大津にある近江国衙跡碑です。
律令制の成立とともに、それまで豪族が統治していた土地は収公され、中央から地方に国司が派遣されるようになります。国司が政務を行う国庁、国庁や倉庫群をすべて含んだ国衙が国ごとに作られました。
平安時代中期以降、国司の手が及ばない寺社や皇族、有力貴族に寄進された私有地である荘園が増え、また、国司が在京のまま地方を在庁官人に任せる遥任が増加。鎌倉幕府成立により武家政権が全国に守護地頭を配置、執権が相模国司、連署が武蔵国司を兼ねることが通例となり、朝廷は次第に実権を失います。室町時代には朝廷による国司の派遣は壊滅。戦国大名が国司名を通称として用い、朝廷に貢物を送って正式な国司に任じられるなどしました。江戸時代には朝廷による国土の支配は認められず、江戸幕府から禁裏御料を受け取るのみとなりました。国庁、国衙は衰退廃絶し、近江国庁、近江国衙の場所も分からなくなりました。
昭和35年(1960年)、付近で大量の瓦が見つかったことにより発掘調査され、昭和38年、基壇跡や建物跡を発見。日本で最初に見つかった国庁跡で、昭和48年、国の史跡となりました。以降、各地で国庁跡や国衙跡が発掘されるようになります。国庁は南面した前殿と後殿、左右に建ち並ぶ脇殿からなり、平城宮や平安宮の朝堂院を縮小した様式で、全国統一規格で建てられていたことが分かっています。
近江国衙跡碑;滋賀県大津市大江3