洗いくらいじゃだめかもよ。覚悟してね」
ばさばさしていた髪は、水気をふくんでべたべたになってきた。
(この前洗ったのはいつなのか…は聞かないでおこう。こわすぎる)
シャンプーを手のひらにとり、正男の髪をあわ立て、地肌をこする…
が、泡はすぐに消えてしまった。
(なにこれ…どれだけ汚れてるのよ。しょうがないわ)
「一回流すわよ、目つぶっててね」
「えぇっ、もうおしまい? 早いよ~。まだかゆいのに」
「ちがうの、泡が立たないのよ。流したらもう1回よ」
流し終わっても、髪はまだまだべたついている。
シャンプーを多めにして、2度目はまずまず泡がたった。
指先に力をこめて、頭のてっぺんの地肌をこする。
「う~ん、気持ちいい~! あっ、そこもかゆいよ」
その70
「ね、気持ちいいでしょ、髪の毛洗うのって。
毎日洗おうね、そうすればこんなに時間かからないし」
「うん!毎日洗ってね、おねえちゃん」 (それは、ちがうって!)
正男が下を向いているため、頭の前の方は背後からでは洗いにくい。
(目、開けられないから、前にまわっても大丈夫よね…)
わたしは正男の前に移動して、額から指を入れ、髪をこすり始めた。
そこは皮脂が残っていたのだろう、また泡が消えかけてきた。
「また流すわよ。それで、もう1回ね」
「ええっ、もうそんなにかゆくないよ。流したらそれでおしまいでいいよ」
「だめ、まだべたべたするところがあるの!」
また正男の頭にシャワーを浴びせかける。
「顔もかゆくなってきちゃった」
シャワーをかけられながら、正男は顔をこすった。
「はいせっけん。これで顔を洗ってね」
私は正男の手にせっけんを握らせた。
「うん」
3回目のシャンプーを出し、正男の前から髪を洗う。
正男が目を開けている様子はないし、前からの方が洗いやすい。
さすがに、3度目ともなると泡もきめ細かく立ってくれる。
「はい、じゃあ、流したら終わりよ」
「うん!やっとおしまいだね」
流し終わると、わたしは再び正男のうしろに回り、背中をぽんとたたいた。
「どうする?もう1回お湯につかる?」
「うん!」
「ちょっとうしろむいててね、わたしも入るから」
「うん」
わたしが前を隠しながら湯につかると、正男がにっこりして言った。
「えへっ! しっかり見ちゃった。」
「うん?…何のこと…?」
(ああっ! この子、目をあけてたんだ)
その71
正男がしきりに目をこすっている。
それに気づいて、わたしは正男の手を取り、顔をのぞきこんだ。
「ちょ、ちょっと!こっち見て!目、赤いんじゃないの?」
やっぱりそうだ。正男の目は真っ赤になっていた。
石鹸が目に入って沁みただろうに、なんて、ばかな子なんだろう。
「もう、ほんとに、しょうがないわね。」
「だって、お姉ちゃん…隠してて、見せてくれないんだもん。
ぼく、見たかったんだよ」
わたしはあきれたが、それよりも目を洗うことが先だ。
「目が痛いでしょ?早く洗うのよ!」
「はあい!」
正男は、お風呂のお湯をすくって目を何度も洗った。
「うっ…沁みるよう…」
「あたりまえでしょ。」
湯船のお湯だけではだめなような気がして、
わたしは、洗面器に水道の水を満たして正男に差し出した。
「ほら、これで綺麗に流して。石鹸残ると、目が溶けちゃうわよ」
「えっ? ほんと?」
「うそよっ」
「ひょえ!!」
「でも、せっけんが目に入っちゃって、痛いでしょ?
いいって言うまで洗いなさい!」
「う、うん。わ、わかったよ」
正男は洗面器に顔をつけ、目をぱちぱちとさせているようだ。
しばらくすると、ざばっと顔をあげて言った。
「はぁっ!もう大丈夫だよ、おねえちゃん。痛くなくなったよ」
「うん。よかったね。まだ目が赤いかな…」
正男の目に指を触れて、まぶたを確かめていると、
正男がとんでもないことを言い出した。
「ね、あのね、おねえちゃん。見えたの…おねえちゃんの、黒いの…」
( ――くろい? え、やだ…うそっ!)
わたしはぱっと、正男から飛びのいてタオルで体をおおった。
その72
「なんで見るのよっ!!」
「だって、見えたんだもん!」
(このぉ…わるがきっ!!)
「なに考えてんのっ!!
見ていいなんて、言ってないでしょっ!」
わたしは思わず、正男の頭を抑えてお湯の中に沈める。
あせった正男の手が、わたしの胸をつかんだ。
(あっ!な、なにすんのっ!)
わたしは、ますます正男を沈める。
正男がお湯の中で暴れた。やっと首を出して言った。
「ううっ! 死んじゃうよ!!」
「いっかい、しんだほうが、いいんじゃないの!」
わたしは半分本気で怒っていた。
無邪気なふりして、しっかりわたしの体を観察してる正男。
なんだか腹がたっていた。
でも、ほんとはわたしのせいなんだ…
どっかで、この子を挑発するようなことを言ったりしてたのかも。
ふっと、腕の力がゆるんだ。
広い湯船の、少し離れたところに、正男はぱっと身を引いた。
そしておずおずとわたしに聞いた。
「…もしかして、怒ってる?」
なんだか、すがりつくような視線がわたしに向けられる。
(うっ、この眼に弱いのよね…)
わたしは息をついて、
湯船のもう一方のはしに体をもたせかけると正男に言った。
「あのね、別に怒ってるわけじゃないけど、やっぱり恥ずかしいのよ。」
「そうなの?黒いのが?そうかなあ…」
正男はなにか考えているように言った。
たった二つしか違わないのに、男の子の考えていることはよくわからない。
わからないながらも、わたしは思い切って聞いてみた。
「ねえ? まさおくんは、恥ずかしくないの?」
「なにが?」
「ええと、お…おちん…下のほう見られるの。女の子に見られても平気?」