鎌倉殿の13人;ストーリー展開

 

 前回は全体構成を予想し、すでに発表されている配役と、想定される登場人物を全体に当てはめてみた。今回は序盤のストーリー展開をもう少し詳しく予想してみたい。

 

■第一部(第一~十六回) ※1~4月ごろ
 第一部は、鎌倉殿(頼朝)・政子夫妻を中心に、鎌倉殿と13人との出会い、そして13人が13人足りえた経緯を描く。


 第一章 挙兵(第一~八回) ※1・2月ごろ

  平治の乱に敗れた源氏の棟梁・源義朝の嫡男・頼朝は、平清盛の継母・池禅尼の恩情により、助命され、伊豆に流された。時に頼朝、十四歳。それから十七年。乳母の比企尼やその一族に庇護されて、頼朝は逞しい青年に成長していた、

 

  第一回 頼朝の流人時代と、彼を支援する比企尼たち

   安元三(1177)年、頼朝が伊豆に流されてから十七年。頼朝は乳母・比企尼の養子・能員や、尼の娘婿・安達盛長らの庇護を受け、逞しい青年に成長していた。その頃、京の鹿ケ谷では、後白河法皇による平家打倒の陰謀が進められていた。

  ※鎌倉殿との出会い:●比企能員、〇安達盛長

  ■:義時本人(主役)、●:義時と対決する宿老(準主役)、〇:その他の宿老

 

  第二回 頼朝と政子の恋、頼朝と北条時政・義時父子の出会い 

   青年頼朝はおのれの監視役でもある伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と恋に落ちていた。ある日、政子の実弟・江間小四郎が頼朝の配所に駆け込んできた。父・時政が都での大番役を終えて、三年ぶりに伊豆へ帰ってくるというのだ。

  ※鎌倉殿との出会い:●北条時政、■北条義時

 

  第三回 以仁王の令旨、三善康信の急報、挙兵

   治承四(1180)年、頼朝の叔父・新宮行家が山伏の姿に身をやつして、頼朝の配所を訪れた。源氏は決起して平家を討てという、以仁王の令旨を携えてきたのだ。その数ヶ月後、今度は頼朝の乳母の甥・三善康信から、急報が届く。平家が諸国の源氏を追討しようとしているから、奥州へ落ち延びよというのだ、

  ※鎌倉殿との出会い:〇三善康信、〇三浦義澄、●和田義盛

 

  第四回 石橋山、梶原景時の機転

   平家の目代・山木兼隆の館を襲撃した頼朝たちは三浦一族と合流すべく相模をめざすが、平家方の大庭景親に石橋山で破れ、山中を逃走する。大庭一族の梶原景時は洞穴に隠れる頼朝一行を発見するが、武士の未来を頼朝に賭けてみたいと思った景時は、一行を見逃してしまう。窮地を脱した頼朝一行は真鶴岬から安房へと渡り、再起を図る。

  ※鎌倉殿との出会い:●梶原景時

 

  第五回 三浦大介の最期

   酒匂川の増水により頼朝に合流できなかった三浦一族は、いったん本拠へ引き返すが、平家方の畠山重忠らの攻撃を受ける。一族の総帥で八十九歳の大介義明は他の一族を城から落とすと、老人だけで衣笠城に籠城し、壮絶な最期を遂げる。三浦一族は、頼朝と合流すべく安房に渡る。

 

  第六回 千葉介と上総介、鎌倉開府

   安房に渡った頼朝一行は待ち受ける三浦一族と合流し、安西景益を味方に加えると、房総半島を北上しつつ、各地の武士へ味方に馳せ参じるよう、檄を飛ばした。取る物も取りあえず一族郎党を引き連れて駆け付けた千葉介常胤は頼朝を見るや感激に咽び泣いた。一方、頼朝に十倍する大軍を率いる上総介広常はゆるゆると参陣するのであった。

  ※鎌倉殿との出会い:〇足立遠元、〇八田知家

 

  第七回 富士川、黄瀬川、義経参陣

   平維盛率いる頼朝追討軍が関東に迫っていた。頼朝は自ら大軍を率いて鎌倉を進発する。源平両軍は富士川を挟んで対陣する、しかし、翌朝平家の陣は蛻の殻だった。水鳥の羽音を夜襲と勘違いし、総崩れとなっていたのである。その日、黄瀬川の陣に頼朝のもとを一人の若者が訪れる。奥州から駆け付けた弟の九郎義経であった。

