不定期更新通信 -126ページ目
<< 前のページへ最新 | 122 | 123 | 124 | 125 | 126

生の否定。

今日は前回、前々回に対して生の否定について。




世の中には自分の生、他人の生を否定する、絶つ人間がいる。




自分の生の否定、自殺。




日本では年間三万人の人が自殺している。




事故で亡くなる方より圧倒的に多い。




人口10万人当たりの自殺者数で表される自殺率も世界で上位に入っている。




俺の通ってる大学は箱根駅伝も走ってるからそんなにマイナーな大学じゃないと思うけど、




総学生数が約三万人です。




学校丸々一つくらいの人が一年間に自殺している。






俺の周りには自殺した人はいない。




だから自殺する人の気持ちはわからない。




理由は色々あるんだろう。




もうどうにもならない。この状況から逃げたい。




そう思った人が自殺するんだろう。大部分がそうなんだろう。






人生は素晴らしいと思っている。




生まれてきたことはとんでもなく幸運で、人間は生きているだけで少なからず幸せ。




満足することとは違う。

止まってしまうから。

現状維持はよろしくない。







俺が普段幸せだって感じるときはだいたいそばに誰かがいる。




ほとんどの人がそうだろう。




友達、家族、恋人、誰かがいて、自分がいて、幸せが生まれる。




一人で感じる幸せもあるけど、




誰かといて感じる方が多い。




自分のコミュニティがない人は、




幸せを感じづらいだろう。




一人が多いから。




一人が好きな人もコミュニティは持っている。







自殺する人はコミュニティがないのかもしれない。




一概には言えないけど。









少し前にどこかで中学生が自殺して、




その原因を作った子を、自殺した子の父親が提訴するとかしないとかってのがあった。




なんかおかしくないか。




家族が自殺を選択するまで追い詰められてたんだろ。




誰より気付いてやらなきゃいけなかったのは家族だろ。




提訴はおかしいよ。





あと自殺する人もする人だ。




この件ではネットの書き込みを苦に自殺したらしいけど、




たかだか十数年生きただけで自分の生に見切りをつけるな。




いじめはなくならない。




中学生くらいだといじめをするやつは必ずいる。




かっこ悪いって気付くのはもっと大人になってからなんだ。




いじめをするやつがいるのはもう変わらない事実なんだから、




自分が変わればいい。いじめをいじめと思わない自分に。




よく考えもしないで




 なんで自分は何もしてないのに




もしかしたら自分に原因があるかもって考えないのか?




そのくせすぐに死を考える。




卑怯だ。




言っても無駄かな。一応書く。










だから思う。




自殺する人は、




生を侮辱している。


一生懸命頑張る人を侮辱している。




俺は生まれてきたことを幸せだと思うから




自分の生をいつか老いて死ぬまで生きたい。




自分の手で自分を殺したくない。









自分の生を見つめよう。










他人の生の否定、殺人。




他人の命を奪う。こんなことがあっていいはずがないんだ。




最近起こった秋葉原での事件は俺の何かを変えた。




一人の人がたまたまそこにいた人間の生を奪った。




ニュースをみたときは信じられなかった。




知らないうちに涙が流れていた。




でも事実なんだ。




俺たちはもういつ殺されてもおかしくない国で生きている。




そう考えたら命ってものが




前より輝いて感じられた。






俺は生きたいと思って生きている。




今まだ死にたくない。




死にたくないと思って生きてる人がほとんどでしょ。




そう思ってるから生きている。




死にたくないと思っている人を殺すことはどう考えたっていいことじゃない。




そんなことはわかりきっている。




何で?




悪いことは悪いことなんだよ。理由はどうであれ。




人を殺すことはなぜいけないことなのか。




説明は難しいけど答えは簡単で明確。




いけないからいけないんだ。




それでも毎日のように殺人事件のニュースが流れる。




卑怯だ。




殺人は被害者の人生、可能性を奪う。




ちっぽけな加害者より可能性のある人間の人生を奪う。




自殺と同じか。


生に対する侮辱だ。







最近家族を殺したって事件が昔より増えたように感じる。




自分を生んでくれた親を殺すことは自分の生の否定とかわらない。




親がいなかったら自分はいない。




自分が生んだ子供を殺すことは自分の生の否定とかわらない。




子供がいたのは自分がいたから。




たとえ血縁がなくても家族というコミュニティはそういう繋がりなんだと思う。








これは家族に限らないな。




他人の生の否定はめぐりめぐって自分の生の否定になるのか。










まだよくわからないこととわかりきっていることがあるみたいだ。




矛盾。若造。

生の否定はよくないって言いながら死刑制度賛成派。




ただ俺は今は自分の生の否定、他人の生の否定は否定し続けるつもり。




また人についてだ。

今日はまだ死ぬことについては触れないでおこうか。


人の生とかもっと根本的な話。


中学一年のとき。


印象的な授業だったな。


いまいきなり思い出した!


