真金町1丁目。加藤理容店。
レトロな床屋さんです。利用したことはありませんが。笑。
あらかじめ申しておきますが、私は顔文字・絵文字の類を一切使いません。
FB友達のお誕生日のお祝いのコメント、政治家の場合は選挙に当選した際のお祝いのコメントの際に例外的に用いているだけです。
12年経っても、基本的に作風の変化はありませんが、汚い日本語は用いなくなりました。
私が住む真金町の師匠、桂歌丸師匠は常々「美しい日本語」を強調していました。
私たち大人は、次の世代に「美しい日本語」を継承していく義務がある、私はそう思っています。
批判的な言葉を用いる際、あえて汚い言葉を用いなくとも、言い回しは他にもありますから。
ということで、私はSNSにおいては汚い日本語は用いなくなりましたし、また、汚い日本語を安易に用いる方を好まなくなりました。
話を戻します。
真金町1丁目。私がかつて住んでいたマンションです。
龍太郎の一件が起きた場所でもあります。
12年が経って、午後6時にこの場所にいるのは今年が初めてですが、正直なところ...
しんどい。
...という感想です。
真金町1丁目、かつて住んでいたマンションの前の路地。
今でも真金町内に住んでいますので、ここは通らないことはないのですが、5月17日の午後6時にここにいる、というのは複雑な心境です。
2008年5月17日午後3時51分に私が見ていた光景は、この写真に近いと思います。
龍太郎に背を向けたときに見えた光景。
私はあのとき、龍太郎への思いを振り切るように自転車のペダルを漕ぎ、横浜橋市場の手前、みがくかんの角を右に曲がりました。
えい!
嫌な胸騒ぎはしていましたが、人が人を殺すこと、まさか自分の身内で起きることはないだろう...
その感覚に関しては、一生、悔恨の念を抱くでしょう。
実際、そのまさかは起きたのですから。
わざわざ写真に収めなくても、この光景は私の脳裏にすぐに思い浮かびます。
横浜橋商店街の入り口にて。
信濃屋...
さの家の男三代がただ一回揃い踏みした場所です。
父は「おっかねえ、おっかねえ」を繰り返しながら、龍太郎を始めて抱っこしました。
父と龍太郎は初対面ではありましたが、抱っこして落としてはいけない、と心配してこれまで控えていました。
結果として、父が龍太郎を抱っこした唯一の機会となってしまいました。
事件があった5月17日も、私に用件があったので、真金町に来て、龍太郎を抱っこしたかったそうですが、あんまり頻繁にも、ということで遠慮したそうですが、遠慮しなければ、わが家の命運は違ったものになっていたかもしれません。
このことは、父にとって悔恨すべきことになったようです。
if...
色々と思い浮かびますが、現実はただひとつしかありませんので、逃避せず、受け止めて生きていかなければなりません。
信濃屋さんは、改築したので2008年当時の建物ではありません。
横断歩道の先には三吉橋商店街、左側の和菓子の満寿田屋(ますだや)さん、改築したばかりです。
この信号もかつては「三吉橋」だったのが、いつの間にか「よこはまばし入口」に変わっています。
写真の奥に、横浜市大センター病院が見えます。
12年前、ここで龍太郎を抱っこしていた父も、4年前、肺炎で、夜中にトイレで意識不明になって救急を呼びましたが、救急が到着した時には心停止していました。
救命措置によって一旦は蘇生しましたが、心停止してしまうと身体のコンディションは悪化するのでしょう、助からないのであれば、龍太郎に縁のある市大センター病院へ、という母の希望で、父は市大センター病院に搬送され、市大センター病院が終焉の地となりました。意識は戻ることはありませんでした。
風邪をひいたと思って仕事を休んでから14日目のことでした。
2016年2月21日のことです。
前日に父の体調について母から連絡があって驚きましたが、父は病院嫌いでしたが、明日、絶対に病院にいかねばならぬと父が病院嫌いだとは分かっていましたがかなりきつい口調で繰り返し伝えたのですが、間に合いませんでした。
実際、病院に行っていても症状的は手遅れではあったようです。1週間前に病院に来て助かったかどうかという状態ではあったようです。
淡々と述べていますが、実際は、私は他人の死について敏感で、考えるのがとても苦手です。
本当はとても弱いのです。
龍太郎の死のときは、龍太郎の父としてなんとか堪えましたが...
