静岡にある徳願寺です。

 

徳願寺の石碑と石段、山門

 

大窪山徳願寺という曹洞宗の寺。

もとは大窪寺という古刹で徳願寺山山頂にありました。今川義忠の正室・北川殿が東側中腹に移して中興。このとき北川殿の法号・徳願寺殿慈雲妙愛大姉から得願寺と号したといいます。元禄元年(1688年)、現在地に移転。

明治時代、現在の寺号となりました。

 

徳願寺:緑豊かな庭園と寺院

 

本堂。

本尊・千手観音像を安置します。

 

徳願寺 北川殿墓石と墓標徳願寺 北川殿墓 石碑

 

北川殿墓。

北川殿(?~1529)は駿河今川氏6代当主・今川義忠の正室。伊勢盛定女。母は伊勢貞国女。伊勢盛時(北条早雲)の姉。父盛定は室町幕府申次衆で、応仁の乱で上洛した駿河守護今川義忠の取次役であり、この縁で北川殿は義忠の妻となり駿河下向。栄保(正親町三条実望室)、龍王丸を産みます。文明8年(1476年)、遠江へ侵攻した夫の氏親は、金寿城主・横田四郎兵衛と勝間田城主・勝間田修理亮を討った帰り、残党に襲われ討死。龍王丸は6歳と幼く、家臣は義忠の従弟小鹿範満を推し、範満の母方血縁である扇谷上杉家当主・上杉定正は範満を支援するため出陣。北川殿は龍王丸を連れ駿河今川館を出て小川城へ逃れ、都にいた弟の伊勢盛時(北条早雲)に仲裁を依頼。盛時は室町幕府8代将軍足利義政に図って駿河へ下り、龍王丸成人まで範満が家督を代行することで決着、範満が駿河今川館に入ります。文明19年(1487年)、龍王丸は17歳になるも範満は家督代行を退かず、北川殿は再び弟盛時に駿河入りを要請。盛時は駿河入りすると小鹿範頼を攻め滅ぼし、龍王丸は駿河今川館に入って元服、今川氏親となり家督相続。北川殿は駿河今川館の北を流れる北川のほとりに別邸を建てて住んだため、北川殿と呼称されます。氏親擁立に貢献した盛時は、今川家客将となって所領を受け、後に今川家から独立して伊豆、相模の戦国大名となります。大永6年(1526年)、氏親死去。享禄2年(1529年)、死去。

 

 

 

徳願寺;静岡市駿河区向敷地689