フィギュアスケート女子シングル
女子でただひとりトリプルアクセルに挑戦して成功させた。
攻めの姿勢を貫いた彼女の姿勢は、私は好きだ。
他国の複数の人間が採点するわけで、好みの問題もあり、タイム、長さ、高さ勝負と違い、絶対的な差を評価するのは難しい点もあるはずである。
誰でもが出来ること( 他の人にも出来る事 )を一番うまくやることも、もちろん素晴らしい事かもしれないが、誰にも出来ない事をやる方を私は支持する。
世界中のアスリートたちが競い合うオリンピックという想像を絶するプレッシャーの中で、氷上での孤独と戦い、彼女だけがトリプルアクセルに挑み、そして3回も成功させた実力は、他の人にも出来る事を一番うまくやることよりか断然価値があり素敵だと思う。
結果、実際メダルの色は銀でも、私は彼女がこの戦いに掛けた自分だけの個性に拍手を送り、メダルの色以上に評価したい。
無難にいくとミスは防げるかもしれないが、失敗する確率が少なからずあろうとも、自分だけというこだわりの方が断然魅力が大きいはずである。
メディアはふたりを対比してやたらと取り上げたが、タイプもスタイルも違ったわけで、それは好みの問題。
オリンピックで一番を取ることを目的として、ロシア人のタラソワコーチと二人三脚でここまで練習を重ねて来て、そして1913年の作曲家 Sergei Rachmaninov / セルゲイ・ラフマニノフの『鐘』を選曲した。
結果論からひとはとやかく言うけれど、少女のイメージから大人の女性への脱皮過程の年齢で、あえて当時のロシアのクレムリンのおとなの曲を選び、それに併せてプログラム&構成をした選択は、個性重視で勝負に挑んだ証であろう。
もっと可愛らしい明るい曲の方が彼女のイメージには合っていたのでは、という意見も多くあったようだが、一般的なレベルのひとでは理解出来ない事に挑んでいるわけで、納得出来ないのも当然である。
すべては結果ではあるが、もしあの曲で金を取っていたと仮定すれば、メディアを始め日本人は、おそらくこういったはずである。
素晴らしい選曲であった。と、そして想像だが、ラフマニノフのCDがやたら売れたのではないだろうか?
ここにも日本文化が生んだ皆と一緒感覚の弊害が存在しているように感じるのは、私だけだろうか。
先駆けて人と違うことをやる意義と価値をもっと理解すべきである。
参加することを目的としていたわけではなく、世界の頂点をめざした結果、今回は残念ながら勝負に負けた事実はある。
4年後を意識して、再度長い険しい道のりを歩いて行くという彼女の決意に、あの涙の理由が存在している。
cheers