向日にある長岡宮朝堂院跡です。
長岡京は、延暦3年(784年)から延暦13年まで、都が置かれていた場所。
延暦3年11月11日、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都。桓武天皇即位に尽力した藤原式家が主導権を握り、藤原種嗣が長岡京造営使となりました。
延暦4年、桓武天皇が平城京に行幸し不在の隙に、長岡京において造営使の藤原種嗣が何者かによって射殺されます。長岡京遷都に反対する者の仕業とされ、かつて南都・東大寺にいた皇太弟・早良親王の東宮坊側近たちが次々捕獲されます。早良親王も連座して皇太弟を廃され、乙訓寺に幽閉後、淡路国に配流。早良親王は道中、飲食を与えられなかったとも自ら断ったともされ、餓死しました。延暦7年、藤原旅子(桓武天皇夫人)、延暦8年、高野新笠(桓武天皇母)、延暦9年、藤原乙牟漏(桓武天皇皇后)、坂上又子(桓武天皇後宮といった桓武天皇の身内が次々死去。早良親王の怨霊と恐れられます。更に洪水により2度長岡京は甚大な被害を受けます。延暦13年、桓武天皇は長岡京を廃棄、平安京に遷都。長岡京は土に埋もれました。
長岡京の場所は長年不明でしたが、昭和29年からの発掘調査により、昭和30年、長岡京朝堂院南門跡、昭和37年、長岡京大極殿跡が発掘され、位置が確定しました。
長岡京は都が置かれていた期間が短く、天災や政変が続き、建造途中で放棄されたといわれていましたが、平安宮と変わらない規模であったことが立証されました。
国の史跡。
朝堂西第四堂跡。
朝堂院は朝廷の政庁が置かれた場所で、国家の公式行事を行う大極殿、官僚が日常業務を行う朝堂(八省堂)、出勤した官僚が朝堂院南門が開くまで待機する朝集堂などがありました。
こちらは朝堂の一つ、西第四堂跡。朝堂は東4棟、西4棟の合わせて8棟あったことから八省堂とも呼ばれます。朝堂のうち西側4番目の建物跡になります。
楼閣跡。
朝堂院南門の東西に楼閣があり、南門と回廊で繋がっていました。こちらは西楼閣の跡。平安宮の翔鸞楼に相当します。柱跡がコンクリートで表示されています。
回廊跡。
朝堂院南門から延びた回廊が、西楼閣に繋がる部分の回廊跡。
長岡宮朝堂院跡;京都府向日市鶏冠井町山畑



