日本に養蜂の技術を伝えてくれたのは百済の王子、余豊璋 | 横浜の香り教室 平安の香りと親しむ平安朝香道

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奈良の大池から薬師寺を望む
はちみつ元気家族

日本で最初に蜂蜜の採集を養蜂コスモスとして試したのは、百済から人質としてやって来た余豊璋(よほうしょう)でした。


余豊璋は百済王義慈の王子王冠2(他説では義慈王の父武王の子)とされています。


「日本書紀」によると、豊璋が倭国(日本)にやって来たのは631年(舒明3年)3月となっています。

ちょうどその年代のことが10月23日の記事になっていました。


2011年10月23日付けの朝日新聞によると


中国の古都・西安で見つかった軍人、百済人の祢軍(でいぐん・678年死去)の墓誌(故人の業績を記して墓に収める石版)に「日本」の文字があるという論文が発表されたそうです。


それまで日本は、倭と呼ばれていたのですが、初めて「日本」と名乗るようになったのは、大宝律令(701年)との見方が有力でした。



今回、中国で発表されたこの墓誌により、670年代に倭国が「日本」と名乗るようになったことがわかったそうです。



そこで私は同じ時代631年に日本に人質としてやって来た、百済の王子に想いを馳せたのです。



歴代の百済王は常に北から南下して来る高句麗の軍事的脅威にさらされていました。


そのため百済は、倭国の軍事力に頼り親交を深めるしかなかったのでしょう。


軍事協力の見返りとして、百済は倭国に学問や様々な文化を提供しました。



余豊璋が人質となったのも、倭国の要求に応えてのことでした。

その璋は、631年に倭国の人質となったのです。(643年の説あり)



「日本書紀」によると、倭国に来て間もない璋は、奈良の三輪山でミツバチを飼育することを試みたのでした。


この飼育は失敗に終わっていますが、璋が故国で常にミツバチを身近にしていたか、養蜂をしていたのではないでしょうか。



もちろん蜂蜜の美味しさも充分経験済みラブラブ

だと思うのです。



私が以前韓国の慶州に初めて行った時、古墳があり亀石がある風景を目にして、奈良と非常に良く似ていると感じました。


璋が百済のどこの出身かは知りませんが、人質として日本にやって来た時、奈良の風景を見て故郷を想いだしていたかもしれません。


現代でも韓国の扶余(ふよ)と奈良県桜井市の三輪山では、全く同じ養蜂容器が使用されているとのことです。


660年には唐と新羅により百済は滅亡します。



663年百済の遺臣の要請により、百済を救うため倭国は余豊璋に百済の王位を授け朝鮮半島に出兵しました。




白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いです。


白村江の戦いは、2日に及ぶものでしたが、倭国は唐と新羅の連合軍に惨敗でした。



その後、残った倭国の兵士や百済の人々が倭国に逃亡して来たのです。



璋は数人の家来とともに高句麗に逃亡したと言う説もありますが、消息は不明です。



なんと日本では31年も人質として過ごし、最後は戦闘のために王に祭り上げられて利用されたのでした。



正に悲劇の王子です。



ドラマにしたら、今の韓国ドラマより素晴らしく面白いものができそうですよ音譜



はちみつを採るために三輪山にミツバチを放した王子は、まほろばの奈良でどんな夢を見ていたのでしょうか?



遠き半島の故郷を想い、哀しい運命をしばし忘れていたのかもしれません。

ハチミツは卑弥呼の時代から日本にもあった?

蜂蜜は韓国ドラマの中でも「二日酔いに良い」です


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