これは2014年10月に書いた原点回帰録97。
1997年8月プラムさんのお通夜とお葬式に参列した時の事と出来事の"まとめ"の様だ。
~以下本編
後楽園ホール大会の次の日(18日)がお通夜でプラムさんの実家で行われた。たくさんの方々がみえた。
プラムさんの顔は普段と変わりなかった。夢の中にいる様だった。
次の日19日が葬式。私達はJWPのジャージで参列。
プラムさんのお父さんは"娘の選んだ道だから"と。悲しいのにさすがすごい言葉だ。
次の日新聞各社がこぞって一面で取り上げた。私はセブンイレブンでそれを全部購入していまだに保存しているのだが、見ると今でも当時の事がよみがえる。
もう17年も経つのか。
私達は知っているから皆知っているだろうと思ってしまうけど、知っているわけない。
プラムさんはすごく闘ったのだなと思う。悲しみも深かったと思う。
死の矛先が尾崎さんに向けられたがそうじゃない、悲しいかな、プラムさんのプロレスラーとしての本能が原因だった。
近親者の話で後でわかった事だがプラムさんは1ヶ月程前から頭痛に悩まされていたらしい。バファリンを飲みごまかしていたらしい。
病院の先生も"少し前から脳の腫れはあったのではないか、だとしても普通の人だったらこんなに生きていない"と言っていたらしい。
プラムさんは、ずっと欠場が続いていた事、頭痛なんてよくある事、だからそんなに重要に考えなかったのかな、それとも言い出しにくかったのかな、言ってまた欠場になりたくなかったのかな、と思う。
~本編終わり
お葬式は、ご実家のある大田区で執り行われた。
お通夜では暗くなった中ご実家の階段をのぼった事、プラムさんのお顔を拝見できた事は
覚えている。お葬式は…皆でJWPのジャージを着て行った事、葬儀場の外観しか覚えてないな。
毎年プラムさんのお父さんとお母さんの所へ顔を出していたんだけど
お二人のやりとりは笑いがあってとても楽しかった。お母さんは数年前に
突如あの世へ旅立たれた。お父さんは料理から掃除まで全部お母さん任せだったから
大変だったみたい。だけど尾崎さんや周りの人が甲斐甲斐しく手を差し伸べて
少しずつ料理、洗濯、掃除が出来る様になっていったみたい。お父さんは、あまり知らない人には
つっけんどんなところがあったけど、なぜか自分が顔を出すと「飲め飲め!」と
ビールを勧めてくれるのであった(ただの飲んべえ会話!?)
当時の新聞は数年前にお父さんに全部渡した。何で渡したのかな?
お父さんに見てもらいたかったんだと思う、分かんないけど。
お父さん「こんなの持ってたんだ、ありがとな」って言ってたから、良かった、かな?
あ~やっぱ長くなるから、今年の核心としている話しは次回。
プラムさんの写真、どっかにあるんだけど探してたら、懐かしいもの展覧会になっちゃって