あと15時間で12年。
赤レンガ倉庫にて撮影した横浜港の夜明け。
2020年5月9日、午前5時06分に撮影しました。
コロナ禍のもと、交通機関を用いないので、横浜の町中を猛烈に歩いています。
5月9日は、みなとみらいの夜明けを撮影に行っていました。
無人のみなとみらい、日本丸からの夜明けは幻想的です。
自宅のある真金町からは徒歩で約2.1kmです。
そして、汽車道から新港地区、赤レンガ倉庫、象の鼻、大さん橋、山下公園、中華街...
赤レンガ倉庫の敷地内、大さん橋のクジラの背中にのぼったりした距離を含めれば、だいたい9kmから10km歩いた計算になります。
実際は、コロナ禍であってもなくても、適度な移動方法がないので、徒歩ということになります。地下鉄が走っている時間であれば桜木町までは地下鉄で行くことができますが。
それでも毎日、出歩くわけではありません。
コロナですから。
曇り、雨の日はほぼ引きこもりで、晴れの日に行動しています。
人との接点は極力排除しています。
12年...
私は平成のうちにくたばることはなく、令和の時代を迎えました。
私はくたばっていないのに、私の周りの人たちがこの世を去りました。
「るーたんのちちのちち」こと、私の乳、もとい、私の父は4年前の2月21日に肺炎でこの世を去りました。
大通り公園とは反対側の横浜橋通商店街の出口、料理屋の信濃屋の前で、父、私、龍太郎の佐野家の男三代揃い踏み、最初で最後の揃い踏みになってしまいましたが...
今、この世にあるのは、私ひとりです。
さらには...
信濃屋は改築されて、当時の建物はありません。
信濃屋の隣にあった京樽もありません。
その隣にあった日用雑貨店もありません。
さらに隣の軍放出品を扱っていたお店もありません。
そもそも、横浜橋商店街の市大病院側の出口は「三吉橋」という交差点名だったのに「横浜橋商店街入口」に変わっています。
横断歩道を渡った向こうにある和菓子の満寿田屋(ますだや)は建物が傾いてきていたので、取り壊しになるとき、おしまいかと思ったら改築で、最近リニューアルオープンしました。
わが家だけでなく、周囲も激変しました。
12年という歳月です。
大きく変わっています。
今、思い出しています。
2008年当時の、横浜橋、伊勢佐木町、日ノ出町界隈の町並み。
随分と変わってしまいました。
これはまた改めて整理しようかと思います。
3時に書き始めた記事ですが、4時になりました。
12年前のちょうど今頃...
明け方に近い夜中に目が覚める習慣があった龍太郎は起きていました。
龍太郎と私が、この世で一緒に過ごした最後の夜でした。
次の夜、龍太郎はこの世にはなく、私は真金町、龍太郎の遺体はは弘明寺の南警察署で夜を過ごしていました。
世がもうじき明けます。
12年前、夜明けとともに、龍太郎と真金町のセブンイレブンに行って、ヤマザキ春のパン祭りの景品のお皿を交換に行きました。
龍太郎は夜中に目を覚ますと、とにかく外に散歩にいかないと眠らなかったので。
私は、これから少し寝ます。
あまり眠れないかもしれませんが。