藤枝にある長慶寺です。

 

藤枝長慶寺の石柱と山門

 

大揚山長慶寺という臨済宗妙心寺派の寺。

駿河今川氏3代当主・今川泰範は父範氏に続き山城の花倉城を拠点とする一方、麓のこの付近に居館を設け、嘉永年間、この寺を創建したといいます。寺名は泰範の法号・長慶寺殿大山仲高大禅定門によります。

今川義元の軍師であった太原雪斎は、晩年この地に隠居して長慶寺を復興。雪斎の墓もあります。

 

藤枝長慶寺の正面。庭園と山。

 

本堂。

本尊・釈迦如来像を安置します。

 

今川泰範公墓と太原雪斎和尚墓

 

今川泰範公墓(左)、太原雪斎和尚墓(右)。

 

今川泰範公墓と太原雪斎和尚墓

 

今川泰範公墓。

今川泰範(1334~1409?)は駿河今川氏3代当主。駿河、遠江守護。駿河今川氏2代当主・今川範氏の次男。建長寺に入り出家。貞治4年(1365年)、父範氏死去。祖父の範国は叔父の貞世に家督相続させようとしますが、貞世が範氏の遺児を推して固辞したことにより、兄氏家が後継者となります。氏家も没し、僧籍にあった泰範が還俗して家督継承。駿河・遠江守護となります。永和4年(1378年)、上洛して室町幕府3代将軍足利義満に仕え、侍所頭人。明徳の乱、応永の乱に幕府軍として参加。応永2年(1395年)、九州探題を解任された叔父の了俊(貞世)が駿河・遠江半国守護となり、泰範は領国の半分を取り上げられたため反発。泰範は将軍義満に了俊が大内と結んで反乱を企てていると讒言、了俊から守護国を奪い返します。応永7年、義満は関東管領上杉憲定に了俊追討令を発令。泰範は了俊を讒言し守護国を奪ったものの、かつて家督継承を譲られた恩により義満に取り成し、了俊は助命されました。一連のごたごたのためか、応永12年、駿河今川氏は遠江守護を取り上げられ、将軍義満の猶子で尾張・越前などの守護・斯波義重に与えられました。

 

太原雪斎和尚の墓:藤枝 長慶寺

 

太原雪斎和尚墓。

太原雪斎(1496~1555)は戦国時代の軍師。駿河国庵原城主・庵原政盛の子。母は駿河興津城主・興津正信女。父方母方ともに駿河今川氏の譜代家臣。善得院に入り出家、九永承菊と号し、上洛して建仁寺で修業。主君今川氏親の命により氏親の五男・芳菊丸(後の今川義元)の養育係を命じられ、芳菊丸は建仁寺で得度して栴岳承芳となります。大永6年(1526年)、今川氏親死去、長男氏輝が家督継承。栴岳承芳が兄氏輝の命により駿河に呼び戻されたため、ともに駿河へ帰ります。天文5年(1536年)、氏輝とその同母弟彦五郎が同日に死去。同年、氏親の正室・寿桂尼の命により栴岳承芳は還俗、今川義元となり後継者になります。これを不服とした義元の異母兄玄広恵探が外戚の福島氏に擁立されて反乱を起こし、承菊は兵を率いて玄広恵探を攻めて鎮圧、玄広恵探は自害(花倉の乱)。駿河今川氏当主となった義元に側近の軍師として仕えます。甲斐武田氏との間に甲駿同盟を締結、武田信虎の娘定恵院が義元の正室となります。天文12年、臨済宗建仁寺派から妙心寺派に移り、法号を太原雪孚と改めます。よく知られた雪斎の号は、居住した庵によるもの。天文15年、織田信秀に攻められた三河国岡崎城主松平広忠が義元に助けを求め、雪斎は兵を率いて出陣。信秀を三河から追い、信秀の庶長子織田信広を生け捕ります。先に今川の人質に出されていた広忠の長男竹千代(後の徳川家康)は織田に奪われたため、信広と交換で取り戻し今川の人質とします。天文23年、武田、後北条との間で甲駿相三国同盟締結。義元の嫡男氏真の正室に北条氏康の娘早川殿を迎えます。弘治元年(1555年)、長慶寺で死去。享年、60歳。

 

 

 

長慶寺;静岡県藤枝市下之郷1225