鎌倉にある浄光明寺です。

 

 

泉谷山浄光明寺という真言宗泉涌寺派の寺。

建長3年(1251年)、北条長時が真阿を開山として創建。

北条長時(1230~1264)は鎌倉幕府6代執権。北条重時の次男。母は治部卿局(平基親女)。長時が生まれた年、父重時は六波羅探題北方となり上洛、長時も都で育ちます。嘉禎元年(1235年)、異母兄為時が病気を理由に廃嫡、長時が嫡男となります。宝治元年(1247年)、父重時が鎌倉へ戻って連署となり、長時は父の後任として六波羅探題北方に就任。妹の葛西殿が鎌倉幕府5代執権・北条時頼の継室となります。建長8年、父重時死去。鎌倉へ戻り、評定衆。同年、武蔵守。同年、執権時頼が出家。時頼の嫡男時宗幼少のため、母方伯父の長時が執権就任。政の実権は得宗時頼が握り、得宗専制政治を行いました。文永元年(1264年)、病のため執権を辞し、同年死去。

浄光明寺の拝観日は、木、土、日、祝。

 

 

客殿。

 

 

不動堂。

 

 

本堂。

本尊・阿弥陀如来像を安置します。

 

 

網引地蔵尊。

 

 

冷泉為相墓。

冷泉為相(1263~1328)は鎌倉時代の公家。藤原為家の子。母は阿仏尼。文永2年(1265年)、従五位下。建治元年(1275年)、父が没すると異母兄・二条為氏との遺産相続争いが勃発、弘安2年(1279年)、母阿仏尼は訴訟のため鎌倉へ下ります(このとき阿仏尼が記した道中の紀行文が「十六夜日記」)。徳治3年(1308年)、従三位、参議。延慶3年(1310年)、右衛門督。応長2年(1312年)、従二位。文保元年(1317年)、正二位、権中納言。同年、出家。母阿仏尼が鎌倉へ下った関係で為相もたびたび鎌倉へ来訪、「藤ヶ谷式目」を表して鎌倉における連歌の歌壇を主宰。娘は鎌倉幕府8代将軍・久明親王(後深草天皇第六皇子)の側室となり、出家後は鎌倉へ移住して久明親王に近侍しました。嘉暦3年(1328年)、鎌倉で死去。

 

 

境内からの景色。

 

 

 

浄光明寺;神奈川県鎌倉市扇ヶ谷2-12-1