父の時は、息子の立場として、堪えることなく、発狂して、絶叫しました。
中村町2丁目、中村八幡宮の鳥居です。
中村八幡宮には忠霊祠(ちゅうれいし)という祠があって、大東亜戦争において亡くなった、氏子地域の住人を四百数十柱を祀っています。祠の中には遺影がずらりと貼られています。
忠霊祠にて毎年8月15日に慰霊祭が行われますが、そのときのお詣りの際は、数日前からこころを浄めて、整えてからお詣りしています。
一昨年にはじめて祠の中を、そして昨年にはじめて慰霊祭の様子を動画に収めさせていただきましたが、それまでの数年間は、ずっと控えて、こころを整えていました。
私は、南区出身ですが、中村八幡宮の氏子ではありません。
しかし、戦争で犠牲となった南区の先達、先達の尊い犠牲で、いまの日本があり、南区があると考えています。
8月15日といえば、靖國神社なのでしょうが、私にとっての靖國は、中村八幡宮です。
中村八幡宮の境内に立ち入ることは、私にとって心身を著しく消耗する行為なので、通常は、中村町2丁目・3丁目、八幡町に立ち寄るときは、必ず中村八幡宮の鳥居の前で一礼をしています。
コロナウイルス騒動下においては、中村八幡宮の鳥居の前にて、南区の先達に必死にお祈りしました。
必死とい言葉は使いたくはありませんが、本当に必死でした。
中村愛児園前から眺める夕陽です。
山羊坂(やぎざか)です。
平楽の丘に登る坂はいくつかありますが、名前がある坂だけでも...
稲荷坂
山田坂
見返り坂
大坂
蛇坂
蓮池坂
狸坂
東坂
遊行坂
清水坂
...があります。
その中でも山羊坂が、最も短距離で平楽の丘の上に行くことができ、かつ平楽の丘の中央部にいたるので、平楽の丘の上を移動するのに便利です。
坂を上がって、平楽の丘の主稜線を貫くバス通りに出たところに平楽中学校があるので、通学路としてよく用いられています。
写真では分かりづらいですが、階段は意外と急です。
段数は案外多くありませんが、案外と急です。
慣れましたが。笑。
山羊坂の階段の途中より。
中央奥に見えるのが市大センター病院です。
山羊坂の階段を登り終えて。
結構、急で高度感があるのです。
降雪、積雪のある時は朝晩の往来はちょっと怖いですね。
平楽中学校前より。
ここからは富士山がよく見えます。
私の佐野家は祖父の代に富士山の麓にある静岡県富士宮市から東京に出てきた家です。
わが家にとって富士山は神聖な存在です。
祖父は無宗教で神の存在を全く信じなかった人ですが、富士山だけは信じていたようで。
5人の子供のうち、2人に富士山に因んだ命名をしています。そのうちの1人が私の父、富夫です。
父は戸籍上は静岡県富士宮市で生まれたことになっていますが、実際は祖母の実家である富山で生まれていて、富士宮には一度も行ったことがありません。笑。
父の兄弟姉妹で富山生まれは父だけなので、祖母の実家の人たちは富夫の「富」は富山に因んでいると思っていたようですが、うちのじいさんにそんな殊勝なこころがけなんかないって。笑。
どれだけ迷惑をかけて生きて来たんだか。笑。
挙げ句の果てには、富士宮の佐野家は、信州の諏訪家に由来するので、家紋は諏訪家の「梶の葉紋」なのですが、「富士山紋」を作って変えてしまいました。
ブルートレイン「富士」のヘッドマークじゃあるまいし。富士山は神聖ですが、家紋となると話は別で。
祖父の死後、元どおりの「梶の葉紋」に戻しました。
この日は雲が少なくはありませんでしたが、富士山がよく見えました。
雲のない日でも霞んで見えないことも少なくありません。
蓮池坂を登りきったところにある、中丸バス停よりランドマークタワーを眺めます。
見返り坂を登りきったあたりからランドマークタワーを眺めます。
拡大しました。
写真の右端には、平成の時代にはなかった2つの高層建築物が増えました。
背の低いほうが、横浜市新市庁舎、背の高いほうがザ・タワー横浜北仲です。
みなとみらい地区ではなく、地下鉄の馬車道駅に近い北仲地区にあります。
稲荷坂の上に到着しました。
平楽の丘の南西の端にあるこの場所が、最も富士山がよく見える場所です。
富士山の手前に鉄塔のある小高い丘が見えますが、永田の山王台です。
山王台の麓にある永田の町で私は子供の頃を過ごしました。
この場所からは、南区の町並みがよく見えます。
私が育った町。
稲荷坂で富士山を撮影した後は、平楽の丘を一気に北東の端まで歩いて、打越橋にやってきました。
打越橋の下を通るのは牛島坂(打越坂)です。
道路が直線なのは、もともと横浜市電を山元町まで通すために、牛島山を崩して切り通しにしたからです。
坂の名前の由来も牛島山に因みますが、実際には架かっている橋の名前と、住所である中区打越にちなんで打越坂と呼ばれるほうが多いです。
道路の左側に並行している坂道がありますが、清水坂です。牛島坂との分岐点に打越の湧水があるので、清水坂、と名付けられています。
実は打越橋からの横浜の町中の眺めは絶景と言われています。
この写真はやや遠目に横浜の中心部を写していますが...
打越橋は横浜の夜景の名所として有名です。