今週(長徳元年、965)の『公卿補任』はこちら

 

 長兄の関白(正二位)道隆(43、井浦新さん)は病のため、しばらく出仕していなかったが、三月九日、道隆が病気のあいだは伊周(22、三浦翔平さん)が内覧(関白に准ずる役割)を務めるようにとの宣旨があり、四月三日には病も重いことから、関白(天皇補佐)を辞職し、六日出家すると、十日には東三条殿の南院で薨御した。

 

 舅(妻倫子の実父)の源雅信(故人、益岡徹さん)の弟で、左大臣(正二位)の重信(74、鈴木隆仁さん)もまた五月八日に薨御した。
 次兄の道兼(35、玉置玲央さん)は右大臣(正二位)に右大将を兼ねていたが、長兄の関白道隆が病で薨ずると、四月二十七日に関白、翌二十八日には氏長者となったが、彼自身も病に冒されており、五月八日には二條邸で薨御した。あまりにも短い天下であったが、世間は彼を「七日関白」と呼んだ。
 甥(長兄道隆の嫡男)で中関白家のプリンス伊周は前年には叔父の道長ら三人を飛び越えて、二十一歳で内大臣(正三位)になっていたが、父道隆が病で伏せると、関白が病のあいだ内覧を務めるようにとの宣旨が伊周に下り、四月五日には左右近衛府から、それぞれ四人ずつの随身(護衛官)を給わるなど、最高権力者の椅子にあと一歩のところまで迫っていたが、同月十日に父道隆が薨御すると、伊周は熱望していた関白に任じられることもなく、内覧を停止された。関白になったのは叔父の道兼であった。その道兼も薨じた後はもう一人の叔父道長が内覧右大臣の地位を掴み取った。伊周は二人の叔父との椅子取りゲームに敗れたのである。伊周は八月二十八日、居貞親王(後の三条天皇)の東宮傅(皇太子の教育係)を兼ねた。
 準主役の道長(30、柄本佑さん)は権大納言(従二位)に中宮大夫を兼ねていたところ、左大将を兼ねていた大納言の藤原済時(55)が四月二十三日に薨御し、右大将を兼ねていた道兼も同月十日に病で薨じた道隆の後任として関白に就任する見込みが高く、要職である大将に欠員を生じないようにするため、同月二十七日、急遽道長が済時の後任として左大将を兼ねることになった。その後、関白となった道兼も薨じたため、五月十一日には道長に内覧の宣旨があり、六月十九日には右大臣に転じ、氏長者にもなって、翌二十日にはいままでどおり、左大将も引き続き兼ねることになった。同母姉の詮子吉田羊さん)の推しもあり、年の初めには公卿中の七番手に過ぎなかったった道長がひとまずは内覧右大臣、氏長者という最高権力の座を手に入れたのである。


 従兄弟で、まわりからは無能扱いされている顕光(52、宮川一朗太さん)は中納言(従二位)に左衛門督検非違使別当(京中の治安を維持し、違法行為を取り締まる役所の長官)を兼ねていたが、四月六日に権大納言となり、六月十九日には權官から正官(大納言)へと転じ、翌二十日には右大将をも兼ねた。
 叔父の公季(40、米村拓彰さん)は中納言(正三位)に春宮大夫を兼ねていたが、六月十九日に兼官(春宮大夫)はそのままで大納言に転じた。
 庶兄の道綱(41、上地雄輔さん)は参議(正三位)に右中将、備前権守を兼ねていた。
 切れ者と噂実資(39、秋山竜次さん)も参議(従三位)に左兵衛督、美作権守を兼ねていたが、四月二十五日に検非違使別当に補され、八月二十八日には権中納言に任じられると、その日のうちに右衛門督を兼ね、九月五日には今までどおり検非違使別当も引き続き兼ねることになった。加えて、同月二十八日には太皇太后宮大夫(太皇太后宮に関する事務等を扱う役所の長官)をも兼ねた。
 亡父兼家(故人、段田安則さん)の家司でもあった平惟仲(52、佐古井隆之さん)は参議(従三位)に左大弁、近江権守を兼ねていたが、十一月十八日には勘解由長官(官吏交替時の引継文書を審査する役所の長官)を兼ねた。
 友人の公任(30、町田啓太さん)は参議(正四位下)に近江守を兼ねていたが、八月二十八日には左兵衛督、九月二十一日には皇后宮大夫(皇后宮に関する事務等を扱う役所の長官)を兼ねた。
 義兄(安和の変で失脚した源高明の三男で、妻明子の兄)の俊賢(37、本田大輔さん)は八月二十九日、頭弁(弁官を兼ねた蔵人頭)から右兵衛督を兼ねたまま、参議(従四位下)となり、公卿(摂関、大臣、大・中納言、参議および三位以上の上級官人)の仲間入りを果たした。
 伊周の弟で、中関白家の荒ぶる貴公子隆家(17)は最年少の公卿で、非参議(従三位)の右中将であったが、四月六日には権中納言に昇り、六月十九日には權官から正官(中納言)に転じた。

以上、この年は納言以上が八人も薨じ、二月二十二日には「長徳」と改元されたが、上級貴族といわれる公卿総勢31名であった。