■前回(比叡山に棲む魔物)の復習
(あらすじと感想) 
 元亀元(1570)年秋、朝倉義景(38)は金の力で延暦寺を味方に引き入れ、浅井・朝倉勢は叡山に立て籠もっていた。西には摂津の石山本願寺と三好三人衆、南には近江の六角義賢(50)と伊勢の長島一向一揆。信長(37)に敵対する勢力が活発化し、その包囲網を縮め、信長は窮地に立たされていた。
 近江宇佐山城では、叡山に立て籠もったまま出てこようとしない浅井・朝倉勢に、信長が業を煮やしていた。そんなとき、義景の重臣・山崎吉家からの書状が叡山から光秀(43)のもとへ届く。光秀は早速、叡山に向かった。和平交渉に応じてもいい旨の返事が吉家からあったのである、

 

 京・二条城。「信長と朝倉はいつまで戦を続けるつもりか」。将軍義昭(34)が摂津晴門を詰問する。「わーかーりーまーしぇーん」。舐めプな受け答えをする晴門。だから、鶴ちゃんやり過ぎだってばさ(度が過ぎると、緊張感がなくなるから、ほどほどにしようよ…)。切れる義昭。

 別室では我らがお駒ちゃんが義昭を待っていた。竹籠の蜻蛉は死んでいた。「織田と朝倉の戦はいつまで続くのか」と駒が問う。「わからぬ」と義昭。無残な蜻蛉の死骸が戦いの行く末を暗示しているかのようだった。

 比叡山。和平交渉に訪れた光秀を迎える吉家、それを物陰から伺う菊丸。吉家に案内された光秀は、織田との和平を取り持つと義景にいう。信長は、長年叡山が京に持つ所領や商業利権を奪った。少なくとも、叡山のボス(天台座主)・覚恕(50)はそう考えている。それゆえ、覚恕にひれ伏さない限り、和平はありえないだろう、と義景はいう。

 覚恕に引き会わせてくれ、と義景に頼む光秀。異母兄・正親町天皇(54)への恨みつらみを述べ、自虐する覚恕は、金と権力さえ握れば、異母兄を屈服させられると考え、事実そうなったと語り、その金と権力を信長がことごとく奪ったのだと主張する。

 京の東庵屋敷。駒の丸薬を転売して生計を立てている少年が丸薬を求めてやってくる。親が妹を叡山の僧に売ってしまったため、妹を買い戻す資金を稼ぐのだと少年はいう。

 そんな折、石山本願寺の檄に呼応した伊勢長島の一向一揆が尾張小木江城を襲撃し、信長の弟・信興は自害して果てる。

 比叡山の覚恕館では、覚恕と晴門が密談していた。将軍義昭からは何度も和睦の勧めがあり、義景もそうしたがっていたが、一蹴してやった、と覚恕。「信長はすでに袋の鼠。何も助けてやる必要はない」。そういうと覚恕は憎しみのこもった笑いで顔を歪ませた。我が意を得たりと、晴門も笑った。床下に潜んでいた菊丸がその一部始終を聞いていた。

 

 近江宇佐山城。光秀が信長に一通の書状を手渡した。家康(29)の忍び(菊丸)が覚恕館で聞いた、覚恕と晴門との密談内容を知らせてきたのである。義昭による和睦の斡旋が功を奏しないのも無理はなかった。すぐ側に裏切り者がいたのだ。そうだ、帝を動かせばいいのだ。幕府が腐っているなら、朝廷を動かせばいいだけのことだ。信長はそう考えた。

 京・御所。正親町天皇の碁の相手をする東庵。信長が叡山(覚恕)との和睦を望んでいるが、仲介すべきか。帝が東庵にそう尋ねると、将軍義昭が和睦の斡旋に尽力していることを東庵は教えた。覚恕は初めから将軍を相手にはしていない。覚恕は異母兄のじぶんを屈服させることにしか関心がないのだ、と帝は嘆息した。「信長を助けてやろうぞ。信長は、覚恕が見て見ぬふりをしていた御所の屋根を修復してくれた」

