堀川通二条下るにある堀河院跡碑です。

 

 

平安京左京三条二坊九町と十町にあった邸宅。堀河殿は、堀川小路に面していたことからの名。東隣に閑院がありました。

関白藤原基経が閑院とともに所有。その後、関白藤原兼通が入手、天禄2年(971年)、建物を新造。兼通の長女で円融天皇中宮の藤原媓子の里第となり、媓子は堀河中宮と呼ばれました。貞元元年(976年)、内裏が焼失すると再建までの間、兼通は媓子とともに娘婿の円融天皇を自邸の堀河殿に住まわせ、初の里内裏となりました。円融天皇は退位後の一年間、堀河殿を院御所としています(出家後、円融寺に移住)。

兼通死後は長男の顕光が相続。顕光の長女で一条天皇女御の藤原元子の里第となり、次女の藤原延子はここに三条天皇第一皇子・敦明親王(小一条院)を婿取りしました。顕光死後は売却され、藤原経国が入手。経国から関白藤原頼通に献上(成功)され、頼通からその六男・関白藤原師実が伝領。師実は堀河殿に住まず建物を新造、承暦4年(1080年)、白河天皇が里内裏とします。師実の養女で白河天皇中宮の藤原賢子(源顕房女)が産んだ堀河天皇はここで成長して即位、嘉祥2年(1107年)、在位のまま崩。この邸宅によって堀河院と諡号されます。その後は堀河天皇中宮・篤子内親王(後三条天皇第四皇女)の御所となり、永久4年(1114年)、篤子内親王はここで崩じました。保安元年(1120年)、堀河殿は全焼。以降は再建されず、廃止されました。

 

 

 

堀河院跡碑;京都市中京区堀川通二条下る