今日は爽やかな新潟です。



今日は、教室または英語教育とは無関係の話です。



最近気になる事件がありました。
北海道の7歳の男児が、しつけで山の中に置き去りにされた事件です。
毎日、「無事見つかりました」という朗報を期待しますが、一向に聞こえず。そのかわりに、にこにことあどけない笑顔の写真が追加され、一層やりきれない気持ちになっています。


ウチの子供も同じくらいの年齢です。言うことなんか聞かないし、自分の思う様に動きたい盛り。「やっちゃダメ」といわれたことをわざわざもう一度やってみることもしばしばあります。子供にとっては、逆説的確認作業なのでしょう。「やっても、もし大丈夫だったら?」という検証をしているのかもしれません。危ない行為は繰り返し言い聞かせなくてはいけませんが、「なぜ危ないのか?」と自分で考えることは、成長段階において健全でむしろ必要な行動だと思います。

行方不明の男児の父親は、「威厳をみせたかった」そうです。
「厳格な父親」の「威厳」を見せたかったのでしょうか。でも、そもそもライフスタイルも個々の問題も多様化した現代に「厳格な父親」の「威厳」なんて必要でしょうか?安全の確保が難しかった時代を生き抜き、家族を守ってきた父親たちが「威厳」を振るい、リーダーとして有無を言わさず家族を先導しなければいけない時代ならまだしも、家族を先導するにしても家族旅行程度の現代の父親に「威厳」?

「威厳」という言葉は、「近寄りがたいほど堂々としておごそかなこと」という意味です。自分のことを「私は、子供が近寄りがたいほど堂々としておごそかなふるまいの人間ですから、子供は反論してはいけないはず。」などと思う方が、親に反抗する子供よりもよっぽど不健全な気がします。

しかし、実のところ、メディアでは尤もらしく「最近の父親には威厳がない」などと嘆く声を聞きます。そんな声を聴いていると、なんとなく「威厳がないとダメなんじゃないか。子供に甘くみられているのじゃないか?」と感じてしまう気持ちはわかります。それは、メディアが発する、母親に対する「母性」という言葉の持つ力と同じかもしれません。「母性」は、母親たちの危機感を増長する言葉であると思います。

「女性には母性がある」と言われていますが、実際に子供を産んでみても「母性は、どこ?」と不安に思う母親たちは多いものです。私もその一人です。ただ、子供を育て、なにがあっても根性で守り抜く!という絶対的使命感は、乳児を育てながらフツフツと沸いてくるのは感じましたが、それが自分が産まれ持った母性か?と言われると、それは違う気がします。むしろ、不眠不休で乳児に悪戦苦闘しながら自分で培った土壌だと思うと、しっくりきます。

それに限らず、日本のメディアの言葉遣いや、なんでもかんでも標準化する姿勢には辟易することが多々あります。
アメリカから日本に帰って来た直後に、ぎょっとしたのが「女性の好きな抹茶スイーツ」だとか「野菜が多いので、女性に人気」などという見出しの記事でした。「女性」と、全国民の半分を一つのカテゴリーに押し込め、当然の様にステレオタイプ化している、なんと乱暴な記事なのだ、とびっくりしたものです。そのほか、「ママたち大喜び」(どの世代のママのこと?)や「イクメンパパたちのリーダー」(この人がリーダーでいいのか?)などなど、いやいや、それに賛同しないと少数派とみなされるのか?と、ビックリしたものです。

毎日毎日「○○には、こうするべき!」的なタイトルに触れていると、自分や自分の周りの人間が何が好きなのか、何を必要としているのか等、それぞれの個性や気持ちを尊重する必要性を忘れてしまいそうになります。

メディアや世論からはある程度の距離を保ち、自分の意見として自動的に取りこんでしまわない様に意識することは、必要ではないかと思います。

行方不明の7歳の男の子が無事に帰ってきたら、お父さんもちゃんと彼の言い分を聞いてくれるといいな、と心から思います。
それでは、よい一日をお過ごしください。とかげ