鎌倉にある旧華頂宮邸です。

 

 

昭和4年(1929年)、侯爵華頂博信の邸宅として建てられた西洋風建造物。外にはフランス式庭園が広がります。

博信は断絶した華頂宮家の祭祀を引き継いでいたため、旧華頂宮邸の名があります。

江戸時代、宮家は四家に限られていましたが、慶応4年(1868年)、これまで門跡に入り出家していた皇族子弟は軍人になるべく還俗を命じられて宮家増設。知恩院に入り出家していた尊秀(伏見宮邦家親王の十二王子)は還俗して博経親王となり華頂宮家が成立します。血縁の遠い伏見宮系の宮家が大量に増設されたことから、大正13年(1924年)、華頂宮博忠王が22歳で死去したのをもって華頂宮家は断絶。博忠王の実弟・博信王が臣籍降下し侯爵華頂博信となって華頂宮家の祭祀を引き継ぎました。

平成8年(1996年)、鎌倉市が取得。普段は外観のみの公開で、年に数日、特別公開があります。

 

 

華頂博信(1905~1970)は戦前の華族。伏見宮博恭王の第三王子。母は徳川経子(徳川慶喜の九女)。大正14年、皇族として貴族院議員。大正15年10月、勲一等旭日桐花大綬章。同12月7日、臣籍降下、皇族議員退任。実兄の華頂宮博忠王死去後断絶していた華頂宮家の祭祀を引き継いで華頂博信を名乗り、侯爵に叙せられます。同13日、閑院宮華子女王(閑院宮載仁親王の第五王女)と結婚。昭和10年(1937年)、侯爵として貴族院議員。昭和12年、海軍大学校卒業。昭和14年、海軍大学校教官。終戦後の昭和21年、貴族院廃止により貴族院議員辞任。昭和26年、妻華子と離婚。華子は工業クラブ嘱託の戸田豊太郎と不倫、豊太郎にも喜和子(徳川慶喜の孫)という妻があったためW不倫でした。華子の実兄閑院春仁が週刊誌に妹を諫める投稿を行い、博信も週刊誌の取材に応じて妻の不倫相手と自宅で鉢合わせしたことを暴露したため泥沼化。戸田も離婚し、豊太郎と華子は再婚。博信は渡米し、後に再婚。昭和45年、死去。

 

 

 

旧華頂宮邸;神奈川県鎌倉市浄明寺2-6-37