 

  第八回 清盛死す

   富士川の敗報が伝わるや、反平家のうねりはさらに広がりを見せた。清盛は、反発の強い福原から平安京への還都を決断する。翌治承五(1181)年二月、清盛は熱病に倒れると、ついに帰らぬ人となった。享年六十四。

 

 【配役】

  〇頼朝・政子夫妻と北条家の人々  主人公・義時との関係
   源頼朝(34):大泉洋さん  義兄
   北条政子(24):小池栄子さん  実姉
   北条義時(18):小栗旬さん (本人)


   北条時政(43):坂東彌十郎さん  実父
   牧の方(-):宮沢りえさん  義母

   北条宗時(-):六代目片岡愛之助  実兄

   阿波局(-):宮澤エマさん  実姉

   阿野全成(28):新納慎也さん  義兄

 

  〇頼朝の血縁者たち

   源範頼(-):迫田孝也さん
   源義経(22):菅田将暉さん
   源行家(-):杉本哲太さん

 

  〇頼朝の支援者たち

   比企尼(-):●

   比企能員(-):佐藤二朗さん

   安達盛長(46 :野添義弘さん

 

   三善康信(41):小林隆さん
 

  〇三浦党の人々

   三浦義明(89):●

   三浦義澄(54):●

   三浦義村(-):山本耕史さん
   和田義盛(34):横田栄司さん

 

  〇御家人たち

   梶原景時(-):二代目中村獅童
   畠山重忠(17):中川大志さん

   土肥実平(-):阿南健治さん
   千葉常胤(63):●

   上総広常(-);●

   足立遠元(-):●

   八田知家(-):●

 

  〇平家方の人々

   平清盛(63):松平健さん
   平宗盛(34):小泉孝太郎さん
 

   伊東祐親(-):辻萬長さん
   大庭景親(-):●

 

  ※()内は頼朝挙兵(治承四年)時の年齢

  ※●印はキャスト未定

 

 

 第二章 源平の争乱(第九~十二回) ※3月ごろ

  清盛なき後、平家を都から追ったのは信濃に挙兵した木曽義仲であった。北陸宮を即位させ、主導権を握ろうとする義仲。頼朝は二人の弟を呼ぶと、彼らに都への進撃を命じた。義仲を倒した鎌倉勢は平家を西海に追って、壇ノ浦に沈め、凱旋した義経は兄・頼朝から鎌倉を追われる。奥州藤原氏を頼った義経に、北方の王者・藤原秀衡が手を差し伸べた。

 

  第九回 武士の国、広常誅殺

   富士川の合戦後、平家追撃にはやる頼朝を押しとどめた上総介広常は、頼朝にさえも遠慮することなく振る舞い、その傲慢さは日増しに強くなっていった。鎌倉の瓦解を恐れた梶原景時はついにある決断をする。一方、頼朝に強い対抗心を抱く木曽義仲は、我が子を人質に頼朝との衝突を回避し、都へ向けて進撃を開始する。

 

  第十回 義仲没落、一の谷、京下りの官人

   平家を都から追った義仲は北陸宮を即位させ、主導権を握ろうとするが、かえって朝廷の強い反発を招き、頼朝の命を受けた範頼、義経を大将とする鎌倉勢に破れる。いったんは西国に撤退していた平家勢だったが、一の谷まで勢力を盛り返しつつあった。そんな中、大江広元ら京下りの官人たちが鎌倉を訪れた。

  ※鎌倉殿との出会い:〇大江広元、〇中原親能、〇二階堂行政

 

  第十一回 義経任官、屋島・壇ノ浦、義経襲撃

   無断任官で頼朝の怒りを買った義経は平家討伐軍の大将を外され、範頼は苦戦していた。業を煮やした頼朝が義経を復帰させると、義経は屋島の平家を奇襲して破り、ついには平家を壇ノ浦に沈めた。しかし、凱旋した義経を頼朝は鎌倉に入れず、都へ追い返してしまう。頼朝は、土佐房昌俊を刺客として義経に放った。

 

