浜松にある曳馬城跡です。

 

曳馬城跡碑:浜松の史跡

 

鎌倉時代、足利義氏の庶長子足利長氏は三河国吉良荘の地頭となり吉良氏を称します。吉良氏は遠江国浜松荘にも領地を持ち、飛び地の浜松荘に代官を置いて支配していました。この城は、南北朝時代、吉良氏が家臣・巨海新左衛門尉に築城させたと伝わります。応仁の乱頃には吉良氏家臣・飯尾長連が浜松荘代官でした。

遠江守護の座を巡り、尾張・越前・遠江守護の斯波義廉と駿河守護・今川義忠は対立。応仁の乱で義廉が西軍につくと、義忠は東軍に付きます。東軍は義廉と家督相続争いをしていた斯波義良に尾張・越前・遠江守護を与えたため、義忠は義良と東軍同士でありながら敵対し、遠江侵攻。長連は吉良氏家臣であるものの今川義親に従い、義親の遠江侵攻に随行し戦死。吉良義信は長連の子賢連ではなく、吉良氏家臣・大川内貞綱を浜松荘代官に任じて曳馬城主とします。文亀元年(1501年)、賢連は氏親の支援で浜松荘代官の座を奪還。永正5年(1508年)、氏親は前将軍足利義植を援助する見返りに遠江守護の座を斯波義達から奪い取ります。永正8年、義達が今川方の刑部城を攻め、氏親は防戦。永正13年、義達の支援で曳馬城主・大河内貞綱が挙兵。氏親は貞綱を攻め滅ぼし義達を尾張に追い、遠江を名実ともに支配。吉良氏は浜松の支配権を今川に奪われるも今川の本家筋であるため和解、今川氏親の娘徳蔵院が吉良義堯に嫁ぎました。正式に今川氏親の家臣となった飯尾賢連は曳馬城に入り、飯尾乗連、飯尾連龍が今川氏に仕えて城主となりました。

永禄8年(1568年)、連龍は謀反の疑いで主君今川氏真に殺害され、連龍の未亡人鵜殿田鶴が曳馬城主となります。永禄11年、三河岡崎城主・徳川家康は田鶴に城を引き渡せば面倒を見ると手紙を送るも、田鶴は拒否。家康は曳馬城を攻め、田鶴は侍女たちとともに討死したと伝わります。

家康は岡崎城から曳馬城に移って居城とし、城を拡張して浜松城と改名しています。

 

 

 

曳馬城跡碑;静岡県浜松市中区元城町