大津にある長等山前陵です。

 

  

円丘。

天智天皇崩後、その後継者であった大友皇子は吉野で挙兵した叔父の大海人皇子に瀬田橋の戦いで敗れ、天武元年(672年)7月23日、首を括って自害しました(壬申の乱)。

壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇となって即位。天武天皇が編纂を命じた「日本書紀」では大友皇子は即位していませんが、明治3年(1870年)、弘文天皇と諡号されて歴代天皇に加えられました。

大友皇子の塚と伝承されるものは一帯に複数あります。明治10年、宮内庁により亀丘と呼ばれていたこちらの古墳を弘文天皇陵に比定されました。

 

 

「弘文天皇 長等山前陵」

宮内庁設置の看板。

 

 

弘文天皇(大友皇子/648~672)は第39代天皇。天智天皇の第一皇子。母は伊賀宅子娘。母は身分の低い地方豪族出身の采女であったため、当初は後継として有力ではなかったともいいます。天智10年(671年)正月2日、天智天皇は大友皇子を史上初の太政大臣に任じて国政を総攬させ、実質的な後継者に指名します。同10月、病となった天智天皇は大海人皇子を呼んで後事を託すも、身の危険を感じた大海人皇子は天智天皇の大后・倭姫王を後継者とするよう進言、ただちに剃髪して吉野に籠ります。同12月3日、天智天皇崩。天武元年(672年)6月22日、大海人皇子は吉野で挙兵。同7月22日、近江大津宮に迫る瀬田橋の戦いで大海人皇子軍に敗れ、同23日、首を括って自害(壬申の乱)。享年、25歳。

 

 

 

長等山前陵;滋賀県大津市御陵町