授業参観だったかな?
忘れたけど。



俺の担任はすごくおもしろい先生だった。


見た目はVシネ俳優。


その日は道徳みたいな感じで。


人間を構成してる物質って数千円で買えるんだって。


よく覚えてないけど三千円から四千円くらいだったと思う。


人間の体だけを作ろうと思えば四千円くらいで作れちゃうってこと。


じゃあ一人の人間には四千円の価値しかないのか?みたいな授業だった。


その時俺は人間の思い出とかには値段はつけられない。みたいな回答したんだたぶん。


みんな大体同じことを思うだろう。


人間には四千円以上の価値があるって。


確実な根拠はなにもないのにそう考える人がほとんど。


とりあえずそう考えてから理由を探す。


実際答えはない。


色々考えさせられる。


先生は俺達に何を問いたかったのか。


結局人間の生命を金で計ることはできない。


ってことか。




土地と似てないか?


その土地自体にはたいした価値ないじゃん。


ただの地面だもん。


その土地がどこにあるか、周りとの関係性からその価値が決まる。


ただ似てるだけだよ。
生命は素晴らしい。







昔からたまに思うときがある。


今視界に入っている建物、


自分が着ている服、


喋っている人、


乗っている電車、


吸っている空気、


楽しい、とか、
疲れた、って感覚、



それは何なんだろう。



何で今そこに存在していて何でできているんだ?


なんだかわからないけどたしかに存在する。



たまに思う。


それに触れてみる。


指が触れてそれがそこにあることがわかる。


脳が感触を確かめ、認識する。




例えば氷に触れてみる。


氷がそこにあるって目で確認する。


触れる。


冷たいって感じる。



この一連の流れは何なんだろう。


今俺が打ってるこの文章、言葉って何なんだろう。


同時にあなたが読んでいるこの文章って何なんだろう。


不思議で仕方ない。


たしかにそこに存在する。
と思っている。



逆はなんだろう。


そこに何も存在しないってどういう状態だ?




指で触れるってとこから感覚の話。
人間の感覚は不思議だ。



味覚

俺はビールが好きだ。
おいしいと思う。


ビールは苦くて飲めない。
おいしくない。

って思う人もいる。


ビールそれ自体の味って何なんだろう。


おいしいって思う人とおいしくないって思う人がいる。


ということはビールに味はあってもその味自体がおいしい、まずいってことじゃないよな。



視覚

色盲ってのがある。


色盲じゃなくても人によって色の感じ方は違う。




水色


太陽

オレンジ
黄色



人によって色が変わる。


俺には青に見えても、


水色に見える人もいる。


それ自体に色はあるの?


