管領・細川勝元の跡を襲った政元は応仁の乱後、将軍の首を挿げ替えるほどの権勢を誇り、細川京兆家の専制体制を確立する。しかし、修験道にのめり込み、妻帯しなかった政元には子がなく、三人の養子を迎えはしたものの、次第に求心力を失った彼は、養子の澄之を擁立する内衆に暗殺されてしまう。
自立不能なまでに権威の失墜した足利将軍家に加え、事実上の天下人たる細川京兆家までもが当主を弑逆され、三人の養子と彼らを擁する内衆たちは京兆家の家督をめぐって内訌を繰り広げる始末。将軍と管領という、二つの支えを失った天下はいよいよ秩序なき戦国の世へと突入していく。
そこへ颯爽と登場したのが江口の戦いを勝利し、畿内に返り咲いた三好家の若き当主・長慶だった。長慶は主家の細川晴元から、その対抗者である氏綱に鞍替えし、京兆家の当主に氏綱を据えると、天文二十一(1552)年には敵対する十三代将軍義輝と和睦し、いったんは室町幕府を再興する。しかし、翌二十ニ年には敵対的な画策を続ける義輝と手切りとなり、彼を京都から追放する。三好単独政権の誕生である。
いわば中原の覇者となった長慶は有能な三人の弟や、松永弾正、篠原右京進らと手を携え、抵抗勢力と格闘しつつ、天下の経営に乗り出していく。しかし、五年後の永禄元(1558)年には再び義輝と和睦。教養人の長慶は、ついに抵抗勢力との妥協の道を選び、室町幕府の名の下で秩序の回復をめざす。
義輝と和睦し、政権内に抵抗勢力を取り込んで、天下の主宰者たる長慶の政権基盤は一層安定したかに見えたが、永禄四年に弟の十河一存を失い、翌五年にはもっとも頼りにしていた弟の三好実休が戦死、さらに翌六年に嫡子義興が病死するなどの不幸が続き、長慶はやがて精神に破綻を来たすようになったという。翌七年には唯一人残った弟の安宅冬康を何者かの讒言によって誅殺してしまい、後悔の念に苦しみながら、その二か月後には長慶自身も病没する。享年四十三。
頼山陽は、晩年の彼を次のように評している。
「時に長慶老いて病み、恍惚として人を知らず」
永禄八(1565)年、将軍義輝は、三好義継(長慶の養子で後継者)、三好三人衆、松永久通らに弑された。永禄十一年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、三好政権はあえなく崩壊する。
結局のところ、将軍義輝・義昭兄弟が時の権勢家に疎まれた原因は傀儡将軍であることに満足せず、執拗に将軍としての自立を図ったことに求めるしかないように思う。ドラマ的には、互いの描いた未来が違っていたこと(同床異夢)に理由を求めるのが一番きれいな気がするのだけれど、どうだろう。
ところで、細川政元が「半将軍」と呼ばれていたという記述をあちこちで見かけるのだけど、出典を明記しているものを見かけない。もし出典をご存じの方がいらしたら、ご教示ください。