  第十二回 秀衡の死、衣川、奥州征伐

   頼朝の襲撃を受けた義経はついに頼朝への反撃を決意する。しかし、義経は挙兵に失敗し、奥州藤原氏を頼って、平泉に逃亡する。藤原秀衡は義経を匿い、彼を総大将とし、

鎌倉と戦うことを決断する。しかし、秀衡が亡くなると、嫡男の泰衡は父の遺言に反し、衣川に義経を襲って殺害する。義経の首は鎌倉に届けられるが、奥州征伐軍は予定どおり鎌倉を進発した。頼朝の狙いは最初から奥州藤原氏を滅ぼすことにあったのである。

 

 【配役(第二章から)】

  〇頼朝・政子夫妻と北条家の人々
   大姫(8):●

 

  〇頼朝の血縁者たち

   木曽義仲(-):● ※享年31(1184年)

   源義高(-):● ※享年12(1184年)

 

  〇義経をめぐる人々

   静御前(-):●

   弁慶(-):●

 

  〇奥州藤原氏の人々

   藤原秀衡(64):●

   藤原奏衡(31):●

   藤原国衡(-):●

 

  〇幕府の文官たち

   大江広元(38):栗原英雄さん

   中原親能(43):●

   二階堂行政(-):●

 

  〇平家の人々

   平知盛(34):●

   平教経(-):●

 

  〇宮廷の人々

   後白河法皇(59):●

   九条兼実(37):●

   一条能保(39):●

 

  ※()内は平家滅亡(文治元年)時の年齢

  ※●印はキャスト未定

 

 

 第三章 天下草創(第十三、十四回) ※4月ごろ

  文治五(1189)年、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、建久元(1190)年、ついに上洛する。頼朝は後白河法皇との会談で征夷大将軍を望むが、法皇はそれを許さなかった。しかし、建久三(1192)年、法皇が崩御すると、頼朝は征夷大将軍となる。大姫の入内を狙う頼朝は土御門通親に接近し、盟友・九条兼実の失脚を招いてしまう。

 

 第四章 巨星墜つ(第十五、十六回)) ※4月ごろ

  大姫を失ったものの、頼朝の野望が潰えることはなかった。建久七年の政変で失脚した盟友・九条兼実に再度の上洛と巻き返しを誓った頼朝であったが、その約束を果たすこともなく、同九年十二月二十七日、頼朝は橋供養の帰りに落馬し、翌十(1199)年正月十一日、薨去した。享年五十三。

 

 

■第ニ部(第十七~四十八回)) ※5~12月ごろ
 第ニ部では、鎌倉殿(頼朝)の死後、武都鎌倉における有力御家人間の相克を制し、覇権を握った主人公・義時が後鳥羽上皇率いる公家勢力との最終決戦に挑み、ついには武家による統治を確立するまでを描く。

 

 第一章 謀臣・梶原景時(第十七~二十回) ※5月ごろ

  鎌倉殿の謀臣・梶原景時を排除することは、武都鎌倉の覇権を握るためには不可欠の条件であり、避けては通りえない道のりであった。景時を鎌倉から追った時、武都の重しはなくなり、創業の功臣同士の、出口の見えない凄惨な相克が始まったのである。

 

 第二章 外戚・比企能員(第二十一~二十四回) ※6月ごろ

  すべてを失い、流人となった佐殿(頼朝)を二十年の長きにわたって庇護し、支えてきたのはまぎれもなく比企尼の一族であった。比企氏が族滅の憂き目に遭った時、鎌倉の本質は別なものへと変貌した。

 

 第三章 執権・北条時政(第二十五~三十二回) ※7・8月ごろ

  暴走する初代執権(時政)の前に立ちはだかり、父・時政を乗り越える。それ以外に鎌倉を取り戻す方法はないと義時は覚悟した。義時は決して引き返すことのできない一歩を今、踏み出そうとしていた。

 

 第四章 侍所別当・和田義盛(第三十三~四十回) ※9・10月ごろ

  すべての御家人を統べる者。それが侍所の別当・和田義盛であった。武家が統治する国をつくること。そんな夢をともに追ってきた友を倒し、踏み越えてこそ、すべての御家人に君臨することができるのだ。

 

 最終(第五)章 承久の乱(第四十一~四十八回) ※11・12月ごろ

  いまや鎌倉に義時と覇を競いうる敵はなかった。しかし、打倒義時を掲げる後鳥羽上皇は全国の守護や地頭たちにも檄を飛ばし、京都に挙兵した。鎌倉開府以来、最大の危機を義時はどう乗り切るのだろうか。