人間がその色だって思ってるだけじゃないのか。


感じ方一つで変わる。


でもやっぱ視界に入ったとき赤って思えば赤だ。


感覚を越えたものもある。

器のでかい人間は見ただけで圧倒する何かがある。


他にも色々あるけど、


人間て複雑な生き物だ。





話がだいぶ感覚の方に飛んだ。


何かがそこに存在する。
その意味はあるのか。


今隣にいる人は何かそこにいる意味があるのか。


その人と出会った意味はあるのか。


おいおいおっさん、降りる人が先だろ。
順番抜かして降りる人無視してまで急いで電車に乗る意味あるのか。


こんなこと書く意味あるのか。


意味を求めることに意味はあるのか。


意味ってなんだ。


意味がある方がいいのか、
ない方がいいのか。


結局意味を求めてしまうのか。




味がある。
深みがある。
かっこいい。
個性的。
唯一無二。

そういう何かがある。
たぶん。

あると思っている。

そういう何かを自分の生にも欲しい。

人人人。

人間は生まれてくるとそのほとんどが家族という集団に迎え入れられ、その一員になる。


日本には義務教育があるから小学校、中学校ってコミュニティが用意されている。


他にも地元の友達、先輩、サークル、色々人間の集まる場所がある。


そういう他人との繋がりは大切。
特に深い関係は簡単に築けるものじゃない。


だから自然とそういう繋がり、コミュニティを失いたくないって心理が働く。


そのコミュニティの善し悪しはもちろんある。

善いものであってほしい。
悪いものからは脱却したい。

自分のコミュニティは大切にしたい。


環境がその人間をつくる。
と思っています。


明るいところで育てば明るい人間になるし。

逆もあるけど。


多くの場合がそうだと思う。


家族、家庭ってコミュニティが一番その人間の核をつくる大切な要素だと思う。


遺伝もあるけど家族は似る。

同じ時間を同じ場所で過ごしている。

似るわな。



家族と同じで友達で作られるコミュニティも似る。


嫌いな部分があったりもするけど、同じことで笑えて同じことで泣ける友達だからこそ一緒にいる。


苦手なやつとは一緒にいないよ。

学べることはある。


類は友をよぶ。
似た価値観のやつが集まる。


うまが合うってのはそういうこと。


こんなにたくさんの人間がいる中で今まわりにいる人たちと出会い、コミュニティを形成していることは貴重な繋がりなんだな。


運命とか偶然とか言葉は色々あるけど意味するものは大体同じ。


出会えたことに感謝したい。




他人との繋がりが多い人間はそれだけたくさんの価値観を自らに取り入れてより大きな人間になっていく。


影響されやすいとか流されやすいとかじゃなくて。


この大きな人間てのは己を自分の中にしっかり持っている。


しかし自らの価値観を決して他人に押し付けるような真似はしない。


でも不思議なもんで、そういう大きな人間は本人の意識とは無関係に他人にいい影響を及ぼすもんなんだな。



とにかく人との触れ合いの中で人は成長できるってこと。


今日はまわりとの輪の話。
コミュニティの話。


この大切な輪を壊す人間がいるって話はまた今度。



いやー書いた書いた!

恥。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂


イタリアのフィレンツェにある教会。


カトリック。




洗礼堂、大聖堂、鐘楼の三つの建物から構成され


三つすべてが世界遺産であるフィレンツェ歴史地区の一部に指定されている。





最近ニュースになったね。



岐阜市立女子短大と京都産業大の学生が建物の壁、柱に落書きをした。



教会は謝罪があれば修理費は不要と言ってるらしい。



岐阜市立女子短大の学生は学校から厳重注意。


京都産業大の学生は二週間の停学処分。





本当に恥ずかしい。



やってしまったのに修復させてもらえない。



俺が教会の人間だったらそんなアホにはもう関わってほしくないしね。



本当に謝罪の念があるならノンアポでも教会に直接行って謝って修復作業やってこい。





それよりさ、処分甘くないか。



退学させてもいいんじゃないか。



すごく歴史がある建物なんだよ。



恥を知れ。



20年そこらしか生きてない俺らと同じくらいのやつらが



恥ずべき行いをした。



だいたいさ、



大学の名前書くとかどれだけ頭悪いんだよ。



書かなきゃばれなかったのに。



いやいやそういう問題じゃないけどさ。



外国から見たら日本の学生はみーーんなアホになってしまったかもな。





俺の情報収集不足かもわからんけど、



外国人学生が日本の歴史的建造物に落書きしたなんてきいたことないよ。



てかそんな事件は本来あってはならないことで、



今回のはもう本当に有り得ない。








温故知新って言葉が日本にはある。



素晴らしい。



せめて勉強してからそういうところに足運ぼうよ。






ついそのときのテンションでやっちゃったみたいだから



退学はやりすぎって思う人もいるかもしれない。



テンションとかそういう理由じゃすまされないだろこれは。



辞めさせないと事の重大さに気付かないよ。



アホだから。



アホじゃなきゃこんなアホなことしないから。









すごく腹たったからこんな感じで。



これを読んだ人からアホがでないことを願う。













生きています。

初ブログです!


どーも亮蔵です!




人間のことを書くことが多いと思う。

今日は、人間は身勝手ってテーマで。


書きたくなったら書いて発散しようかと。




一週間前くらいに生後二ヶ月の子犬がうちにきました。


首の後ろのとこに小さいかさぶたがある。


いまペットショップで売られてる子犬にはチップが埋め込まれているらしい。


そのかさぶた。傷痕。


どの程度徹底されてるかはわからないけど、少なくともうちの子の体には機械が入っている。


捨てられないようにとかそーゆー理由かららしい。


保健所には捨てられたペットがたくさんいる。


人間は身勝手なもんで。


かわいい罪なき子犬の体にチップ埋め込むとこまで堕ちたらしい。


俺ができることは、この子がうちで幸せに過ごせるようにしてやること。




少し前から環境だとか地球だとかを意識するようになった。


俺は
車を運転するし
電車で通学してるし
電気使うし
ゴミもだす。


人間は少しずつだけど確実に地球の寿命を削りながら生きている。


そうじゃないとほとんど何もできなくなってしまう。


生かされている感覚。


できることはやる習慣。


感謝する気持ちがまわりのものを今以上に愛おしく感じさせてくれる。


人間に対しても同じだこれ。




最後なんかわけわかんなくなった!


こんな感じで。
<< 前のページへ最新 | 122 | 123 | 124 | 125 | 126