1997年8月15日~16日にかけての
事。
2014年10月の原点回帰録95より。
~以下本編
メインイベントが終わり急いでリングを片付けて病院へ向かった。
プラムさんは手術中だったかな、開頭手術をしたという事。手術が終わっても脳の圧が下がらず危険な状態らしい。
私達はその場にいてもどうする事もできないから12時頃まで病院にいたけどバスで東京へ帰って行った(17日は後楽園ホール大会があるため)先輩方は16日の新幹線ギリギリまでプラムさんのところに残った。
その時、試合を欠場していて東京にいた関西さんがプラムさんの家族を連れて広島の病院に来てくれた(16日朝)
先輩方はギリギリまでプラムさんの耳元ではげましの声をかけていて、"ごめんな、帰るからね"と言うとプラムさんの目から涙がこぼれたという。意識が戻らなくても耳は最後まで生きているんだ。
先輩方が新幹線に乗り東京へ向かっている時、プラムさんは息を引き取った。
1997年8月16日夕方6時25分だった。
私達は16日中に東京へ戻り、私は金町の自宅でじっとしていた。本谷から電話がきた。泣いていたのですぐに察した。次の連絡網は誰だったか覚えていないけど回した。
~本編終わり
はじめに↑この写真は1995年8月30日全日本女子プロレス大阪府立体育会館大会
WWWAシングルのベルトを関西さんがアジャ選手より奪取した時の記念撮影らしい。
↑本日Wikipediaの調べ。
何でこのタイミングでこの写真載せたのかな?プラムさん写ってないし。
多分、上の(キャリアが)選手達で記念撮影した後
どなたか上の選手が「ホラホラ、あなた達も撮っていいよ!」
と言ってくれてイソイソと撮った写真だと思う。
この時、皆が興奮しているのが分かった。でも自分は、このベルトがどんな意味を持つのか
当時、全く分からなかったから、言われるがまま撮られた記憶あり。
写っておいて良かった!歴史の記念になりました(┐('~`;)┌)
2014年当時、おそらく手元にたまたまあった懐かし写真を使ったのだと思われる。
リングを置いてあるステージにはどんちょうが降り
全選手、スタッフ、皆が集まっていた。
救急隊員の方が意識のないプラムさんの頭頸部を固定し担架で運んでいった。
まさか救急車を呼ぶ事態になるなんて…と誰もが思ったと思う。
救急車のドアが閉められる時デビルさんが言った。
「皆で、まりちゃんの無事を祈ろう」と。皆で手を合わせて祈った。
リング片付けして選手バスで病院に駆けつけたけど、確かプラムさんは"今から手術"という事で
15日の24時頃には私達はバスで東京へ帰っていったと思う。
(この辺、記憶がごっちゃかも)
16日は何かよく分かんなかったな。だってプラムさんが死んじゃうなんて
誰もが想像だにしていなかったから。
プラムさん死んじゃったのに、明日試合するの? とは思ってた。
レスラーは親が死んでも試合するものだ、という
教えはあったから、当たり前だとは思ってはいたけど
これは…いまだに適切な言葉はみつからない。
特にJWP女子プロレス発足メンバーは身を引き裂かれる思いだったに違いない。
だってプラムさんの涙の意味を考えると…切なすぎる。