 近江・三井寺では、二条晴良が信長と浅井・朝倉、延暦寺とを和睦せしめる勅命を伝えていた。信長が押領した所領を還付し、叡山の利権を認めることが条件であった。同年十二月十四日、信長は義景、長政と和睦し、岐阜に帰った。義景と長政もまた、それぞれの領国に帰った。
 とある一室。覚恕と晴門が密談している。「信長は我らを甘く見ていたのだ。これで、古き良き都に戻るであろう」と覚恕がいうと、武田信玄(50)を上洛させ、信長の力を封じたいと思うが、どうかと晴門が尋ねる。「信玄とは文通してるし、いいんじゃね?」と覚恕。
 二条城では義昭が能を鑑賞していた。そこに筒井順慶(22)が招かれていることを知って激怒する久秀(61)。それを見てほくそ笑む晴門。席を立った久秀は、じぶんと順慶との仲を承知した上で、恥をかかせるために招いたのか、と光秀に食ってかかる。それが公方様のやり方だ、と久秀の怒りはおさまらなかった。光秀は、なぜ久秀をこの席に招いたのか、と晴門を詰問する。二人を仲直りさせようという、公方様の親心だ、と嘯く晴門。叡山で覚恕を煽って和平の邪魔をしていたのも親心のうちか、と晴門をにらみつける光秀。「何それ?」としらを切り、「戦は終わったんだから、もういいんじゃね?」と晴門。光秀は憐れむかのように晴門を見やると、信長の戦はこれからだ、と言い放った。

 

 叡山を撫で切りにせよ。元亀二(1571)年秋、比叡山山麓に軍を集結させた信長は、全軍にそう号令した。比叡山延暦寺、駒の丸薬を売る少年は突然目の前に飛び出してきた女が背後からバッサリと斬られて倒れるのを目撃した。織田軍が叡山に侵入し、あちこちの堂塔に放火し、虐殺を始めたのである。丸薬売りの少年の肘が誰かに触れ、振り返った途端、彼の断末魔の叫びがあたりに響き渡った。全山は血の海と化した。山には非戦闘員もいるが、彼らをどうするか。光秀の問いに対し、「山から退去するよう、事前に警告したはずだ。全員殺せ」。容赦なく信長は命じた。

 信長の命令どおり、一人残らず殺すのか、と光秀の配下が尋ねると、「女子供は逃がせ」と光秀は呻くように答えた。

※()内の数字は『国史大辞典』(吉川弘文館)に基づく、元亀元(1570)年時の年齢。但し、明智光秀は同辞典で生年不詳とされているため、『日本人名大辞典』(講談社)によった。

(史料から)
〇『武徳編年集成』に、次のような話がのっている。「(元亀元年十二月)十六日、信長佐和山邊磯野郷ニ至り、丹羽長秀、水野信元ニ対顔ス、今度ノ和睦ハ庚申ノ夜ノ俗歌ト思フベシト宣フ、是ハ和睦シテセヌガ如キト云心ナリ」。今だけ(その場を取り繕う一晩限り)の和睦ということか。信長の予告どおり、およそ九ヶ月後には叡山は阿鼻叫喚の地獄絵図と化すのであった。
〇『公卿補任』には「元亀ニ辛未年九月十二日、叡山中堂、日吉社、三院、一宇不残放火、織田弾正忠信長発向」とある。

〇『言継卿記』同日条には「織田弾正忠、(中略)山衆悉討死云々、(中略)僧俗男女三四千人伐捨、堅田等放火、仏法破滅、不可説々々々、王法可有如何事哉」とある。

〇武田信玄が幕臣・上野清信に宛てた元亀四年正月十一日付の書状では、叡山を焼討ちした信長を非難し、信長のことを「天魔破旬變化也(第六天魔王・破旬の化身だ)」と書いている(『京都御所東山御文庫記録』)

〇『当代記』によれば、信長は、後々まで叡山を再興することがないよう、皆に誓わせたという。

 

■予習:焼討ちの代償
(背景と展望)

 叡山焼討ちについては、悪僧たちの自業自得だという声も少なくはなかったものの、全山残らず焼き尽くし、僧俗の別なく、老若男女を殺戮した所業には誰もが戦き、大きな衝撃を受けた。人々の、信長に対する恐怖と憎しみがこれ以上ないほどに高まり、世間は非難と怨嗟で満ち満ちた。将軍義昭と信長の心も大きく離れていった。

 そして、元亀三(1572)年秋、ついに甲斐の虎・武田信玄が立ち上がったのである。

#それにしても、小朝さんの覚恕は本当に憎々しげで、絶品だったなぁ。さすがだ。ベテラン#の役者たるものはかくあるべし、といった感じだ。落語家だけど。