道の駅高田松原 です。
東日本大震災で甚大な被害を受けた道の駅は6か所ありましたが、今なお再開の目処が立っていないのが、この “道の駅高田松原” と 福島県の “道の駅ならは” です。
休館中であることは分かっていましたが、今の状態がどうなっているのかを知りたくてナビを設定しました。
途中の道の駅標識は、1か所もありませんでした。
そして27kmを走って目的地に到着したのは、この場所です。
周りにほとんど何も無い空間に、それはぽつんと建っていました。
この、建物の土台だけしか残っていない広い空間を “田老” で初めて見て以来、ここまで限りなく目にしてきました。
いつの間にかその光景に慣れてしまった自分に怖い気がしました。
離れた場所に、もう一つ鉄筋の大きな建物が見えました。
ここは “キャピタルホテル1000” といい、歌手の千昌夫が関与したホテルなんですが、ご覧の通り破壊され、休館しています。
これも道の駅の近くにありました。
煙突らしきものが見えますが、なんだったのでしょうね?
道の駅高田松原の元の姿を知りませんが、内部は見事に破壊されつくし、まさに廃墟となっていました。
ここ “陸前高田市” は、かつては日本百景に数えられる白砂青松の “高田松原” があり、白い砂浜に樹齢300年を超える約七万本の松林が続いていました。
(HPより借用)
「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて カニとたわむる」 という石川啄木の詩は、この高田松原の情景を詠ったものです。
その松原もただ1本を残して消失し、“奇跡の1本松” といわれたその松も残念ながら元気を取り戻すことは無かったようです。
その美しかったはずの町には、廃墟となった鉄筋の建物と、瓦礫の山が残されていました。
少し沈んだ気分で、今夜泊るホテルに向かいました。
県境を越えて宮城県に入り、“気仙沼” に入ると、そこも似たような情景が広がっていました。
突然走っている進路の先で、信じられないものが目に飛び込んできました。
テレビの画面では何度も目にしましたが、走っている道路脇にこれだけの大きな船が横たわっているのにはさすがに驚きました。
周囲を見回しても、どちらが海なのかさえ分かりません。
一体、どの方向から流れて来たんでしょうか?
市内に入ると、この様な “復興屋台村” なるものも見掛けました。
おそらくお店を流された人たちが、ここで商売を再開したのだと思います。
今夜泊るホテルはこの “サンマリン 気仙沼ホテル観洋” です。
ANAのツアーのパックに三陸側のホテルは1カ所も無く、ネットでさんざん探して予約したホテルです。
予約したのは、「復興応援宿泊プラン2食付き」 というもので、1泊2食付きでひとり8,550円です。
ネットで予約すると折り返しホテルからメールが来て、「工事関係者の方々に宿泊いただいており、同じ会場でのお食事になります。夕食はセルフサービスです。」 と知らせてきました。
到着してみると、想像に反して10階建ての立派なホテルだったのでちょっと驚きました。
部屋タイプは “お任せ” となっていましたが、何故か私たちはおそらく最上級と思われる10階の角部屋で、和室の他に独立した洋風のベットルームがある、すごく広い部屋に通されました。
つい先日は、この部屋に “長渕 剛” が泊っていたんですよ、とホテルの人が教えてくれました。
ここは、少し高台にあり、ほんの近くまで水が来たけど、ホテル自体は無事だったのだそうです。
ライフラインが復旧したのが5月で、それ以降は “第二次避難所” といって、体育館などで体調を壊した人たちを優先して受け入れ、それが12月まで続いたとのことです。
これ以降も、“復興応援宿泊プラン” の名前のとおり、工事関係者やボランティアの人たちを優先して泊っていただいているとのことでした。
夕食は宴会場のような広い部屋にずらりとテーブルが並んでいました。
自分で順番に料理を取ってゆくセルフサービス方式で、テーブルについていたのはほとんどがボランティアらしい団体さんでした。
揃いのTシャツを着ている人たちが多く、ホテルの人の話では、今一番必要なボランティアは子供たちの精神面のケアらしく、そのような資格を持った人たちが全国から交替で来られているのだそうです。
この日は誰もお酒を飲んでいる人の姿は無く、私たちもさすがに遠慮しました。
このホテルのパンフレットにあった、気仙沼の街の様子がこれです。
おそらく同じ方向と思われる、私がホテルの10階の窓から撮った写真はこちらです。
見事に何もなくなっていました。
いくつか鉄筋の建物は見えますが、ほとんどは廃墟になっています。
ホテルの真下に見える街並みも空き地が目立ちます。
ホテルの方々、そして復興工事に携わっている方々、更に今も全国から集まってこられているボランティアの方々に本当に頭が下がりました。